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月夜の鵺  作者: 空木弓
17/43

第一部 姉 (十六)

 稲場屋敷は麻布の狸穴坂近くにあった。坂が多いから、徒歩で半刻近くかかるだろう。

 綾音は身なりを整えて部屋からでてきた。化粧はしていない。顔色は紙のように白かった。おまさが用意していた食べ物は一切口にせず、茶を一杯飲んだだけで、出かける用意ができたと文九郎に告げた。

 文九郎は綾音の斜め後ろに位置して稲葉屋敷へ向かった。後ろには酒井と川村が並んで歩いている。

 綾音を駕籠に乗せようとした酒井だったが、駕籠はいらない、歩いていくと綾音は言い張った。

 道中誰も口を開かなかった。

 辻斬りに当主が斬り殺されるのは、旗本としては恥辱であり、最悪の場合には御家断絶もあり得る。病死という公儀への届出はそれを避けるための方策だ。

 町方も事情がわかっているから、余計なことはしない。今回の場合、内々には八件について探索するが、表向きは七件として処理することになるだろう。そして裏では金が動く。

 出かける直前に酒井が文九郎に教えたのは、綾音の離縁は当時まだ惣領だった旦那ではなくその母親が言い出したということだった。二人目の奥方との間にも子が生まれてない現実に、綾音を離縁したことを悔いているならば、少なくとも門前払いはしないだろう。文九郎はそう願った。


 稲場屋敷は門が閉ざされていた。

 酒井が潜り戸を叩いて訪いを告げたが、文九郎達は門前で長く待たされた。

 やっと潜り戸が開いておどおどと顔を見せたのは、文九郎より少し年上と思われる若侍だった。

「姉上、お久しぶりでございます」

 若侍は慇懃に綾音に礼をした。

 文九郎は若侍が綾音を「姉上」と呼ぶのに驚いた。顔を見せた時の良く言えば控えめ、悪く言えば臆したような様子から、てっきり奉公人だろうと思ったのだ。

「三之助殿、お久しぶりでございます。この度は……」

 淡々とした声音だったが、そこで綾音は声を詰まらせた。慌てて口許を袖で隠す。肩が震えているのが文九郎に分かった。

 文九郎はそっと綾音の肩に手を置いた。

 酒井がすかさず後を引きとった。

「圭之助様の訃報を聞き、急ぎ参りました。何卒綾音様を圭之助様に会わせていただきたく存じます」

 三之助と呼ばれた綾音の元旦那の弟は、文九郎が綾音の肩に手を置いたのを見て不快感を露にした。酒井の言葉を聞いていたかどうか怪しい。

「中間ごときが御息女に触れるとは無礼であろう」

 先ほどのおどおどした風から一変していた。

 文九郎は軽く驚きはしたものの、そんなことでびくつきはしない。今の自分の立場ではそう言われるのももっともだと肩から手をどけた。次に起こったことこそ、本当に文九郎を驚かせた。

 文九郎が肩から離した手を綾音が掴んだのだ。

「この者はわたくしの弟です。中間ではありませぬ。今は町人として暮らしておりますが、わたくしと同じく新見の血を受けております。いずれは新見家を継ぐ身です。主馬の名代として、わたくしと共に参ったのです」

「綾音様、まだあっしはうんとは言っちゃ……」

 言いかけて文九郎は口を閉じた。ここではそういうことにしておいた方が良い。でないと、母屋まで行かせてもらえないかもしれない。

「三之助様、今はご覧のとおり町人ですから、お家にあがろうとは思っておりやせん。庭から姉を見守らせてください。姉は圭之助様の訃報を知ってからは食べるものも喉を通らず、ご覧の顔色です」

 文九郎はそう言って三之助へ頭を下げた。顔を上げると三之助はやはり冷たい目で文九郎を見ていた。

「そんな姿の弟君を見たら、母がなんと申すか……」

「構いませぬ。今さらそのようなことを気にはいたしませぬ」

 綾音は三之助にそう答えてから、文九郎に向いた。

「文九郎殿、稲葉の大奥様は厳しいお方です。わたくし達の父上のことを蔑んでおられます。何を仰ろうとも驚かないように」

 文九郎はこれから起こることよりも、そんな大奥様が姑だったのなら、この屋敷で暮らした五年間は新見家以上に針の筵だったのではないかと綾音の苦労を思った。

「あっしなら大丈夫ですよ。罵られることには慣れてまさぁ」

 文九郎の返しにわずかに綾音の口元が緩んだように見えた。


 しかし、稲葉の大奥様の綾音への言動は、文九郎の予想以上だった。

 川村を門を入ってすぐの腰掛けに残し、文九郎と酒井の二人を従えてわざわざ庭を回って濡れ縁にあがり、そこに正座して丁寧に挨拶した綾音に向けた大奥様の目は、三之助が文九郎に見せた目とは比べものにならないくらい厳しく冷たかった。憎しみすら感じているように文九郎には思えた。

