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月夜の鵺  作者: 空木弓
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第一部 姉 (九)

 ――幽霊屋敷だ。

 それが新見屋敷に一歩足を踏み入れた文九郎が受けた印象だった。

 赤坂の檜坂近くにある新見屋敷は、外からは高い塀に囲まれたごく普通の旗本の屋敷で、門は片方に番所が付いた長屋門だ。

 しかし番所に門番の姿はなく、文九郎が潜り戸を叩いて「暫しお待ちを」と返ってきた声は、早くも聞きなれてしまった酒井幸右衛門の声だった。

 わざわざ自ら潜り戸ではなく、門を開けて文九郎を嬉しげに敷地内に迎え入れた酒井の後ろには、庄兵衛長屋に真壁、酒井と共にやってきた中間の甚兵衛がいた。二刀を差した家臣が三人もいるのだから、中間、小者はもっといるだろうと思っていた文九郎だったが、中間は甚兵衛、一人だけなのかもしれない。


 文九郎は着古した藍縞の単に同じく着古した濃鼠の帯を絞め、足元は素足にぼろ草履という、いつもの格好だったが、酒井も甚兵衛も文九郎の格好に驚きもせず、顔をしかめることもなかった。

 門から母屋へと向かうにつれ、文九郎が感じた幽霊屋敷という印象は更に強まっていった。

 何かが乱れていたり壊れていたわけではない。手入れや掃除は行き届いているのに、灌木には柔らかな緑の新芽も見えているのに、文九郎はどこからも生気や活気を感じることができなかったのだ。

 酒井と甚兵衛の血色の良さが妙に浮いて見えていた。

 文九郎は勝手口へ回ろうとして酒井に止められ、初めて式台に足を置いた。式台の奥には川村が畏まって控えていた。

 式台の奥の薄暗さが幽霊屋敷の印象を更に強める。

「大奥様と綾音様は奥でお待ちでございます。さ、こちらへ」


 前に酒井、後ろに川村と二人の侍に挟まれ、文九郎は母屋の奥へと進んだ。途中からは濡れ縁に出た。

 文九郎が入ったことのある武家屋敷は、木塀に木戸門の三十俵二人扶持の御家人、成瀬と栗本の屋敷だけだったから、初めて足を踏み入れた大きな旗本屋敷にキョロキョロと周囲を見回さずにいられない。

 しかし濡れ縁から見える庭も文九郎には寂しく見えた。一体何がこうまでこの屋敷から息吹きを奪っているのか、文九郎は不思議に思った。


 濡れ縁を三部屋分歩いたところで酒井がちらと文九郎を見て立ち止まり、おもむろに跪いた。

「大奥様、綾音様、文九郎様をお連れしました」

 部屋の中から「おお、見えたか」と、老女の声がした。

 酒井が素早く立ち上がって文九郎の庭側の脇に立った。反対側は障子で後ろには川村がいる。

 酒井と川村に退路を塞がれ、文九郎は渋々前へ進んで座敷に向いた。


 室内の誰かが息をのんだ風があった。文九郎はろくに前も見ず、そのまま縁側に座ろうとした。

 途端に酒井と川村がガシッと座りかけた文九郎の両腕を掴み、脇に腕を入れてきた。そのままずるずると文九郎は二人に座敷内に引きずられていった。見事な連携だった。

「は、離してくだせぇ!」

 連携の見事さに呆気にとられてされるがままだった文九郎がやっと抗議できたときには、目の前に穏やかな顔つきの老女と整った顔立ちの若い女が座っていた。

 老女は鼠色に近い薄い青地の着物に正真正銘、鼠色の帯、若い女はこれまた鼠色に近い薄い紫の着物に薄い海松色(みるいろ)の帯と、二人とも背景の襖に溶け込んでしまいそうな薄い色目で揃えていた。

 文九郎は母と自分を放ったらかしてきた祖母を勝手に隣の長屋に住んでいた意地悪婆さんのおくらに似た、顎の尖ったきつい目の老女に想像していたため、そのふっくらした顔と穏やかな目に面食らった。

 老女の顔には驚きと喜びが溢れている。一方、隣に座る若い女の顔からは何の感情も文九郎には読み取れなかった。その目は死んだ魚の目だと、文九郎は思った。

「この子が文九郎ですね。まこと、若い頃の大旦那様によく似ている……こんなことが……こんなことが……」

 老女はそっと懐紙で涙を拭った。

 文九郎の方はというと、予想と違った容姿に面食らったあとには、自分と母のお文を拒絶したのはこの婆さんかとまた怒りが込み上げてきていた。その怒りは外にも出たのだろう。酒井が文九郎の肩に手を置き、囁いてきた。

