第一部 姉 (十一)
「お気にさわったのなら、許してくだせぇ。あっしはお武家様の仕来りをあまり知らねぇもんで……けど、もしも、もしもでやすよ、もしもお子のことでしたら、先は綾音様のせいじゃねぇかもしれねぇ。先の殿様はすぐ再婚なすったのに、いまだに子ができねぇって聞きやした。綾音様はお若いし、決めつけることはありやせんよ。町人のことでやすが、あっしの知ってる露月町の小間物屋夫婦は、二人とも最初の相手とは子ができなかったのに、二人で所帯持ったら、あっという間に子ができたんです。ほんとですぜ」
背中に汗をかきながら、文九郎なりに綾音を元気付けようとかけた言葉だった。
綾音は冷たく文九郎を横目で見た。
はずしたかと思いつつも、文九郎は思いきって畳み掛けた。
「一回うまくいかなかったからって、ダメとは限らねえすよ。町家の連中を見てると、特に男と女の間はわかんねぇ。お武家様は違うってんですか」
綾音は文九郎の最後の問いかけには答えず、また横たわる弟に視線を戻した。膝の上で組み合わせた両の手がまた緊張し始めた。綾音様は顔ではなく手に心の動きが出るようだと、文九郎は思った。
「このお家は先ほども申したように、お祖父様を始め、代々大御番組頭を勤めてきた由緒あるお家です。そのお家を継ぐのがそんなにお嫌ですか」
「あっしにゃお家の由緒がどうのと言われてもぴんときません。合わない。ただそれだけでやす。この家で当主として暮らしたら三日ももちませんよ。氏より育ちって言うじゃありやせんか」
文九郎がそう言いながら、綾音の組み合わせた手を見ていると、元々日に焼けていない色の薄い手が、どんどん白くなっていった。強い力で握りしめているのだ。それだけでなく爪が甲に食い込んでいる。
このままでは自分で自分を傷つけてしまうと思った文九郎は、「綾音様、手が」と声をかけながら、つい綾音の両手を自分の手で包んだ。緊張を解こうとして、咄嗟にやってしまったことだった。
綾音は驚愕の表情を見せて文九郎の手を振り払った。文九郎も驚いた表情と力の強さだった。
「も、申し訳ありやせん。ご自分でご自分を傷つけてると思ったもんだから、つい……」
綾音が驚愕の表情を見せたのは一瞬だった。文九郎の言葉に自分の手をまるで他人の手のように死んだ魚の目で検分した。所々血が滲んでいるのを見ても全く表情を変えなかった。手の検分を終えると、一つ息を吐いた。
「お庭をお見せしましょう」
そう言うと、綾音は文九郎の返事も聞かずにすっくと立ち上がり、障子をゆっくり開けて濡れ縁へ出た。
離れの裏では梅の木が花を咲かせていた。その彩りに幾らか文九郎は気持ちが明るくなった。
「ここで梅の花見ができやすね。きれいだなぁ。この辺りは幽霊屋敷じゃねぇや。綾音様、桜はお好きですかい?もうすぐ咲きやすよ。この近くなら増上寺の奥も綺麗だし、遠出しての御殿山も良い」
「桜の花見はしたことがありませぬ」
文九郎は驚いて綾音を見た。
「ど、どうして?」
増上寺も御殿山も、桜の季節には武家も町人も入り雑じって花見を楽しんでいる。確かに大身のお旗本は文九郎が行くような場所であまり見かけないが、大きな幕を張って、周りから見えないようにして花見をしていると聞いていた。
娯楽の少ない時代である。金がなくても花見はできる。文九郎は花見をしたことの無い人がいるとは思ってもみなかった。
「お祖父様がお好きではなかったからでしょう。このように庭の梅が咲いたら濡れ縁にお座りになり、眺めていらっしゃったけれど、外へ出掛けてまで花を愛でようとは思われなかったようです」
自分は顔立ちと声はここに住んでいた爺さんに似ているかもしれないが、中身は間違いなく太吉爺さん似だなと文九郎は思った。
梅も良いが、桜はまた違う。桜はたくさん植えてある方がより綺麗だ。そして皆と飲んで食べて騒ぐのがまた楽しい。
「お出掛けになることはなかったんでやすか?」
「……そうですね。御塾と御寺以外に出掛けた覚えはありませぬ」
文九郎には考えられない。
「じゃあ増上寺や浅草寺、寛永寺へは行ったことがおありなんですね?」
「……あります。お祖母様のお供をして」
