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月夜の鵺  作者: 空木弓
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第一部 姉 (十三)

 文九郎は口を開けたが、言葉が出てこなかった。おなかの小指は無視して店へ走った。

 人だかりは文九郎の姿にさっと道を開けた。

 野次馬の目はこの日も好奇心で輝いていた。

 店の前で文九郎は立ち止まった。

 直したばかりの引戸が半分開いていて、そこから見えたのは、土間にあるボロ釜で飯を炊いている武家娘の後ろ姿だった。ちらと横顔が見えた。綾音だ。

 文九郎は思わず目を擦った。女の姿は消えず、横顔からこちらを向いた顔はやっぱり綾音だった。


 綾音は文九郎を認めると、立ち上がってこう言った。

「早かったですね。もう少しで炊き上がります。独活が安く手に入ったので、葉と茎で酢味噌合え、皮で金平を作っておきました。お口に合うと良いのですが」

 相変わらず淡々とした言い方に無表情だったが、死んだ魚の目ではないと文九郎は思った。二日前より顔色が良い気がした。

 ――長屋のせいだろうか?


 文九郎は暫くぼうっと綾音の顔を見つめていた。ハッとして、慌てて口を開いた。

「な、何しておられるんですか!こんな所で!」

「出掛けるのを勧めたのはそなたではありせぬか」

 文九郎の問いに綾音は心外という表情を見せた。良い表情ではなかったが、能面ではないことに、文九郎にほっとする気持ちが起こった。

「そ、それは、まぁ確かに……はい、勧めやした……けど、なんでやっと出かけた先がここなんすか!」

「他にどこへ出掛ける所があるというのです?それにそなたは物心ついてからずっとお祖父様と二人暮らしだと申されたから、こちらへ来れば、わたくしがお役に立てることがあるのではないかと思ったのです」

 文九郎は自分で墓穴を掘っていたことを知らされ、気が挫けた。

「確かにあっしはずっと爺さんと二人暮らしだと申しやした。お気持ちは大変、もうありがたすぎるくらいありがてぇんですが……」

 そこまで言って、やっと文九郎は気づいた。

 ――爺ちゃんはどこだ?

 いつもはあれほど店に広がっている太吉爺さんの気配が無い。

 隠れようのない三畳の土間に一畳半程の板の間と六畳間の店である。

 落ち着いて店の中を見回したら、太吉爺さんはまるで叱られた子供のように六畳間の奥で格子窓を向き、肩をすぼめてちょこんと正座していた。

 爺さんがこの店で正座しているのを文九郎が見たのは約二年ぶりである。

 文九郎は吹き出した。

「爺ちゃん、なんだよ。その格好!」


 文九郎の笑いながらの声掛けに、太吉はくるりと後ろを向いた。不機嫌と決まり悪さが同居している顔だった。

「おめぇが余計なこと言うから、御姫様(おひぃさま)がこんな(あば)ら屋へお越しになったじゃねぇか。何考えてんでぇ」

 嘗ては悪党どもを震え上がらせた凄みのある声だ。しかし声だけ凄んでもあまり効果は無い。

「荒ら屋で悪かったね。あんたがずうっと居座ってるから、修繕できないんじゃないか。戸だけは時々壊してくれるけどね」

 文九郎が返す前に、野次馬の中から家守、儀兵衛の声がした。

「まぜっ返すな、儀兵衛。店を丸ごと壊して欲しいのか。おい、おめぇら、どれだけ暇なんでぇ!見世物じゃねぇぞ!失せやがれ!」

 太吉は立ち上がりながら、入り口に群がっている野次馬を怒鳴り付けた。だがいつもよりは明らかに大人しめだったから、それがまた野次馬を面白がらせた。太吉爺さんには悪いが、こんなに面白い見世物はそうそう無いだろう。

 しかし本気で怒らせると怖いのもよく知っている庄兵衛長屋の野次馬達である。引き際は心得ていて、三々五々、散っていった。


「文九郎、御姫様を御屋敷までお送りしろ。粗相のねぇようにな」

 太吉は文九郎の方は見ずに、座り直しながらぼそぼそと言った。

「あいよ。綾音様、もうすぐ日が落ちます。暗くなったら物騒だ。御屋敷までお送りしますんで、身支度をおねげえしやす」

「それには及びませぬ。屋敷には日暮れ近くまでに戻ってこなければ、迎えをここへ寄越すよう、屋敷に帰した女中のおまきに言伝てしています。人様のお家へ参るのに、先様にお手数をお掛けするようなことはいたしませぬ。もうすぐ夜食が整いますから、足を洗ってお上がりなさいませ」

