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月夜の鵺  作者: 空木弓
18/43

第一部 姉(十七)

 文九郎が言い終えて部屋の中を見回すと、大奥様の顔色だけでなく、座敷にいた稲葉家の縁者全員の顔色が青白くなっていた。

「な、なにを戯けたことを!」

 すぐに言い返せたのは、大奥様だけだ。

「あっしは町方の探索の手伝いをしてるんです。だから、そこのお殿様が金杉の浜で見つかった時の様子もちゃんと耳に入ってるんですよ。ごまかしたって無駄です。ここで洗いざらい打ち明けられたくなきゃ、綾音様にお顔を拝ませてやっておくんなせぇ。圭之助様はあんたと違って優しいお人だったってんなら、なおさらだ。圭之助様も綾音様にお会いしたかったんじゃねぇですかね」

 文九郎は「あんた」以降はまた大奥様を睨み付けていた。

「文九郎殿、今言ったことは事実なのですか?」

 綾音の声だ。震えている。

「刀を抜いていなかった?二刀を差していたのに、ですか?」

 文九郎はゆっくりと綾音に向いた。

「はい。二刀を差していたのにどちらも鞘に収まったままでした。後ろからの袈裟斬りに……いや、袈裟斬りで浜に俯けに倒れておられたそうです」

 圭之助は袈裟斬りのうえに、念を入れたように心の臓辺りも後ろから刺されていたのだが、その点は敢えて伏せた。

「そんな、どうして……」

 顔は能面のままだったが、綾音の全身が震えていた。

「不意をつかれたってことでやしょうが、あっしは他にも油断してしまう理由があったと思ってやす」

「顔見知りということだな」

 渋い男の声が聞こえた。文九郎が声の元を見ると、濡れ縁近くの隅に座っていた四十過ぎくらいに見える慈姑頭をした総髪の男だった。誰だと訝る文九郎の耳に綾音の声が聞こえた。

「圭之助様の叔父上、儒学者でお医者様の林英昌(はやしえいしょう)様です」

 儒学者である医者というのは、後の世からは不思議に思えるが、この時代には医者の多数派である。

 文九郎は儒医者に頭を下げてから、言葉を返した。

「へい。そうとしか考えられやせん」

「検視をした医者は、下手人は巷を騒がせている辻斬りと判断したというが、どこまで当てにできるのかね?その医者の言うことが正しいなら、辻斬りは圭之助の顔見知りということになる」

「検視したお医者様は八割から九割は例の辻斬りだろうと仰いました。これまでに斬られた七人のうち六人を検視されたお方ですから、ご判断はまず間違いないと思いやす。もちろん八割から九割です。絶対とは言っておられやせん」

「……圭之助様の顔見知りに辻斬りの下手人が?」

 綾音の声は小さく、震えは大きくなっていた。

 文九郎は座敷にいる連中を見回した。もしかしたら、誰かに何か覚えがありはしないかと、一人ひとりの様子を確認した。儒医者の叔父以外は皆、驚いて言葉も出ないようだった。

「兄上にそのような、辻斬りをするような知り合いがいるとは考えられませぬ」

 やっと口を開いたのは三之助だった。声が震えている。

「しかし、そう考えないと、圭之助の死があまりに無様だ。第一、圭之助はそんな死に方をするような間抜けではない。そのことはお主が一番良く分かっておろう」

 儒医者の叔父だけが冷静だ。


 不思議な集団だった。文九郎には当主である圭之助の突然の死を心から悲しんでいるのは、大奥様、奥方と末の弟らしい前髪の少年だけに思えた。他は仕方なしにそこにいる感じだ。そして三之助は綾音を見つめていた。

義姉上(あねうえ)、変わり果てた姿ですが、兄を……兄を……」

 三之助はそこから言葉を継げず、片手で顔を覆った。綾音は三之助に歩みより、そっとその肩に手を置いた。

「義姉上!」

 顔をくしゃくしゃにした三之助が綾音に抱き付いたから、文九郎は驚きすぎて後ろへひっくり返りそうになった。

 自ら出迎えに現れたことといい、人目を憚らず綾音に抱きついたことといい、三之助は義理の姉である綾音にただならぬ思いを抱いているらしい。

  文九郎の予想通り、大奥様が恐ろしい目で二人を見ていた。

「三之助殿、お気持ちお察し致します。これからは貴方様がこのお家を背負うのですから……」

 綾音の淡々とした言い方と三之助の号泣に、文九郎は芝居を見ている気分になった。

 この異様な状態がいつまで続くのかと文九郎に変な汗が出はじめた頃、漸く三之助が綾音から離れた。三之助が綾音にしがみついている間、綾音の手は自身の両脇に垂れたままだった。

