第一部 姉 (十四)
新見屋敷から酒井と川村が綾音を迎えにきたのは、食事中に喋ってはいけないと躾けられましたと無言で食する綾音に合わせて、太吉爺さんと文九郎も静かに夜食を食べ終え、洗い物を片付けようとする綾音を文九郎が「自分がやる」と必死に止めているところだった。このときほど酒井と川村の来訪を文九郎が喜んだことは無い。
綾音は洗い物を残して帰るのが心残りらしかったが、そこは酒井と川村も文九郎の肩を持った。
ただ酒井は帰りがけに文九郎に新たな重圧をかけてきた。
「綾音様と芝の神明様へお出かけになる約束をなされたのですな。もう真鍋様も某も、おまさもおまきも嬉しくて、嬉しくて!日は決まりましたかな?まだでございますか。やり取りには遠慮なく某をお使いください」
ただならぬ期待が文九郎にかけられているらしい。そうしてその期待の高さは、それだけ真鍋達、新見家の家臣や奉公人が綾音の元気の無さを気にしているということだろう。
文九郎は酒井と川村に守られて帰っていく綾音の後ろ姿を見送りながら、安堵の気持ちが沸いていた。綾音は新見家で孤立してはいないのだと。
この夜も文九郎は佐吉と夜回りをする。
綾音を芝の神明様へ連れて行くのは、辻斬りを捕まえた後になるかもしれないと、文九郎は思った。
この日の文九郎と佐吉の夜回りの持ち場は、三島町から神明様の門前町にかけての地域だった。怪しい奴がうろついていないか、潜んでいないかと、二人はゆっくりと歩を進めた。
同い年だが、佐吉は童顔のうえに文九郎より三寸近く背が低かったから、二人で歩いているといつも文九郎が先輩格に見られる。この日も前を通った置屋で呼び込みに声をかけられたのは文九郎だった。
「旦那、ちょいと一服されてはいかがで」
文九郎が佐吉を振り向くと、佐吉は黙って懐から十手を覗かせた。
呼び込みは慌てて後ろへ下がり、へへと薄笑いを浮かべながら後ろ頭へ手を遣った。
「俺たちの顔を知らねぇとは新顔だな。名はなんと言いなさる?」
太吉元親分の孫の文九郎と杢二郎親分の下っ引き三番手、佐吉を知らずにこの辺りでは一月も過ごせない。
「へい、ちょうぞうと申しやす。長いに三の字の長三で」
「いつから扇屋の手代を?」
長三の体格は少し小さいと思うものの、辻斬りの下手人と似かよっていたため、文九郎は生まれからこれまでのおおよそを問い質した。
下手人は明らかに侍だが、町人として暮らしている元侍が少なくない。町人姿だからと油断はできない。夜半に彷徨いている連中の誰も彼もが怪しく見えてくる。
その一方で辻斬りの噂が広まり、見回る度に夜遅く出歩く人が減ってきているのは確かだった。
「襲う相手がいねぇと、俺たちを狙ってくるかもしれねぇな」
佐吉がキョロキョロと辺りを見回しながら言った。
「それもこうして夜回りする狙いの一つじゃねぇか。何を今さら」
佐吉が黙り込んだ。
「怖いかい?」
文九郎が佐吉に向いたと同時に甲高い悲鳴が遠くに聞こえた。
「聞こえたな?」
文九郎は佐吉に確認した。佐吉はただ頷いた。
文九郎は悲鳴がした南へ走り出した。途中で新網町から駆けてきた平同心の坂本に出くわした。組んでいるのは杢二郎親分の下っ引き二番手、与五郎だ。
「どっちだ?」
坂本が文九郎に聞いてきた。
「もっと南の、金杉橋近くだと思いやす」
四人で走り出す。
この日の辻斬りは金杉橋近くに小舟を用意しているのかもしれない。舟でやって来ているのではないかと、今回は水路も見張っているはずだ。
前方に人だかりが見えた。
四人が近づくと、死体を検分していた栗本が立ち上がった。道の端の方で顔を横に向けて俯せに倒れているのは、五十くらいの女だった。
「腹の立つことに辻斬りの奴、とうとう女を斬りやがった!これまでは男ばかりだったのによ!唯一、奴のマシなところだと思ってたのにな!しかも、俺たちの追跡を邪魔した奴がいる!」
「えっ?辻斬りに仲間がいるということですか?」
栗本の剣幕に坂本が幾分引きながら尋ねた。
「……いや、たぶん違うな。邪魔したそいつをしょっぴいて詳しく話を聞こうと思ったんだが、辻番に呼ばれてそっちに行ったわずかの間に逃げた。破落戸風だったが、仲間がいたうえに、邪魔した奴も只者じゃねぇ」
文九郎はすぐには言葉が出なかった。栗本と坂本のやり取りを見守った。
「ぐ、偶然でしょう。辻斬りが誰かと手を組むとはとても……」
「出会ったのは偶然かもしれねぇが、どこかの連中が辻斬りとみるや、そのあとをつけて、俺たちが追いかけるのを邪魔したのは間違いねぇよ。くそっ!」
「けど、旦那、辻斬りを逃がして何の得があるんでしょう?」
文九郎は恐る恐る口を挟んだ。
「そこだよ。俺たちが辻斬りの探索に血眼になってるほうが都合が良いってことだから……」
栗本は、お前、わかるだろうと言うように坂本を見た。
「盗みか何か、悪事を企んでる輩ってことですね……」
文九郎の頭に近頃武家屋敷や寺に押し入っている盗賊が浮かんだ。
しかし、その連中が辻斬りを逃がす理由がピンとこない。盗みに入る先そのものは町方の担当ではないからだ。町方を辻斬り騒ぎに引き付けておくことの利点が思い浮かばない。
他に町地での悪事を企んでいる連中だとすると、町地の見回りは厳しくなっているのだから、なおさら利点が浮かばない。
――見回りが厳しくても、一番の目当ては辻斬りだから、他のことは見逃す可能性が高くなると考えて?
同じようなことを考えていたのかどうか、栗本も坂本も暫く何も言わなかった。
そこから事態は更に町方の予想外の方向に動いた。
これで次に現れるのはまた五日後以降かと町方が見回りを緩めた二日後、予想外の殺しが起こったのだ。
金杉浜町の網干場で身なりの良い侍が斬り殺されていた。
起こった場所といい、日といい、被害者といい、これは例の辻斬りとは別口だろうという考えは、検視した医者によって否定された。斬り口、その癖は、十中八九、これまでの辻斬りと同じというのが、七件のうち六件の被害者を検視した医者の判断だった。この報せに町奉行所は震撼とした。栗本も医者の判断に異を唱えなかったからだ。
すぐに町奉行所から目付方へ二人目の使いが走った。早朝に走らせた一人目は被害者を特定するためだったが、二人目は探索をどう進めるか話し合うためである。




