第9話 長い道
久我との試合まで、あと一週間。
放課後の実技場で、俺は腰を低く落とした。
片脚を外へ引き、上体を少し捻る。最初に風を出せた時から、何度も繰り返してきた構えだ。
行き先は右。
そこへ身体が滑っていく姿を頭に描き、余計な力を抜く。
あとは――動く。
「――っ」
足元と背中側で空気が弾けた。
次の瞬間、身体が横へ押し出される。床の上を滑るように二メートルほど走り、そのまま踏ん張って止まった。
よし。もう着地で手をつくこともない。
「おおー。すっかり普通に使ってんな」
壁際から航平の声が飛んできた。
今日も依織、航平、直哉、ひよりの四人が当然のように揃っている。この一週間、ほぼ毎日顔を出しているせいで、もう見物人というより勝手に増えた練習仲間だ。
ひよりが嬉しそうにぱちぱちと手を叩いた。
「遼くん、最初に吹っ飛んでたのが嘘みたい!」
「吹っ飛んだんじゃない。移動したんだ」
「床に手ついてたけど?」
「着地にちょっと個性があっただけだ」
壁にもたれていた直哉が、口元だけで笑う。
「転びかけてたよね」
「過去を掘り返すな」
ここ数日、発動キー探しはずっと続けていた。その甲斐あって他にもいくつか手がかりは見つかったけど、今のところ一番安定しているのはこの風だ。
低い構えから横へ抜ける。
できるのはまだそれだけ。
それでも、魔法が一つも出なかった頃から考えれば十分すぎる進歩だった。
「反対もやってみて」
ノートを片手にしていた環先生が、眼鏡の奥から俺を見る。
「はいよ」
今度は左。
重心を移して腰を落とし、行き先を頭に描く。
風が弾けた。
身体が左へ走り、今度もきれいに止まる。
「もう一回」
「まだ?」
「確認」
仕方なくもう一度やる。
成功。
さらにもう一回――これも決まった。
こうやって連続で決まると、どうしても気分が良くなる。
一週間前まで魔法一つ出せなかったとは思えない。
俺、結構いけるんじゃないか。
そんなことを考えながら次の構えに入ったところで、足元の風が妙に弱く弾けた。
「……あれ?」
身体は横へ押された。でも、一メートルも進まない。それどころか、急に胸の奥がずしりと重くなった。
「遼くん?」
壁際にいた依織が身体を起こす。
俺は大丈夫だと片手を上げ、そのまま膝へ手をついた。
「ちょっと待って。これ……やっぱきついな」
別に全力疾走したわけじゃない。足も腕もまだ動く。
なのに身体の芯だけ、ごっそり抜かれたみたいにだるい。頭にも薄い膜がかかったようで、集中しようとすると妙に遠い。
この感覚にも、ここ数日ですっかり馴染んでしまった。
馴染みたくなかったけど。
環先生が俺の前まで歩いてくる。
「今日は何回?」
「今ので五回くらい」
「やっぱりその辺だねぇ」
「その辺だねぇ、じゃないんですよ」
俺は諦めてその場に腰を下ろした。
航平も近づいてきて、俺の前にしゃがみ込む。
「五回でそれ? お前、前より体力落ちてんじゃね?」
「違う。身体じゃなくて魔力の方だよ。昔ならこの程度、準備運動にもならなかった」
「すっごく燃費悪いからねぇ」
環先生がさらっと付け足した。
俺は顔を上げる。
「先生、毎回ちょっと楽しそうなの何なんです?」
「珍しいから」
「研究対象として見るな」
とはいえ、先生の言う通りだった。
魔法は出せるようになったし、発動キーも少しずつ見つかっている。
でも、自分の魔力だけで使っているせいで、とにかく減りが早い。一週間続けても、そこだけはほとんど変わらなかった。
久我との試合で五回使ったら終了。
どう考えても話にならない。
「……このままじゃ駄目ですね」
「うん」
「少しくらい否定してくださいよ」
「だって駄目だもん」
環先生は俺の横へしゃがむと、何事もなかったようにノートへ書き込み始めた。
容赦がない。
まあ、俺だって分かってる。
