1.姉なのだから
新連載です。
よろしくお願いいたします。
私クロスフォード侯爵家の長女アリシア・クロスフォードには、幼い頃から守ってきた約束がある。
その約束は一歳下の妹エイミーに関わるものばかりで、私自らに課してきたものだ。
エイミーを泣かせないこと。
エイミーが欲しがるものは譲ること。
エイミーが失敗したら代わりに謝ること。
そして、どんなに理不尽なことがあっても、決して不満を口にしないことだ。
そうすれば、いつか両親は自分を見てくれる。エイミーも私を姉として慕ってくれる。そう信じてきた。
でも、そんなことはなかった。
「アリシア。お前に譲ってもらいたいものがある。もちろんエイミーにだ」
父の言葉を聞いた瞬間、またかと思った。私は膝の上で両手を強く握りしめる。
応接室に呼ばれた時から何となく嫌な予感はしていた。
私の正面には、父と母、そして両親の間に妹が座っている。
エイミーは愛らしい顔に涙を浮かべていた。実に庇護欲をそそる様だ。
「……譲るものですか?」
「ああ。そうだ」
父は落ち着いた様子で頷く。
「ヴィクターとの婚約を解消してほしい」
一瞬、何を言われたのか理解することができなかった。
だが、涙を浮かべながらもエイミーが頬を赤らめる様子を見て、何となく察する。
ああ、そういうことなのね。
ヴィクター・アディントンは私の婚約者だ。十五歳の時に彼との婚約が決まり、三年間良い関係を築いてきた。
つまり、彼をエイミーに譲れということなのだ。
「お姉様、ごめんなさい」
エイミーが震える声で謝罪する。
大きな紫色の瞳には涙が浮かび、今にも零れ落ちそうになっていた。
「私、いけないことだと分かっていたの。ヴィクター様はお姉様の婚約者だから。でも、ヴィクター様をお慕いする気持ちをどうしても抑えられなくて……」
母がエイミーの肩を抱き寄せた。
「まあ、エイミー。そんなに自分を責めなくてもいいのよ。恋心というものは誰にも止められないのですから」
「お母様」
「大丈夫よ。お母様たちがついているわ」
エイミーの柔らかなピンクの髪を母は優しく撫でる。
私はその光景を他人事のようにぼんやりと眺めていた。
エイミーが泣けば、母が慰める。
エイミーが何か欲しがれば、父が与える。
それは私が物心がついてから見慣れた光景だった。これがこの家の日常なのだ。
だが、今回ばかりは違う。
エイミーが欲しがっているのは、人形でもドレスでも宝石でもない。
私の婚約者なのだ。
「お父様。ヴィクター様との婚約は、両家の合意によって結ばれたものです。そう簡単に解消はできませんわ」
「それは分かっている」
「でしたら……」
「だからこそ、お前に頼んでいるのだ」
父は私の言葉を遮った。
「ヴィクターもエイミーを愛しているそうだ。本人たちの気持ちを考えれば、無理に婚約を続けさせるわけにもいかんだろう」
「……ヴィクター様も……ですか?」
「ああ。ヴィクター本人からも気持ちを聞いた」
ズキリと胸が痛む。私には何の相談もなかった。
ヴィクターから婚約を解消したいという言葉を聞いたわけではない。
それなのに、両親や妹とはすでに話を済ませている。
私だけ蚊帳の外に置かれていたのだ。
「……ヴィクター様は本当に私との婚約を解消したいと、おっしゃったのですか?」
もしかしたら、エイミーの一方的な思い込みかもしれないので、念のため、私は尋ねる。
そうであってほしいと、心のどこかで願っていた。
でも、父はあっさりとこう答えた。
「お前も知っているとおり、ヴィクターは誠実な男だ。だからこそ、自分の気持ちに嘘をついたまま結婚することはできないと言っていた」
誠実? ヴィクターが?
