第一部 姉 (十)
綾音は酒井が供をしようとするのを止め、文九郎だけを座敷から濡れ縁へといざなった。
黙って綾音の後をついていくと、行き先は渡り廊下の先にある濡れ縁が囲う離れだった。
綾音は濡れ縁に跪くと「主馬殿、文九郎殿がお見えになりました。開けますね」と、障子越しに語りかけ、ゆっくりと腰高障子を開けた。
部屋の中からはむうっと薬湯の匂いがあふれでてきた。
文九郎は綾音に続いて部屋に入り、中を見回した。八畳くらいの部屋の真ん中に布団が敷かれ、若い男が眠っていた。枕元には薬缶と急須が置いてある。
日当たりの良い部屋だから、障子を締め切っても明るいだろう。
文九郎は綾音が開けるときにやったように、ゆっくりと障子を閉めた。
「お気遣いありがとう存じます」
顔は相変わらず能面だったが、綾音の言葉の調子には軽い驚きが感じられた。何も言わずとも文九郎が綾音のしたことをなぞったことが意外だったらしい。
綾音は静かに若い男の枕元に座った。それから文九郎を手招いた。
文九郎はそっと綾音の横に正座した。間近で見た眠る男の顔色は、気持ち悪いほど白かった。日焼けした顔を見慣れているからだと文九郎は自分に言い聞かせた。
「主馬です。あなたの兄上、わたくしの弟です」
綾音はまた淡々とした物言いに戻っていた。
「主馬様はいったい何の病なんですか?労咳でやすか?」
「わかりません。何人ものお医者様に診ていただきましたが、分からずじまいです。最後に診ていただいたお医者様は、希に見る病でどんどん身体が動かなくなり、最後は息ができなくなって死んでしまうのだと申されました。直す方法はない不治の病だと……今では手も足も動かすことができませぬ。かろうじて目を開けることと、物を飲み込むことはできます」
綾音の語りは相変わらず淡々としていたが、文九郎は初めて聞く病に強い衝撃を受けていた。
「い、いつ息もできなくなるんでやすか?おおよその見当もついてるんでやすか?」
「診ていただいた時にあと一年もつかどうかと仰っていました。それから半年近く経ちます」
文九郎は眠る男の顔を見直した。眠って見えるが実は目覚めているのかもしれない。自分と同じろくでなしの父親を持つこの男の身にふりかかった悲劇を文九郎は他人事で済ませられなかった。ひょっとしたら、自分もある日突然、手が動かせなくなったりするのかもしれない。綾音もそんな思いに苛まれているのかもしれない。
この頃は何が伝染や感染する病で、何が人に感染しない病かがほとんどわかっていなかったから、病への不当な怖れや差別のあった時代である。
なお主馬が発症したのは、後の世にいうところの筋萎縮性側索硬化症だと考えられるが、未だに発症の要因がよくわかっておらず有効な治療法も見つかっていないのだから、江戸時代には当然なすすべのない病である。
「このような病にかかられたお方は他にもいらっしゃるのですか?」
つい文九郎は尋ねてしまった。尋ねてしまってから後悔したが、綾音は死んだ魚の目の能面のままで「いいえ、わたくしの知る限りでは主馬だけです」と答えた。
だがその間に何かが文九郎の視界の隅で動いた。
文九郎はさりげなく何が動いたのかを見た。それは綾音の手だった。膝に置いた手を組み合わせただけだった。
自分は思っている以上に緊張しているんだなと文九郎は思った。
「……ですから、あなたをこのお家に早く迎えなければいけないのです。主馬が息ができているうちに届けを済ませなくては」
文九郎は綾音の膝に置かれた手を見つめた。組み合わせた手に緊張が走ったように見えたのだ。
