2.自分のために
その日の午後、ヴィクターが侯爵邸を訪れてきた。
応接室に通された彼と向かい合って座る。
両親と妹は同席していない。二人で話をしたいとヴィクターが望んだからだ。
ヴィクターはいつもどおり、少し癖のある金色の髪を整え、仕立ての良い服装だ。見慣れた姿だった。
定期的にお茶会をしたり、一緒に出かけたり、信頼関係を築けていたと思っていたのに……。
それなのに、今日の彼はとても遠い人に見える。
「久しぶりだね、アリシア」
「先週、お会いしたばかりですわ」
しかもエイミーと三人で。
「あ、ああ。そういえばそうだったね」
ヴィクターは気まずそうに咳払いをしてごまかす。
以前であれば、彼のフォローをしただろうが、今日はそんな気はない。
だから、彼が話を切り出すのを黙って待っていた。
「ええと。今回のことだけど、本当に申し訳ないと思っている」
「そうですか」
「君にはこれまで随分と世話になった。アリシアが聡明で素敵な女性だということもよく知っている」
そこでヴィクターは一旦言葉を切る。
「だが、僕はエイミーを愛してしまった」
その言葉は思っていたよりも痛みを感じた。私は彼に「愛している」とは一度も言われたことがない。
「エイミーへの想いを秘めて君との結婚を考えた。けれど、君とは恋人というより、信頼できる仕事仲間としか思えなかったんだ」
……仕事仲間か。
私は唇をきゅっと引き結んだ。
彼が仕事で困っている時、私はいつも力になろうとした。婚約者であれば、支えるのは当然だと思っていたから。
それが彼にとって、恋心とは違うものだとしても……。
少なくとも、私は彼のことを慕っていた。
「……なぜ、もっと早く仰ってくださらなかったのですすか?」
「ん?」
「私との結婚を望んでいらっしゃらないのであれば、なぜ、もっと早く話してくださらなかったのですか?」
今さら責めるつもりはない。
ただ、理由を知りたかった。
ヴィクターはしばらく黙っていたが、困ったように微笑んだ。
「賢い君なら理解してくれると思ったんだ」
ああ。そうか。
彼も家族と同じだったんだ。
私が傷つこうがそんなことは関係ない。最後には受け入れると思っていたんだ。
どれほど彼を愛していようが、自分の気持ちを押し殺して、彼の幸せを祝福するだろうと……。
私はいつだってそうしてきたから。
家族のために、彼のために、自分の気持ちは後回しにしてきた。
「……承知いたしました」
ヴィクターがほっとした表情になる。
「分かってくれたのか」
「はい。婚約解消には同意いたします」
「ありがとう、アリシア。君ならそう言ってくれると思っていたよ」
安堵したように微笑む彼を見ても、何も感じなかった。
正確には心が傷つきすぎて何も感じられなくなったのかもしれない。
「それから、これをお渡しいたします」
私はテーブルの上に置かれた書類を指し示す。
「これはこの間頼んだ改善案か? もうできたのか。さすがはアリシアだ」
「ええ。そして本日をもって、貴方のお仕事を手伝うことを終了させていただきます」
ヴィクターは眉を顰める。
「どういう意味だ?」
「申し上げたとおりです。今後、ヴィクター様のお仕事について私がお手伝いすることはございません」
彼は困惑した表情を浮かべた。
「そんなことを言わなくてもいいじゃないか。婚約を解消したからといって、僕の仕事を手伝うことをやめなくてもいいだろう」
私は思わずヴィクターの顔を見る。
どうしてそんなことが言えるのだろう?
今までは婚約者だからこそ支えなくてはと思い、彼の仕事を手伝ってきた。
だが、もう私たちは婚約者ではない。彼はエイミーを選んだのだ。
それなのに、私には今までどおり彼を支えろというのだろうか?
そんな義理はない。
「ヴィクター様」
「何だ?」
「私は貴方の婚約者だったからこそ、お力になりたいと思っておりました。ですが、婚約を解消する以上、これからはご自身でなさってください」
ヴィクターは言葉を失ったように呆けていたが、やがて不機嫌そうに眉を寄せる。
「君は……そんなに冷たい女性だったのか?」
冷たいと言われても、私は不思議なほど落ち着いていた。
この人も私のことを何も分かっていなかったのね。
「そうかもしれませんわね」
私はふっと微笑む。
「今まで気づきませんでしたわ」
◇◇◇
ヴィクターが帰った後、私はしばらく窓辺に佇んでいた。
出窓には母が選んだ花が飾られている。
この花はエイミーが好きな花であって、私の好みではない。
その花を眺めながら、私は考えた。
私は何が好きなのだろう?
好きな色、好きな花、好きな食べ物。考えてみても答えは出てこない。
いつだって誰かの好みを優先してきたから。
エイミーの好きなものを覚え、母が喜ぶものを選び、父が望む振る舞いをしてきた。
そうやって過ごしているうちに、自分が何を望んでいるのか分からなくなってしまったのだ。
「私、何をしていたのかしら?」
小さく呟いた声は、静かな部屋に溶けていく。
しばらく窓の外を眺めていたが、唐突に吹っ切れた。
「……もう、いいわ」
いつか私自身を認めてくれると思って努力してきたが、もうやめよう。
誰かに愛してもらうために、自分を犠牲にするのもやめよう。
これからは、自分のために生きてみたい。そう思った。
「でも、具体的に何をすればいいのかしら?」
クロスフォード侯爵家の長女として生きてきたが、それ以外の生き方はあるだろうか?
この家を出て一人で暮らそうか? いや。貴族の世界しか知らない世間知らずの私には無理だろう。
どうやって生きていけばいいのか、まるで見当がつかない。
それでも、何も分からなくても今までと同じ生活に戻るつもりはなかった。