「よくこの屋敷へ顔を見せましたね。主馬殿のお加減はいかがですか?焼香を済まされたら、貴女のお家の呪いがこの家に振りかからぬ内にお帰り願います」

 文九郎は主馬の病が更に綾音の立場をつらくしていることを知った。

 ――あの病が呪いのせいだってんなら、不幸はこのお家というより、大奥様、あんたにふりかかるはずだぜ。

 文九郎は心の中で大奥様に反論した。

「あの、圭之助様のお顔を拝見……」

「お断りします」

 綾音が言い終わらないうちに大奥様の冷たい声が響いた。

 綾音は一言も返さず大奥様や居並ぶ縁者に深く礼をして亡骸の枕側に置かれた焼香台に向かった。

 酒井と並んで庭に跪いた文九郎には座敷の奥の方にいる人物しか見えないが、おそらく座敷には十人近い人がいると思われた。

 通夜の習わしどおり、真正面奥に枕を北向にして顔に白布を、胸元に短刀が置かれた亡骸が見えていた。その枕側に置かれている焼香台は文九郎からは見えない。亡骸の向こうにはこれまた習わしどおりに屏風が逆さまに置かれている。

 大奥様の隣にいる、綾音と同じくらいの年齢の女が、圭之助の二人目の奥方だろう。反対側に座る三之助の隣には前髪の少年がいた。一瞬、青白い顔で綾音を見た後にはまた俯いた。三之助と面差しが似ていることからして弟に違いない。


 綾音が焼香する間も大奥様の口は止まらなかった。次から次へと難癖をつけてきた。

「相変わらず愛想のないこと。それでは後添いの口もありますまいね」

 ――確かに愛想良いとは言えねぇが、口の悪いてめぇより遥かにマシだよ。

「とうに離縁したそなたをこの屋へ上げることもないけれど、わざわざ見えたとあっては、まぁ、線香くらいはあげさせないとね。圭之助は優しい子でしたから」

 ――へ~ぇ、息子さんはあんたと大違いだったんだな。本当に優しかったんなら、圭之助様はあんたの嫁への悪態に気苦労が絶えなかったんじゃねえか。線香くらいはあげさせないとなんて抜かしたが、こんなに閑散とした通夜だぜ。来てもらってほんとは喜んでるんじゃねえか?けっ!見栄っ張り野郎め。

 文九郎は大奥様を罵倒したい衝動を必死に押さえ、ひたすら心の中で悪態に逐一罵り返した。酒井も拳を握りしめていた。時々ぶるぶると震えている。

 ――新見の大奥様といい、旗本の大奥様は皆こんな感じなのだろうか?旗本の家に嫁に行くと、みんな意地悪婆さんになるんだろうか?

 文九郎がムカムカしながら庭から様子を窺っている間に綾音は無難に焼香を済ませたらしい。再び文九郎に見えた綾音の顔は死んだ魚の目をした能面だった。涙を流した風はない。

 かろうじて茶を一杯飲んだだけというくらい悲しんでいるのに、能面の綾音を文九郎も不思議には思った。いくら気持ちを表すのが苦手でも、亡骸を前にしたら、涙を流すか、何か取り乱すところがあるのではないかと思っていた。

 自室から出てきた顔にも涙のあとは見えなかったが、まだ実感がなかったとか、何刻も部屋に籠っていたのだから、泣いたとしても涙は乾いたろうと思っていた。

しかし白布に顔を隠された元旦那の亡骸を前にしても、泣き崩れはしなかった。茫然自失の風もない。

 綾音の心の傷を示すのは手の甲の傷だ。晒しを巻いた両手のことを誰も問わなかった。


 通夜の間にいる人々に一通り礼をして綾音は濡れ縁に戻ってきた。文九郎と酒井が控える真正面に立ち、

「終わりました。お暇いたしましょう」

 いつもの淡々とした声で告げた。

「綾音様、これで良いんですかい?圭之助様のお顔を一目見たかったんじゃありやせんか?」

 文九郎の我慢の尾は切れかかっていた。

 綾音はかぶりを振った。

「もう良いのです。これで本当になにもかも終わりました」

 なにもかも終わった。その言葉に文九郎は、文九郎はもちろん、喋りだしたら止まらないらしい大奥様も知らない、圭之助と綾音の間にあった何かを感じた。この屋敷にいる人々の中で圭之助だけは綾音が好意を感じられた人物だったのだろう。

 文九郎が座敷の方に目を遣ると、大奥様は綾音と新見家の悪口に花を咲かせ続けていた。

「あの中間は主税助殿が長屋に住む下賎の娘に産ませた子だそうですよ。あの綾音も母親は町人ですしね。新見の大奥様はご苦労が絶えませぬね。土台、釣り合わぬ縁談だったのです。わたくしは反対しましたけれども、亡くなった大旦那様が約定があるとか申されて……」

 横にいる二人目の奥方はひきつった顔で相槌をうっている。途中でちらりと綾音を窺い見た。二人目の奥方も大奥様に逆らえず辛い思いをしているようだ。

 そんな二人目の奥方の様子にも無頓着な大奥様の姿に、とうとう文九郎の我慢の尾が切れた。

 すっくと立ち上がると、文九郎は濡れ縁に飛び上がり、大奥様を睨み付けながら怒鳴った。

「大奥様、あんたは人の気持ちがわからねぇんですか!綾音様に一目圭之助様のお顔を見せてくだすっても良いじゃありやせんか!」

 大柄な文九郎の剣幕にその場が凍りついた。

「何、勿体ぶってやがんだ!刀も抜かずに後ろから斬られたのをこっちは承知してんだい!それが公になったら、御家断絶になりかねないと、気を利かせて黙ってやってんだ。それを調子に乗りやがって!」

 

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