「文九郎様、お座りくだされ。色々思うこともおありでしょうが、ここはひとまず……」


 脇差を差した二人の侍に後ろを取られては迂闊なことはできない。

 文九郎は無言で正座した。老女は見たくなかったが、姉の綾音であるはずの無表情の女が気になり、そちらの様子をちらりと窺った。

 先ほどから全く変わらない顔だ。死んだ魚の目で文九郎を見ている。

 酒井が白々しくも文九郎に二人を紹介した。

「文九郎様、お顔をおあげください。あなた様の御祖母上様と姉上様でございまする」

 文九郎は老女は見ないように、姉の方に向けて少し顔をあげた。

 綾音の表情は全く変わっていない。あの文は酒井あたりの代筆だったのではないかと思うくらい、異母弟を初めて見ても淡々としている。


 文九郎は騙された気分になった。この屋敷に来るにあたっては、異母姉に会うことを唯一の楽しみにしていたのだ。

 物心ついてからは祖父との二人暮らしである。母親の思い出も泣いている後ろ姿しかない。

 会ったことの無い姉に母親のような親密さを期待していたわけではないが、これほどの無表情は予想していなかった。文九郎がこれまでに触れあってきた町屋の人々は、皆、表情が豊かすぎるくらい豊かだったのだから。

 ――武家屋敷で育ったらこうなるのだろうか?

 綾音の母親は町人だということを思い出しながら、文九郎は思った。


「お茶をお持ちしました」

 濡れ縁に柔らかな女の声がして、文九郎はほっとした。思わず声がした方を見た。

 女も文九郎を見ていた。年は四十手前くらいか。女は文九郎と目があうとにっこり笑った。文九郎も漸く笑顔になれた。

 女は茶碗を馴れた手つきでよどみなく、老女、綾音、文九郎の順に置いていった。

「文九郎様、女中頭のおまさでございます。当家には某同様、大殿様が壮年の頃より勤めておりまする」

「まさと申します。文九郎様、お目にかかれて誠に嬉しゅうございます」

 おまさは酒井の紹介に深く頭を下げた。

「こ、こちらこそよろしく頼みます」

 慌てて文九郎も頭を下げて言葉を返した。

「おまさは大殿様をよく存じ上げているので、文九郎様にお会いするのを楽しみにしておったのです」

「酒井様が仰っていた通りでございますね。ほんとに大殿様によく似ていらっしゃる。お顔もお声も。綾音様とも似てらっしゃいますし」

 おまさは感慨深げだった。酒井がそうだろうと言うようにうんうんと頷いている。

「なんという皮肉であろうのう……」

 老女の声だ。

 文九郎は下を向いた。そっちには顔を向けたくない。


「綾音、そなたが覚えているのは老年のお祖父様であろうが、わたくしが嫁いできた頃のお祖父様は、あのようにきりりとした若殿様でいらしたのですよ」

 文九郎はまたしても寒気がした。

 なんという皮肉だと文九郎も思っていた。爺さんに似るなら太吉爺さんの方に似たかった。何でよりによって自分たち母子を認めなかった父方の爺さんに似ないといけないのか。

 太吉爺さんも大殿様の顔はよく見なかったので、文九郎が大殿様によく似ているとは、ついこの前、酒井が口にするまで知らなかったらしい。

 そのまま知らずにいたかった。文九郎は心底そう思った。

 その上唯一、自分が親しみを持てるかもしれないと思っていた綾音は死んだ魚の目をした能面である。

 文九郎はすぐにもこの屋敷を立ち去りたかった。茶碗にも手を伸ばさず、暇乞いの理由を必死に考え始めた。


「文九郎殿を主馬殿に会わせなくてはなりませぬ」

 初めて聞いた声だ。声がした方向からして綾音に違いない。

 文九郎は今一度と、綾音の顔を見た。変わらず死んだ魚の目をした能面がこちらを見ていた。

「もう少し後で良いでしょう。文九郎、酒井から話は聞いておりますね?そなたはこの御家をつぐに相応しい。すぐにも御祖父様と当家へ……」

「待ってください!」

 文九郎は語気強く老女の言葉を遮った。老女は言いかけた口のまま、動きを止めた。

「大奥様、あっしも爺さんもこのお屋敷に移ることを承知しちゃいませんよ。勘違いなさらねぇでくだせぇ。あっしも爺さんも町屋で育ってきたんだ。今さらお武家様のお屋敷になんぞ住めますかって。あんた達だって分かってるはずだ!ご親戚にはちょうど良い部屋住みのお方が何人かいらっしゃるというではないですか。まずはその方々に話を持ちかけるのが本筋じゃありませんか」


 下町言葉での反論に老女は腹を立てると文九郎は思っていたのに、老女はゆっくり口を閉じた後には穏やかな顔つきで、じいっと文九郎の顔を見つめてきた。

「言葉遣いは下賤ながら、その物言いがまた大殿様を彷彿とさせる……」

 文九郎の気持ちはがっくりと萎えた。自分が何を言ってもこの婆さんには大殿様の思い出にしか結び付かないのではないかと思った。俯いて拳を握りしめた。

「文九郎殿、主馬殿のお部屋へお連れいたしましょう」

 綾音の淡々とした声が聞こえた。

「お祖母様、主馬殿の様子を知らないうちは文九郎殿も気持ちが定まらないと存じます。主馬殿のお部屋へ行けば、お気持ちが変わるのではないでしょうか」

 主の部屋へ行ったぐらいで、気持ちが変わるものか。幽霊屋敷に感じる源はそこなのだろうか。そんなことを考えながら、文九郎は老女にも能面で話しかける綾音の横顔を見つめた。


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