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月夜の鵺  作者: 空木弓
13/43

第一部 姉 (十二)

「早ぇじゃねぇか。新見のお屋敷はどうだったい……って、聞くまでもねぇようだな」

 太吉はいつものように入り口に背を向けて座っていたところから、振り向いて文九郎の顔を見るなり、そう言った。

 新見の御屋敷には半刻も滞在しなかった。内庭からさっさと門へ戻り、表へ出た。

 自分がどんな顔をして戻ってきたかわかっていなかったが、気分はげっそりしていたから、顔つきもげっそりしていたのだろう。なにせ太吉爺さんに「おめぇは思ってることが長屋の壁より筒抜けだぜ」と言われる文九郎である。


「幽霊屋敷だったよ。埃被ってたり、柱が傾いたりしてるわけじゃないけど、あの屋敷だったら昼間に幽霊が出てきても驚かねぇ」

「へーぇ。姉君と兄君はどうだったい?会えたんだろ?」

「病で寝込んでる当主は、眠ってる姿を見ただけだ。初めて聞く病だった。なんでも身体がどんどん動かなくなって、最後には息ができなくなり、死んじまうらしい。姉の綾音様は……表情が無くて、死んだ魚みてぇな目してた」

「そいつはひでぇな。幽霊屋敷になるのも無理はねぇ。元気なのは、大奥様だけだったってか」

「うん、三人の中では一番顔色が良かったよ。俺の顔見て涙ぐみやがった。白々しいったらありゃしねぇ」


 文九郎は予想と違っていた大奥様の穏やかな風貌については一切口にしなかった。あんな見た目に騙されてはいけないという気になっていた。その表情や物言いの一つ一つを思い出すと、また腹が立ってきた。


「女中のおまささんは大殿様だけでなく、俺は綾音様とも似てるって言ってた」

「ふーん。その死んだ魚みてぇな目をしてた綾音様ってのが、栗本の旦那が言ってた離縁された娘か……」

「顔立ちは整ってる方だと思うけど、あの能面じゃあなぁ……『離縁』されてああなるもんかな?」

「さぁな。元々顔に気持ちが表れねぇ人もいるし、人それぞれだ。それで、もう二度とあいつらとは会わねぇってかい?」

「……いや。綾音様は芝の神明様へ行ったことがないって言うから、一緒にお参りしようって言っちまった……」


 太吉は呆れた顔をした。

「おめぇ、女に手が早いな」

「違うよ!今日初めて会ったとはいえ、姉だと思うから……姉だからこそ、放っておけなくなったんだ。手が痛々しくて……」

 文九郎は綾音の手のことを詳しく話した。太吉は黙って聞いていた。

「ほんとのところは俺にもよくわかんねぇ。なんで綾音様のことを放っておけねぇのか」


 爺さんに言うつもりはなかったが、屋敷で文九郎の心に初めて芽生えた父親への興味も生き続けていた。これまでは甘やかされて育ったための放蕩無頼だと思っていたのに、むしろ逆の、厳しく育てられたためらしいと思えることから起きてきた興味だ。結局、ろくでなしの父親のことは何も聞かずに屋敷を出たので、そのうち自分なりに調べてみようと考えていた。


「綾音様はおめぇの身内には違いねぇ。おめぇから誘ったんだから、ちゃんとお世話するんだぞ。途中で投げ出すんじゃねぇぞ」

 少し間を置いてから、太吉は凄みのある声で言った。



 その夜、五日ぶりの夜回りを何事もなく終えて横になった明け方、文九郎は不思議な夢を見た。

 薄暗がりの中、女がこちらに背を向けて泣いている。文九郎は母のお文だと思い、いつものように近づいた。

 すると、近づくにつれて女がどんどん小さくなっていった。手を伸ばせば届くところまで近づいた時には、女は五、六才の幼女になっていた。

 文九郎はこの子は誰だろうと思いつつ、「お嬢ちゃん、どうしたい?迷子かい?」と幼女に声をかけた。

 幼女は飛び上がらんばかりに驚いて文九郎を見返った。真っ赤に泣き腫らした目が文九郎を見つめた。その目をどこかで見たと文九郎は思った。

 そこで目が覚めてしまった。

 目覚めた直後に布団の中で夢を思い返した文九郎は、あの泣いていた幼女は生まれ落ちて間もなくこの世を去った、文九郎が見たこともない妹だろうかと思った。



 そんな夢を見た、新見屋敷を訪れた翌夕、文九郎は久しぶりに屋台で酒を喰らった。

 人足仕事が終わると文九郎は迷わずおなぎに会うため置屋の土岐屋へ行ったのだが、いつものように引き戸を開けたら、甲州屋同様、中の様子がいつもの気安い雰囲気ではなく、肝心のおなぎの態度もガラリと変わっていたのだ。

