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月夜の鵺  作者: 空木弓
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第一部 姉 (十五)

「文九郎様!文九郎様!」

 酒井の切羽詰まった声が庄兵衛長屋に響いた。

 文九郎は夜回りのために早めに人足仕事を切り上げ、一寝入りしようとしていたところだった。

 一度事件が起きたら次に起きるのは五日後以降という読みが覆され、町方は総力を上げて辻斬りの捕縛に乗り出した。今夜からはこれまで通りの二交代制で連日見回りを行うのだ。

 太吉も下手人の残酷さに文九郎が夜回りに加わることを認めた。「もう少し若かったら、俺も見回るんだがな……」とまで言った。

 その時、文九郎は心の内では「やった!」と叫んでいた。御用聞きになれる道が大きく開けた気がしたからだ。

 そんな下手人捕縛に向けて気が高まっているところへの酒井の来訪だった。


「文九郎様、すぐに新見のお屋敷へお越しくだされ。綾音様を見舞ってくだされ。この通りでございます」

 酒井は半泣き状態だった。

「一体、綾音様に何が起こったんでやすか?まさか、綾音様も手を動かしにくくなったとか……」

 文九郎は青ざめた。

 酒井は激しく首を横に振った。

「ち、違いまする。綾音様の嘗ての旦那様が昨夜お亡くなりになったのでございます。綾音様はその知らせを聞いてからはお部屋に籠りきり、食事もとられていないのです」

「なんだって?綾音様の元旦那が昨夜亡くなった?お名前(なめぇ)は?」

「稲葉圭之助様でございます」

 文九郎は唖然とした。さっき栗本から聞いた名だ。昨夜辻斬りに殺された武家とは、綾音の元旦那だったのだ。

 そう言えば、栗本は名前を教えた後に少し間を置いた。あれは文九郎が姉の元旦那だと知っているかどうか様子をみたということらしい。

 何故七百石の殿様が夜中に芝金杉の浜にいたのかという大きな疑問が文九郎の頭に湧いた。次に綾音は元旦那に心を残していたのかと、文九郎は首を傾げた。てっきり離縁されて腹を立てていると思っていたのだ。

 ともかくも新見のお屋敷に行かないわけにはいかない。自分が顔を見せてどうにかなるとは思えなかったが、こうして酒井が知らせてきた以上、放ってはおけない。


 文九郎は新見屋敷に着くと、門から庭を伝って奥へと走った。

 夜の帳がおりかけているのに、酒井が教えた綾音の部屋には灯りがともっていない。

 おまさが心配そうに濡れ縁に座っていた。膝の前には膳がある。文九郎と酒井の顔を見て、首を横に振った。

「中から心張り棒を噛ませていらっしゃるらしく、障子を開けることができません。音もしませんし、一体どうしたものか……」

 文九郎は障子を蹴破れば簡単だと思ったが、そんなことをして綾音の逆鱗に振れては元も子もない。濡れ縁へ上がり、障子の前に跪いて声をかけた。

「綾音様、文九郎でやす。皆が心配してやす。一度お顔を見せてくだせぇ」

 何の物音もしない。

「あの……夕べ殺されたお武家様は綾音様の前の旦那様だったんでやすね。さっき栗本の旦那、町方のお役人にお聞きしたら、表向きは病死になりそうだとのことでやした。……てことは、昨夜のお武家様のことは町方の手を離れやすが、もちろん辻斬りの下手人捕縛に向けては必死に動きやす。絶対に捕まえますよ」

 中で動く気配があった。ふと異様な雰囲気を感じて周りを見ると、酒井もおまさも茫然と文九郎を見ている。

「文九郎様、今、『殺された』と申されましたか?」

 酒井が茫然とした顔つきのまま口を動かした。

 文九郎はしまったと思った。酒井もおまさも斬り殺されたとは聞いていなかったのだ。当然、綾音も……。

 文九郎は気を引き締めて、障子が開くのを待った。綾音がどんな行動をとろうとも、慌てず受け止め、落ち着かせるぞという気構えだ。


 やがてコトリと心張り棒を外した音がして、ゆっくりと障子が開いた。中は暗くて綾音の表情は見えない。

「文九郎殿、圭之助様は殺されたのですか?病死ではなく。そなたは、その、殺されたお武家の顔を見たのですか?」

 途中からは声が震えていた。

「いえ、見ちゃいません。検視した栗本の旦那からお聞きしただけでやす」

「下手人の目星はついているのですか?」

「いえ……」

 文九郎はどこまで話したものか迷った。

「文九郎殿!」

 初めて聞いた綾音の泣き出しそうな切羽詰まった声だった。

「……斬り口から、例の二月前から暴れている辻斬りだろうと、検視なさったお医者様は仰いやした」

 障子の向こうの暗がりに息をのんだ気配があった。

「何故……何故そんなことに……これまで町人ばかりを狙っていた辻斬りが、今回は何故武家を……」

 文九郎も知りたいことだ。

「刀は抜いておられたのでしょうか?」

 文九郎は答えたものか迷った。栗本に口止めされていた。

「御公儀への届け出は病死になりやす。綾音様が詳細を知っちゃあいけないんじゃありやせんか。お武家様の仕来たりってのはそういうものじゃねえんですかい」

 開けた障子の縁に手がかけられた。手の甲が一段と傷だらけだった。いくつかの傷は血が固まっていたが、まだ血がじわじわとにじみ出している傷もある。あまりに痛々しい手だった。

「文九郎殿、わたくしは……わたくしは本当のことが知りたいのです。離縁されたとはいえ、五年の間、旦那様とお呼びし、お世話したお方です。知りたいと思うのは当然ではありませぬか」

「旦那様とお呼びし」以降は声を落としているのに、文九郎には綾音が叫んだように感じられた。

 文九郎は障子の縁に置かれた綾音の手を掴んで縁からはがした。

「ずっと両の手を握りしめてらしたんですか」

 文九郎はおまさに目配りした。おまさは驚いた顔で頷き、静かに濡れ縁から立ち去った。

 綾音はそれきり何も言わなかった。文九郎は綾音のもう片方の手も確かめた。やはり傷だらけだった。これ以上傷つくことがないように綾音の両手を握り、文九郎はおまさが戻ってくるのを待った。

 綾音は逆らわなかった。

 おまさが徳利に膏薬、晒しを盆にのせて戻ってきた。

「綾音様、少し沁みるかもしれませんが、我慢してくださいませ」

 綾音はおまさが手の甲を焼酎で消毒し、薬をぬって晒を巻く間も、おとなしくされるがままになっていた。その間の綾音の顔は一段と無表情で目は死んだ魚の目だった。

 すっかり元に戻ってしまったと、文九郎は思った。

「綾音様は、元の旦那様を恨んでらっしゃらないんでやすね」

「……」

「あっしはてっきり恨んでると思ってやした。……お会いに……なりたいんですね?」

 綾音がやっと文九郎を見た。死んだ魚の目のままだったが、文九郎はその奥に何かが強く押さえ込まれていると感じた。

「お通夜に行きやしょう。行って圭之助様にお別れの挨拶をいたしやしょう。あっしがお供しやす」

 綾音がこっくりと頷いた。


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