「綾音様は本心からあっしがこのお家を継ぐことを望んでらっしゃいますか?それが良いことだと、本当に思ってらっしゃいやすか?」
文九郎が言い終えた時、綾音の握りしめた手に更に力が入ったように見えた。文九郎の方は見ず、主馬の顔を見つめたまま綾音は答えた。
「お祖父様に良く似たそなたが継ぐことに何の不足があるのです?影からあなたを見た叔母上も納得されたそうです。お祖父様は大御番組の組頭を長く勤め、配下の大御番衆からも、上役にあたる大御番頭様からも信頼されたお方です。今もお祖父様を慕うお方が少なくありませぬ。そのお方々はそなたの相貌に懐かしさを感じられることでしょう」
文九郎は綾音の言葉を一応は聞きながらも、注意はその手のほうに向いていた。手から目が離せなくなっていた。よく見たら、傷だらけだったのだ。
「そんなお方々はあっしが口を開けばひっくり返りやすよ」
文九郎は視界の隅に綾音の手を捉えたまま、言葉を返した。
「言葉遣いなど慣れです。変えることは簡単とは申しませぬが、できないことではありませぬ」
「あっしがお旗本の暮らしに向いてるとは、とてもじゃありやせんが、思えやしません。商家の勤めもできねぇんです。無理ですよ。それよりもご親戚の……なんて仰いやしたか……あるお家の御次男は、あっしの二つ年下で文武両道に優れた良い若様だとお聞きしやした。そのお方をご養子にお迎えなさってはいかがでやしょう。翌日から大御番衆をお勤めになられやすよ」
綾音は文九郎の言葉を途中からは死んだ魚の目で文九郎の顔を見つめながら聞いていた。手から少し力が抜けたように見えた。
「文九郎殿は、そんなにこの屋敷が嫌いですか」
図星過ぎて文九郎はすぐには何も言えなかった。爺さんの言う通り、俺は思ってることが顔に出てるんだろうなと文九郎は苦笑いしそうになった。
太吉爺さんに「おめぇは思ってることが長屋の壁より筒抜けだ」とよく言われるのだ。そして「そんなんで御用聞きが勤まるかい」と続く。
文九郎はごまかしても仕方がない、綾音を怒らせるかもしれないが、構うものかと腹を括った。
「ええ、好きになれやせん。主馬様を見ても、あっしの気持ちはかわりやせんよ。門を入った時に思いやした。幽霊屋敷みてぇだと。主馬様が不治の病にかかっておられるからじゃねぇと思いやす。あっしにゃ分からねえが、もっと古くからある何かがそう思わせたんじゃねぇかと思いやす。古くて汚ねぇのにあっしが育った庄兵衛長屋にゃ、そんな感じはこれっぽっちもありませんよ」
綾音は無表情で文九郎を見ていたが、文九郎が言葉を切るとまた主馬に目を戻した。組み合わされた手にいくぶん力が入ったように見えた。
「文九郎殿がここで暮らし始めたら、幽霊屋敷から変わるかもしれないではありませぬか」
それはそうなのかもしれない。だが考えただけで文九郎は息がつまった。初めのうちは一挙手一投足にケチをつけられるだろう。そんな毎日に耐えられそうにない。
「あのぉ……大殿様の血筋に拘るんなら、綾音様が婿養子を取って、そのお方にこのお家をつがせるってのはできないんでやすか?そしたら、血筋も繋がりやすし、お家も安泰」
綾音がきっと文九郎を見た。死んだ魚の目から一気に怒りの目になっていた。
「わたくしは一度新見を出た身です。しかも子ができなくて離縁されたのてす。私に婿をとってその相手に継がせるなどあり得ませぬ」
文九郎は綾音の怒りにたじろいだ。まさかこんなに怒るとは思っていなかった。太吉爺さんと怒鳴りあって育ち、爺さんがお縄にした悪党どもが悪態つくのを何度も目にしてきたから、怒り狂う男女には慣れていたが、女の静かな怒りにはあまり慣れていないのだ。