魔法が出たって喜んでるだけじゃ、もう足りない。
「じゃあ今日は、そっちじゃない方もやろうか」
「そっちじゃない方?」
「外の魔力を使う方」
思わず先生を見る。
「それ、今度の試合には間に合わないって話じゃ?」
「試合に間に合わせるのをやめただけ。やらないとは言ってないよ」
「似てるようで全然違うな」
環先生は立ち上がると、小さく手招きした。
「発動キーを使う方法は、目の前の試合に間に合わせるため。自分の魔力だけで無理やり魔法にする」
「無理やりって言い方、完全に定着しましたね」
「分かりやすいから」
嫌なところだけ定着した。
先生は気にせず続ける。
「でも、このやり方だけで昔みたいに何種類も魔法を使ったら、今みたいにすぐ空になる。相馬くん、本当は昔みたいに普通に魔法使いたいんでしょ?」
「そりゃ、できるなら」
そこは即答だった。
そりゃ、使えるものは多い方がいい。
昔の俺は相手を見て使うものを変えていた。火が駄目なら風、水が合わないなら別の手。相手が嫌がるものを探して、その場で切り替える。
またそれができるなら、やりたいに決まっている。
環先生は小さく頷いた。
「じゃあ、こっちも捨てない。時間はかかるけどね」
「どれくらい?」
「分かんない」
「先生、その答え好きですよね」
「便利だから」
便利で済ませるな。
先生が実技場の中央を指差した。
「じゃ、立って」
言われた場所へ移動する。
「立ちました」
「ちゃんと立って」
「ちゃんと立ってますよ」
「立ててない」
開始十秒で腹が立った。
環先生は俺の前まで来ると、つま先から頭までじっくり眺めた。
「肩に力入りすぎ。膝も伸ばし切らない。腰もちょっと反ってる」
そう言いながら、小さな手で俺の肩をぽんぽん叩く。
昨日までのあれこれが頭をよぎって反射的に一歩下がると、先生が首を傾げた。
「なに?」
「いや。今日は変な診察じゃないですよね?」
「今日は真面目だよ」
「その台詞、一回信用して痛い目見てるんで」
なんとなく背後から圧を感じて振り返る。
依織がにこにこと笑っていた。
先生。
今日は本当に真面目でお願いします。
主にあなたの命のために。
「肩の力抜いて。膝を少し緩める。それから、お腹の下の方を意識して」
「腹?」
自分の腹へ目を落とすと、環先生がへその少し下を指した。
「この辺。武術なんかだと丹田って呼ぶところだね」
「丹田に魔力が溜まってるとか?」
「そういう話じゃないよ」
あっさり否定された。
「身体の中心を意識しやすくするため。呼吸とか姿勢とか重心とかね。まず、自分の身体が今どうなってるのか細かく分かるようになってほしい」
「魔力を感じる練習ですよね?」
「そうだよ」
「開始早々、魔力どっか行ってません?」
「一回忘れて」
「忘れるの!?」
先生の訓練は、たまに目的地と真逆へ全力疾走する。
俺のツッコミを無視して、環先生は自分の腹へ手を当てた。
「鼻からゆっくり吸って。肩は上げない。お腹が膨らむようにして、そのままゆっくり吐く。一気に全部出さない」
「はい」
言われた通りに息を吸い、ゆっくり吐く。
もう一度。
同じように繰り返す。
何度かやったところで、俺はとうとう口を開いた。
「……先生」
「なに?」
「地味ですね」
「基礎なんてだいたい地味だよ」
ごもっともだった。
ついさっきまで風を爆発させて横へ飛んでいたのに、今は実技場のど真ん中で静かに呼吸している。
魔法学園って何だったっけ。
「じゃ、そのまま歩いて」
「普通に?」
「ゆっくり。腰の高さをなるべく変えないで」
膝を少し緩めたまま一歩進む。
「肩に力入ってる」
「はい」
「顎上がってる」
「はい」
「今、重心が右に逃げた」
「先生、注文多くないです?」
「身体のこと全然分かってないねぇ」
「十五年付き合ってきた身体なんですけど」