 新見家に戻って以来、五百石のお家を仕切ってきた綾音は、やることに卒がなかった。

 今動いては迎えと行き違いになるかもしれない。文九郎と太吉爺さんは新見家からの迎えを待つしかなかった。


 いつの間に湯を沸かしていたのか、綾音が文九郎に出してきた足湯は、恐縮しながら足をつけてみると、疲れた足に実に心地よい温かさだった。喉を潤すための茶も大きめの鉢にたっぷりと用意してくれた。

「あ、ありがとうごぜいやす。綾音様は何でもお出来になるんでやすね」

「祖母に色々手解きを受けました。どのような事態になろうと、殿様の暮らしを支えることができるようにと……」

 そこで綾音は言葉を切った。目がまた死んだ魚の目になっていた。

 祖母の「手解き」は相当厳しかったのだろう。綾音のこの死んだ魚の目と無表情は、婚家から実家に戻されたからではないと文九郎は思っていた。母が大店の次女である綾音は、あの屋敷で御家人の娘を母に持つ弟の主馬や妹より一段と厳しい躾を受けたに違いないと思うのだ。


 栗本の調べによると、文九郎の父親である、新見主税助(ちからのすけ)と正妻との間に子はなく、あちこちに生まれた数は十人を越えたらしいが、成人できたのは町人の娘との間に生まれた綾音一人、御家人の娘との間に生まれた主馬とみつえの二人に文九郎の四人だけらしい。町人の娘との間に生まれ、主税助の死後に屋敷に引き取られた息子二人はどちらも幼年で亡くなったという。


「お屋敷の方は大丈夫でやすか?ご家中の方々はここへ来るのを誰も止めなかったんでやすか?」

 夜食の用意に手を動かしながら、綾音が淡々と答えた。

「必要な指図はしてきましたし、おまさがよく心得ていていますから、わたくしがいなくても大丈夫です。ここへ出かけるのだと申したら、酒井もおまさも喜んでおりました。おかげで追い出されるように出て参りました」

 用意された膳は二つである。

「綾音様はお食べにならないので?」と言ったところで、そもそも膳も湯飲み以外の器も二人分しかないのを文九郎は思い出した。

「お夜食は屋敷に戻ってからいただきますので、お気になさらず」

「お気になさらずと言われても、作ってもらって食べてもらえねぇってのは……」

 綾音はおかわりを配膳するつもりで、二人の側に座っているのだろうが、爺さんと孫の方は気にせずに食べていられるものではない。

「爺ちゃん、隣で茶椀と膳、借りてくる」

 文九郎は勢いよく立ち上がって土間へ降りた。

「箸も忘れるな。ちゃんと井戸で洗ってな」


 太吉の細かい指図を背に文九郎がガラリと引戸を開けると、いきなりおなかと目があった。

 目の前におなかが漬物の乗った小鉢に、空の茶碗と小皿、箸まで乗った膳を抱えて立っている。

 おなかの顔に苦笑いが浮かんだ。

 長屋は聞こうとしなくても隣の会話が筒抜けだが、おなかに隣の会話を聞き取ろうという強い意思の無いわけがない。

「あ、あのさ、太吉爺さんとこに三人分の器はないと思ってね。空いてる器と、せっかくこんな所へあたしらにも手土産持って来てくださった御姫様だもの、少しでもお返ししなきゃと思って、その、あたしがつけた漬物を……」

「手土産?」

「これまで弟が皆さまにお世話になった心ばかりのお礼ですと、一店に一箱ずつ素麺を配ってくださったんだよ」

 ――ううむ、卒がない。

 ともかくも礼を言って膳を受け取り、文九郎はおなかを店の前から追い払った。自分の店に戻ればまたすぐ壁にくっつくのが見え見えだが、うまくすると子供達が邪魔をしてくれるかもしれない。親子揃って壁にくっつく可能性も高いが。


 漬物の小鉢を爺さんに預け、残りを洗うために井戸端へ行こうとした文九郎を綾音が止めた。

「先ほど水音がしておりましたから、洗いたてだと思いますよ。よく御覧なさいませ」

 言われてみれば、どれにもわずかに水滴が残っていた。だとすれば、おなかはこちらの会話を聞いて動いたのではなく、先を読んで動いたことになる。

 ――ううむ……おなかの先読みは野次馬根性だから置いておいて、綾音様は目端も利くのだな。町方の御用聞きになったら、凄腕になりそうだ。

 

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