第一部 姉(二十)
――え?なんでここで?なんで?
文九郎は呆然と綾音の顔を見つめた。
綾音は自分でも驚いたようで、人形を握ったまま、両腕で顔を覆ってしゃがみこんだ。
文九郎も慌てた。急いで懐に手を入れて引っ張りだしたら、手拭いではなく財布にしている巾着だった。
「ね、姉ちゃん、ちょっと待ってくれ。今、手拭いだすから……」
直後にふふふ……と、くぐもった笑い声がした。初めて聞いた声だ。
まさかと思いながら、文九郎は漸く取り出せた手拭いを片手に、もう一方の手をしゃがみこんでいる綾音の肩にそっと置いた。肩が震えていたが、泣いているからではなかった。
「『姉ちゃん』だなんて……ふふふ……」
「『姉ちゃん』がそんなに可笑しいかい?」
「だって『姉さん』と呼ばせてくれと言っていたのが、咄嗟に呼んでくれたのは『姉ちゃん』だったのですもの。可愛らしくて……可愛らしすぎて……」
文九郎が綾音が笑うのを見るのは初めてだ。まさか「姉ちゃん」で天岩戸が開くとはと、文九郎は面食らって暫くぼんやりとしていた。はっと我に返ると、手拭いで綾音の肩に触れた。
「ほら、姉ちゃん、手拭いだよ。もう一枚あるぜ。どれだけ泣いても大丈夫だ。あ、ちゃんと洗い立てだよ」
二枚の手拭いは用意しようと思って用意したのではなく、袂に一枚入れたままにしていたのをコロリと忘れ、今朝また懐に一枚入れただけなのだが、余計なことは言わぬが花である。
綾音は手拭いを文九郎の手から引ったくるように取った。
その瞬間に見えた綾音の顔は、この短い間にも涙で薄化粧は取れ、目も鼻も真っ赤だった。
それからどれくらいの時が過ぎただろうか。綾音は手拭いに顔を埋めて泣き続けた。そのうち泣きじゃくり始めた。
これまで押さえていたものが、新見家での祖母の躾という名で向けられた小言の数々に、稲葉家での姑のいびりにも、添い遂げたかった圭之助との二度の別れのどちらでも、おそらく流せなかった涙が、堰が切れたように一気に外へ出ようとしているんだろうと、文九郎は思った。泣きじゃくる綾音に夢で何度も見てきた泣き続ける母の後ろ姿が重なった。
文九郎はただ綾音の側にいた。黙って泣き続ける綾音を見守った。不思議と居心地の悪さは感じなかった。
「文九郎、ひくっ……ごめんなさい……ひくっ……涙が止まらないの……どうしたらいい?」
泣きじゃくりながら謝ってきた綾音に、文九郎は何が気になっていたのか、やっとわかったと思った。
「こ、こんなことになって、さぞ迷惑に思ってるでしょう……せっかくのお休みの日に、わ、わたくしのために……」
更に謝ろうとする綾音に文九郎は明るく言った。
「そんなことねぇよ。迷惑なんて思うわけねぇじゃねぇか」
綾音がわずかに手拭いから顔を上げた。驚いたような目で文九郎を見ていた。その間にも涙が溢れ続けている。また慌てて綾音は手拭いに顔を埋めた。
「仕方ないさ。涙が止まるまで泣き続ければいいんだよ。涙が止まらないのは、これまでずうっと泣きたい時に泣かずに我慢してきたからだよ。泣きたい時には素直に泣こうよ。でないと、溜まった涙で心が溺れちまうよ」
手拭いに顔を埋めたまま綾音が一つ頷いた。
「姉ちゃんは圭之助様と別れたくなかったんだね……いつの間にか心から好きになってたんだ。一生懸命尽くしたんだよね。なのに……。そうしてその圭之助様はあのようなことに……」
綾音は文九郎の言葉にうんうんと手拭いの中で頷いた。
「……わたくしは何をやっても駄目なの。うまくいかないの……一生懸命やっても、肝心なところで失敗してしまうの。それで小さい頃からお祖母様に叱られてばかり……せっかくお祖父様のお知り会いの、三組の組頭の布施様がまとめてくださった縁談だったのに、結局駄目にしてしまったし、主馬殿があのような病気になったのも、圭之助様があのような最期を迎えたのも、わたくしのせいのような気がして……」
文九郎にはまさかの綾音の告白だった。
「そんなバカなことあるわけない!今の殿様の病気も、圭之助様が斬られたのも姉ちゃんのせいなわけねぇよ!圭之助様とは三年も前に離縁したんだし、斬ったのは例の辻斬りだ!姉ちゃんはなにやってもきちんとできてる。だから、あの甘ったれの弟君も姉ちゃんに嫁に来てくれなんて図々しいことを言ってきたんだ。姉ちゃんは、今ではあの婆さんの自慢の孫だよ」
五百石の旗本の祖母である大奥様を「婆さん」と呼んでしまった文九郎に、綾音は泣きながらまた笑ったようだった。
文九郎が四方八方から降り注ぐ視線に気づいたのはそのときだった。
ここは芝神明の境内である。楊弓屋の裏手には池があり、その向こうには摂末社がある。裏手も裏ではないのだ。
そんな所で泣きじゃくる御高祖頭巾の女とそれを慰めようとしている若い男が人々の目を引かないわけがない。
目を引くだけならいいが、下手したら文九郎は悪者と勘違いされる。遠目から見える状況では、文九郎、かなり不利である。
思いきって周りを見回したら、好奇心丸出しでこちらを見ている野次馬の中に、綾音と同じように手拭いで顔を覆っている侍がいた。文九郎は体格といい、着ている物といい、見たことがあると思った。
侍は文九郎の視線に気づいたのか、手拭いで顔を隠したまま、わたわたと野次馬を掻き分けて去っていった。
その姿を目で追った文九郎を野次馬の好奇と冷たい目が見守っている。
文九郎は綾音を人目から庇いながら立たせると、耳元で囁いた。
「境内の反対側に料理茶屋がありやす。そこで休みやしょう」
綾音は手拭いから目だけ出して文九郎を見つめた。まだ涙が溢れ続けている。その目に文九郎は新見屋敷を初めて訪れた夜の夢に出てきた幼女を思い出した。不思議な既視感だった。
何かが自分と綾音を強く結びつけていると文九郎は感じた。二人とも実の母の記憶がほとんどないからなのか、あの「ろくでなし」が父親だからなのか。
あの「ろくでなし」が二人を結びつけているのだとしたら、なんという皮肉だろう。
文九郎は綾音を守るため、野次馬を睨み付け、凄みを利かせて言った。
「通してくれ」
野次馬は文九郎の睨みに怖じ気づいたようだった。元々まばらな人垣ではあったが、文九郎達の行く手が大きく開いた。
「姉弟って、ほんとかね」という野次馬の囁き声が文九郎の耳に聞こえてきた。
「池に身投げしようとしたのかしら」
「大の大人がこの池に飛び込んで死ねるかよ」
二人の姿が見えなくなったら、野次馬達の想像は過激になっていくのだろう。