 そのあまりにあからさまな変わりように、文九郎の気分はしゅるしゅると萎えてしまった。

 おまけに土岐屋の二つ隣の、これまで文九郎を見ても知らんぷりで、金持ちの商人や武家狙いだった引手茶屋の呼び込みにも初めて声をかけられた。

 自分は何も変わらないのに、五百石の旗本のどら息子が父親とわかった途端、これ程周囲の見る目と扱いが変わるとは、腹立たしいやら、呆れるやら、情けないやら。

 文九郎は己の複雑な混ざりあった感情を持て余し、目に入った屋台の床几にどっかと片胡座かいて座ると怒鳴るように酒を頼んだのだった。


「かけでいいかい」

 屋台の親爺は機嫌の悪い客のあしらいに慣れているらしく、鍋から銚釐を上げながらのんびりした口調で尋ねてきた。

「かけ?」

「うちは蕎麦屋だよ。しかもこの前お触れが出ちまって屋台で火を使えねぇから冷めたかけに冷やだ」

 親爺は文九郎の目の前に枡をつきだしながら、空いた手で屋台につけている幟を指差した。確かに大きな字で「二八蕎麦」と書いてあった。

「ああ、冷めたかけをくれ」


 文九郎が無言で冷や酒を煽り、冷めたかけそばをすすっていると、突然肩を叩かれた。

 人の気配を感じていなかったから、驚いてふりむくと、真後ろに権七がにやけた顔で立っていた。

「珍しいじゃねぇか。こんな所で酒を飲むなんて」

 やっぱり只者ではないなと思いながら文九郎はまじまじと権七の顔を見つめた。

「あんたこそ珍しいんじゃねぇか。こんな所をうろついてるなんざ」

「今日の人足仕事は品川の方だったからさ」

 権七は当然というように文九郎の隣の床几に腰かけ、屋台の主に酒と蕎麦を頼んだ。

 酒を一口飲んだところで、権七は文九郎の方は見ずに呟くように言った。

「聞いたぜ。あんた、五百石の御旗本の若様なんだってな」

 文九郎は食べかけていた蕎麦を吹いた。

「あ~、もったいねぇことしちまった。誰がそんな戯言(ざれごと)を言いふらしてやがんだ!」

「そういう話はあっという間に広がるもんさ」

「ふん、俺が若様なわけねぇ。もしも父親が御旗本だとしても、お袋は岡っ引きの娘なんだ。屋敷に引き取られたところで、扱いは奉公人だよ」

「確かに大抵の御家じゃ、そうなるわな。けど、あんたしか元気な御子息はいねぇんだろ?しかも名を馳せた父方の爺さんに似てるそうじゃねえか」

 文九郎はじっと権七の横顔を見つめた。

「……あんた、一体何者(なにもん)だ?」

「ご覧の通り、毎日かつかつで生きてる貧乏人だ。楽しみは噂話と酒くらいだ」

「……噂話が好きたぁ、隣に住んでるおなかと気が合いそうだな」

「俺はあんたと気が合うと思ってるんだがな」

 文九郎は驚いて蕎麦に戻しかけた視線を再び権七の横顔に向けた。何か魂胆があると思った。機先を制することにした。

「噂話が好きなら、俺がヤバい話にのらねぇってこともわかってるよな」

 権七はうまそうに酒を呑んでいる。その顔つきのまま言った。

「ヤバい話は俺も嫌いだよ」

 文九郎はそう答える権七の横顔をじっと見ていた。一筋縄でいかないものを感じた。

「あんた、元お武家だよね?」

「そう見えるかい?それは嬉しいね」

 権七は蕎麦を飲みこむように食べた。

「さて、明日も早いんだ。帰るとするよ。あんたは最近は日陰で働いてるらしいが、こちとらお天道様に晒されてるからな。きつい、きつい」

 去っていく権七の後ろ姿を、その歩き方を眼に焼き付けた文九郎だった。



 文九郎にとっての大事件はその翌日、文九郎が新見屋敷を訪れた二日後に起こった。

 夜中の見回りと力仕事でヘロヘロになった文九郎がいつものように煮物を買おうとお梅の煮売屋の前まで行き、そこでやっと今日は休むと宣言されていたのを思い出してガックリ、心身共に更にヘロヘロになって庄兵衛長屋へ戻ってきてみると、またしても奥から三つ目の店の前に人だかりがしていた。

 この日も文九郎に最初に気づいたのはおなかだった。真壁と酒井が来た時同様、目を丸くして文九郎の方へ駆けてきた。

 またあのお侍達が来てるのかと文九郎が言おうとしたら、おなかがニヤついて言った。

「きれいな女の人が来てるよ。文ちゃんの腹違いの姉だって言ってたけど、ほんとかい?コレじゃないのかい?」

 おなかは立てた小指を文九郎に突きつけた。

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