「も、申し訳ありませぬ。取り乱してしまい……さ、義姉上、こちらへ」

 三之助は腕で顔を拭いながら立ち上がると、兄の亡骸へと向かった。綾音は黙って三之助に続いた。

 三之助がそっと顔を覆う白布を持ち上げた。

 文九郎も濡れ縁から白布の下の顔を覗き見た。圭之助は弟と違って線の太い、眉は濃く口元の引き締まった、武者人形に採用されそうな顔つきをしていた。

  文九郎に見えたのは綾音の後ろ姿だったから、どんな表情で元夫の死に顔を見つめていたのかは分からない。身動ぎもせず、見つめていたようだ。

 やがて綾音が三之助に礼を言い、再び座敷の一同に頭を下げ、うつむきかげんのまま濡れ縁へ戻ってきた。文九郎の前でやっと顔を上げた。死んだ魚の目だった。

「お暇いたしましょう」

 聞きたいことが色々あったが、今はその時ではないと文九郎は黙って綾音の後ろについた。


 もうすぐ門にたどり着くという時に追いかけてくる足がして、またしても三之助の声が聞こえた。

「義姉上、お待ちください!お話があります!」

 綾音とともに文九郎が後ろを向くと、三之助はそこにいるのは綾音と自分だけというように、文九郎には一瞥もくれず、綾音の傍へ走り寄った。

「義姉上、誠に身勝手な話と承知でお願いがあります。喪が明けたら、今度は私の妻になってはもらえませぬか」

 文九郎はこいつ、本気で綾音様に惚れてるのかと思いかけたが、三之助が続けた言葉に文九郎は即刻その考えを取り消した。

「母上はいと殿をそのまま私に目逢わせようと考えておられるのですが、私はあなたでないとだめです。いと殿は私を助けてくれない」

 今度こそ貴女を幸せにしますとか、今度はきっと母から守りますとかではなく、自分を助けてもらいたい、である。

 どうやら三之助は綾音に女として惚れているのではなく、第二の母親として慕っているらしい。

 一人の母親も知らない文九郎にしたら、二人の母親に面倒を見てもらおうとはあまりに贅沢な話である。もとい、綾音を第二の母親代わりにするような輩のためにこの針の筵のような家に再度嫁がせるなどあってはならない。

 文九郎はもしもまた三之助が綾音に触れようとしたなら、突き飛ばす気でいた。

 そのとき突然後ろに人の気配を感じ、文九郎は思わず身構えながら素早く振り向いた。目の前に儒医者がいた。

 儒医者は文九郎の顔を見て、にやりと口の端をあげただけの笑みを見せた。すぐに文九郎から三之助へと視線を動かした。

「三之助、お前も困った奴だ。綾音殿が困惑しているではないか。綾音殿を口説く前に、まず母親を口説かぬか」

 面白がっている口調だ。

 三之助は腹立たしそうに叔父を見た。何も言わず、踵を返して母屋へと戻っていった。

 二人がすれ違った時にほぼ同じ背格好なのが文九郎の目についた。顔も性格も正反対といっていい二人の唯一同じところだなと文九郎は思った。

「綾音殿、三之助の無作法を許してやってくれ。あれは小心者だ。当主には向かぬ。末の清五郎に跡目を継がせた方が良いと思うが、私の言うことなど聞くわけがない。ところで」

 儒医者が突然文九郎を見返った。現れた時と同様、文九郎はどきりと心の臓が踊った。

「お主、名はなんと言うのかな。濡れ縁にあがったときの姿と声音には驚いた。新見の御先代に良く似ておる」

 儒医者は感慨深く文九郎の顔を見ていた。

 文九郎はというと、例のごとく背中を虫酸が走っていた。

「文九郎と申します。お祖父様を御存知のお方は皆そう仰います」

 綾音が答えた。

「押し出しも大事な大御番衆に適任ではないか。よかったな、綾音殿」

 勝手に話を進められて文九郎は慌てた。用は済んだのだ。ここはさっさと帰るのみ、である。

「綾音様、急ぎませんと……」

 文九郎は綾音の背を押した。


 新見屋敷の手前まで戻ったところで、文九郎は釘を刺すことにした。

「綾音様、稲葉家では門前払い食らわされちゃいけねぇので、黙りやしたが、あっしは今も新見のお家を継ぐ気はありませんからね」

 綾音はムッとするかと思いきや、淡々とした声音で別のことを告げた。

「文九郎殿、芝の神明様へ連れていってくださるお約束、いつ守ってくださいますか?」

 文九郎は慌てた。すっかり忘れていた。

 綾音は前を向いたままで、文九郎を見ていなかった。

「そ、そうでやすね。あ、明後日はいかがでやしょう?いや、早すぎますよね」

 やっと綾音が文九郎を見た。

「明後日ですね。わたくしはどこでそなたを待てばよいのでしょう?」

「も、もちろんあっしがお屋敷へ迎えにいきやす。昼の九つ(午後0時頃)くれぇになるかな。待っててください」



 文九郎は夜回りをしている佐吉に合流しようと赤坂から芝口へ向かう道すがら、綾音のことを考えた。綾音の気持ちを計りかねていた。暫くは屋敷に籠ると思っていたから、まさか明後日の神明行きに乗るとは思わなかった。

 ――葬儀に出れない代わりに神明様へ詣るのかな。

 文九郎が出した結論だ。


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