その言葉を聞いて、私は思わず笑いそうになった。
婚約してから三年間、私は彼のために尽くしてきたのだ。
彼の生家アディントン伯爵家は代々優秀な文官を輩出している。ヴィクターも王太子補佐官見習いとして王宮務めをしているのだが、文官としての才能があるほうではない。
文章を書くのが苦手だというから、ヴィクターに任されたはずの報告書を代理で処理した。それから、度々彼は仕事を私に任せてきたのだ。
そして――。
私は定期的に彼に宛てて手紙を書いたが、ヴィクターから返事が届くことは三回に一度あるくらいだった。だが、私は決して彼を責めなかった。
デートの約束をした日に急用が入ったと言われれば、いつだって「用事を優先して」と笑って見送った。
そうすることが、婚約者としてヴィクターを支えることだと思っていたから。
いつか結婚したら、二人で穏やかな家庭を築くのだと、そう信じていたのに……。
だが、ヴィクターは私でなく、妹を、エイミーを選んだ。
私が彼のために費やした時間も努力も思い出も全てが無駄だった。
彼にとってそれは何の意味もなかったのだろうと思うと、虚しさに襲われる。
「アリシア」
少し困ったように微笑みながら、母が私を呼ぶ。
「貴女の気持ちも分かるわ。でも、ヴィクターはエイミーが初めて本当に好きになった男性なのよ」
「……私も、ヴィクター様をお慕いしております」
ヴィクターへ恋をしていたかと問われれば、確かに私は彼を慕っていたと思う。だが、それは本当に恋だったのか今となっては、もう分からない。
「ええ。そうでしょうね」
母の目は私には向けられていない。頷きながらも、その目はエイミーに向けられていた。
「でも、貴女は姉でしょう?」
幾度となく繰り返されてきた言葉。
「妹が幸せになれるのであれば、我慢できるでしょう?」
私の幸せは? そう問うたところで無駄なのは分かっている。
だから、黙っていた。
母はそれを肯定と受け取ったらしい。
「そうよね。貴女は昔から聞き分けのいい子だったもの」
父も満足そうに頷いた。
「アリシアは分かってくれると思っていた。アディントン伯爵家には、こちらから婚約解消の手続きを進めると伝えておこう」
もう全てが決まったかのようだった。私の意思など最初から必要なかったのだ。
爪が食い込むほどさらにきつく手を握ると、エイミーがおずおずと私の手に触れる。
「お姉様、怒っているの?」
エイミーに視線を向けると、瞳は涙に濡れており、唇は小さく震えていた。
幼い頃から数えきれないほど見てきた表情だ。
この顔をされると、私は何も言えなくなる。
私のために仕立てられたドレスをエイミーが欲しがった時も、楽しみにしていた観劇にエイミーが行きたいと言い出した時も、彼女はいつも同じ顔をしていた。
そして、両親は必ず同じ言葉を口にする。
――姉なのだから。
「私……お姉様を傷つけるつもりはなかったの」
エイミーは私の手を両手で包み込んだ。白くて柔らかい手。
「でも、ヴィクター様は私を選んでくださったの。私はどうしたらいいのか分からなくて……」
妹は私の手を握りながら、何を考えているのだろう?
姉から婚約者を奪ってしまった罪悪感を感じている?
それとも姉なら今回も許してくれるだろうと思っているのだろうか?
分からない。
今までだって、エイミーが何を考えているのか分からなかった。
「……ヴィクター様はこちらにいらっしゃるのでしょうか?」
私が尋ねると、父は意外そうな顔で頷く。
「今日の午後、こちらに来るそうだ。お前にも直接話がしたいと言っていた」
「そうですか」
エイミーの手をそっと外すと、私は立ち上がる。
「お姉様?」
「少し席を外します」
両親の返事を待たずに私は応接室を後にした。
廊下に出た途端、めまいに襲われた。だが、壁に手をつき、深く息を吸う。
泣きたい衝動に駆られたが、ここで泣くわけにはいかない。
泣けば、母はこう言うだろう。
「エイミーを困らせないで」と。
父は「いつまで落ち込んでいる」と呆れるだけだろう。
だから、泣かない。私はずっとそうやって生きてきたのだ。
だが――。
「……もう、疲れたわ」
誰にも聞こえない声で、私は呟いた。
その言葉を口にした途端、胸の奥に押し込めていた何かが、ほんの少しだけ崩れた気がした。
今日は複数話投稿します。