「十五年使ってそれ?」
「言い方!」
後ろで航平が盛大に笑う。
ひよりは面白そうに俺の歩き方を真似し始め、直哉は腕を組んだまま「見た目よりきつそう」と完全に他人事だ。
依織だけは俺の足元をじっと見ていた。
「でも遼くん、昔から上半身が先に動くこと多かったよ」
「また俺の知らない俺情報出てきたな」
この幼馴染み、俺の試合映像を頭の中に何本保存してるんだ。
環先生がぱん、と小さく手を叩いた。
「次。歩きながら呼吸も合わせて」
「まだ歩くんです?」
「今度は前、後ろ、横」
「魔法より歩き方の方が難しくなってきたぞ」
それからしばらく、呼吸と姿勢と重心移動を延々やらされた。
使う器具は何もない。
立って、呼吸して、歩いて、止まる。向きを変えたり、時々片足で止まったりする。
見た目だけなら何の授業かさっぱり分からないし、地味なくせにこれが意外と疲れる。
「先生、これがどう魔力につながるんです?」
休憩になり、タオルを首へかけながら聞く。
環先生は床に座ったまま眼鏡を押し上げた。
「相馬くん、今までずっと『魔力を感じよう』って練習してきたんでしょ?」
「まあ。散々」
病院でも、リハビリでも、競技へ戻ろうとしてからも。
目を閉じて集中し、身体の中を探す。外の魔力を探す。
全部駄目だった。
「だから逆からやる」
先生は自分の膝を指先でとんとん叩いた。
「呼吸がどう動いてるか、重心がどこにあるか、どこの筋肉に力が入ってるか。まずは、自分の身体で起きてる変化を細かく拾えるようにする」
「それで魔力も分かるようになる?」
「身体の中に魔力があるのは確定してるからね。自分の身体を細かく感じ取れるようになれば、今まで気づかなかったものが混じってるって分かるかもしれない」
「かもしれない」
「うん」
そこは言い切らないのか。
でも、先生らしい。
絶対できるなんて簡単には言わない。可能性がありそうな道を見つけて、俺をそこへ突っ込ませる。
「まずは自分の中の魔力。それを身体の感覚と結びつける。そこまでいったら、今度は外から来るものとの違いを探していく」
「ずいぶん遠いですね」
「遠いよ。半年かもしれないし、一年かもしれない。もっとかかるかも」
「試合まで一週間なのに、急に一年って単位が出てきたな……」
思わず笑った。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
少し前の俺なら、一年なんて聞けば長いと思ったかもしれない。
今は違う。
目の前には、発動キーを使って自分の魔力だけで戦う、短い道が一本ある。そっちは今度の試合へ向けて全力で走ればいい。
長い方は急がなくていい。
だったら、両方やればいいだけだ。
「了解。じゃあこっちは気長にやります」
「うん。毎日ね」
「毎日?」
「器具いらないから家でもできるよ」
逃げ道まで塞がれた。
まあ、やるけど。
俺はタオルで額を拭きながら、さっきまで何度も風を弾けさせていた床へ目を向けた。
魔法は出せるようになった。発動キーも見つかった。
一週間前までを考えれば、とんでもない前進だ。
でも、このままじゃ数回使えば終わる。
久我がどんな戦い方をするにしても、それじゃ勝負にならない。
だったら、この燃費の悪さをそのまま受け入れるんじゃなくて――使い方の方を変えるしかない。
「……工夫しないとな」
ぽつりと漏らすと、環先生が眼鏡の奥からこっちを見た。
「そうだねぇ」
「なんか案あります?」
「あるかもしれない」
「そこは『ある』って言ってくださいよ」
先生は何でもないことみたいに小さく肩をすくめた。
試合まで、あと一週間。
魔法が出たって喜んでる時間は、どうやらもう終わりらしい。
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