「ひょっとして……ひょっとしなくても、増上寺は行ったことがあるけど、だらだら祭りには行ったことがない?」
「だらだら祭りですか。名前は聞いたことがあります。そもそも芝の神明様へ行ったことがありませぬから、だらだら祭りも知りませぬ」
「芝の神明様は増上寺にくっついてやすよ……じゃあ、両国の花火は?」
綾音は首を横に振った。
「し、芝居は?」
「嫁いでいた間に一度参りました。市村座でございました」
嫁いでいた間と言うことは、この屋敷にいる間は無かったということだ。
文九郎は呆れて口がポカンと開きそうだった。
年々困窮している武家が増えているものの、大御番衆はそれほど困窮していないと聞いていた。京の二条城と大坂城を警護する上方在番の間は禄が増えるからだ。大御番衆の中には密かに金貸しをしている御家もあるという。寺にしか行かないというのが生活を切り詰めるためとは考えられなかった。
清廉といえば聞こえは良いが、なんとつまらない暮らしだろう。
ろくでなしの父親が放蕩三昧になったのは、幼い頃にあまりに窮屈でつまらない暮らしを送ったせいではないかと思えてきた。
そのろくでなしの父親は、遊び過ぎて身体を壊し、若死にしたのだ。死因は後の世で言う、急性アルコール中毒である。
初めて文九郎はろくでなしと言われる父親の人生に興味を覚えた。しかし話の流れから、ろくでなしのことは後まわしにした。
「この前お出掛けになったのはいつなんでやすか?」
「一月ほど前に増上寺へ主馬殿の平癒祈願に参りました」
「そのときにも神明様へはお参りなさらなかったんでやすか?」
「あそこは、お祖母様が行ってはいけないと仰る所です」
文九郎には婆さんが行ってはいけないという理由にピンとくるものはあった。芝神明の門前には岡場所が、遊女と陰間の置屋と茶屋があるのだ。が、そんなことを言い出したら、大奥様がお参りする増上寺のお坊様方が陰間茶屋の一番のお得意様である。
「芝の神明様は天照大御神様が祀られてる大神宮ですぜ。女の神様なのだから、お参りしたら、綾音様にご利益がありそうじゃないですか。今度行ってみやしょう」
文九郎の口がするすると滑ってしまった。
文九郎は自分の口から出た言葉に驚いた。後から振り返ると、どうしてそんなことを言ったのか自分でも不思議でならない。
しかし綾音もさるものだった。返ってきたのは、こうだ。
「わたくしがそなたと一緒に神明様へお参りしたら、新見家を継いでくれますか?」
文九郎は開き直って言った。
「一度の神明様行きであっしの人生を決めろってのは、いくら長屋住まいの人生とは言え、ちょっと重みが違い過ぎやしませんかね」
綾音を怒らせることも覚悟しての返しだったのだが、綾音は無表情のまま池の水面を見つめていた。
「小姑など邪魔になるだけですのに、どうしてわたくしのことを気になさるのです?」
水面を見つめたまま、綾音は抑揚少なく言った。
「たぶん、女の身内がいねぇからです。お袋のこともほとんど覚えてねえし。あっしがここへ来たのは……」
文九郎はそこで言うのを止めた。
綾音が文九郎に顔を向けた。相変わらずの無表情だったが、両の手は緊張なく、ごく普通に身体の横にぶら下がっていた。
無表情に見えたが、じっと文九郎を見つめる綾音の目は続きを言うよう促していた。文九郎はそう感じた。
「だから……だから、あっしがここへ来たのも、姉というお人に会いたかったからです。仲良くなろうとかじゃありやせん。ただ、どんなお人か見たくて……」
一瞬、綾音の目が潤んだように見えた。文九郎は綾音の心の揺れ動きを見逃すまいと思った。
「綾音様、それじゃ、約束しやしょう。今度一緒に神明様へお参りするとね。お祖母様には増上寺ってことにしておけばいい。神明様の境内には色んな見世があって、芝居小屋もあるんですよ。毎日お祭りやってる所です。いつがいいですかね」
これまた後から振り返ると、何故そうまでして綾音を屋敷の外へ連れだそうとしたのか、自分でもわからない。
「……少し考えさせてください」
通常では断られる確率の高い答えだったが、脈ありだと文九郎は思った。




