第8話 一歩目
翌日の放課後。
俺は実技着に着替え、昨日と同じ実技場の中央に立っていた。
そして今日も、壁際には制服姿の依織、航平、直哉、ひよりがきっちり四人並んでいる。
「……またいる」
「なんだよ、その第一声」
航平が不満そうに眉を上げた。
「昨日はまだ分かる。今日は完全に見物だろ」
「違うぞ。友人の復活を見届けに来たんだ」
胸まで張って言うので、俺は鼻で笑った。
「言い方だけ立派にするな」
「俺は普通に続きが気になった」
壁にもたれていた直哉が、悪びれもせず横から付け足す。
「お前は正直でよろしい」
「私は応援だよ!」
ひよりが元気よく両手を挙げ、その隣では依織も長い黒髪を肩の後ろへ払いながら笑っている。
「私は遼くんの付き添い」
「それ昨日も聞いた」
どうやら当分、この四人はついてくるらしい。
まあいい。二年近く出なかった魔法が本当に出るなら、観客くらいいた方がいい。成功したら盛大に拍手してもらおう。
俺は気を取り直して、目の前の環先生へ向き直った。
今日も赤ジャージ。今日も無表情。
昨日あの部屋を見てしまったせいで、この人が今朝ちゃんと赤ジャージを発掘できたことに少し感動する。
「先生。今日はキー探しですよね?」
「うん」
環先生は眼鏡を押し上げると、手にしていたノートを開いた。
「相馬くんの身体に残ってる魔力を、魔法に変えるための発動キー。今日はそれを探すよ」
よし。
昨日、魔法が使えるかもしれないと言われた。だったら今日は、その第一歩だ。
二年近く空振りを続けてきたんだ。手印だろうが詠唱だろうが何でも来い。
「何からやります?」
「とりあえず、これ」
環先生が両手を胸の前へ持ち上げ、指を複雑に組み合わせた。
昨日見せてもらった手印だ。
「まず火」
「了解」
俺も見よう見まねで同じ形を作る。
頭の中で火を思い浮かべた。
昔なら、指先でも手のひらでも火なんていくらでも出せた。その光景なら今でもはっきり覚えている。
熱。
炎。
燃えるもの。
そこまでイメージして待つ。
「…………」
何も起きない。
環先生は俺の手元をじっと見ていたが、すぐに指の形を変えた。
「次、水」
「切り替え早いですね」
水。
駄目。
続けて風、地。形を変えて何度も試してみたものの、指先どころか髪一本動かなかった。
五分後、俺はとうとう両手を下ろした。
「先生。手印、全滅です」
「そうだねぇ」
「もうちょっと残念そうにしてもらえます?」
俺としては結構期待していたんだけど。
環先生は全然残念そうじゃなかった。ノートへ何かを書き込むと、何事もなかったように次へ進む。
「じゃあ、今度は声」
「声?」
「何か言ってみて」
「何かってなんです?」
「魔法が出そうなやつ」
「急に理論がふわっとしたな!」
後ろで航平が吹き出した。
「必殺技だろ。こう、格好いい名前叫べばいいんじゃねえか?」
「じゃあお前が先に叫べよ」
「俺の訓練じゃねえし」
「都合のいい時だけ当事者意識なくすな」
すると、ひよりまで楽しそうに手を挙げた。
「遼くん、昔は技名とかつけてなかったの?」
その瞬間だった。
隣で依織が「あ」と小さく声を漏らす。
俺は反射的にそっちを向いた。
「待て」
「まだ何も言ってないよ?」
「今、思い出した顔しただろ」
依織は口元へ手を添え、あからさまに笑いを堪えている。
「昔の遼くん、ちゃんと――」
「言うな」
「でも、発動キーになるかもしれないよ?」
「世界には掘り返しちゃいけないものがあるんだよ!」
小学生の頃につけた必殺技名なんて、人生の地層の奥深くに埋めておくべきものだ。高校の友達の前で発掘されてたまるか。
案の定、航平と直哉の目が一気に輝いた。
嫌な輝きだ。
「篠原、あとで教えてくれ」
「録音していい?」
「お前ら全員覚えてろよ」
「相馬くん」
環先生に呼ばれて振り返る。
「昔の技名、言ってみようか」
「先生まで敵!?」
「有力候補だよ」
真顔で言われると反論しづらい。
いや、それでも嫌なものは嫌だけど。
結局、依織には厳重な口止めをして黒歴史は封印し、もっと無難な言葉から試すことになった。
「火」
駄目。
「燃えろ」
駄目。
「出ろ」
やっぱり駄目。
もう何でもいいや、と最後には、
「……お願いします」
と頼んでみたが、魔法は俺の礼儀正しさにも応えてくれなかった。
航平が肩を揺らす。
「最後だけ魔法に敬語じゃん」
「うるさい。こっちは藁にもすがってんだよ」
環先生はまたノートに何かを書き込んだ。
「言葉だけも駄目っぽいね。じゃあ指鳴らして」
ぱちん。
何もなし。
両手を叩く。息を三秒止めてから吐く。片目を閉じる。拳を握る。
全部駄目。
「じゃあ両手を腰に」
「こう?」
「右足を一歩前。左肩を引いて、もう少し腰落として」
言われるままに姿勢を変える。
右手は腰。左手は胸の前。右足を踏み出し、上半身を斜めに傾ける。
そこで、ふと我に返った。
「……先生」
「なに?」
「俺、今どんな格好してます?」
環先生が一度だけ上から下まで俺を見る。
「変」
「あなたがやらせたんでしょうが!」
後ろから笑い声が弾けた。
航平なんてもう隠す気もなく腹を抱えている。
「相馬、そのまま! 写真撮っていい?」
「撮ったらスマホ割るぞ」
「まだ魔法使えねえだろ」
「素手がある」
直哉まで肩を震わせ、ひよりは口元を両手で押さえているものの、目が完全に笑っていた。
最後の望みをかけて依織を見る。
「依織」
「なに?」
「笑ってるだろ」
「笑ってないよ?」
「じゃあこっち見ろ」
すっと目を逸らされた。
こいつも敵だった。
「はい、次」
環先生だけが淡々としている。
今度は両腕を頭の上へ上げさせられ、片足まで少し浮かされた。
「先生、これ絶対違いますよね?」
「違うかどうかを調べてる」
「その理屈なら何でもありじゃねえか!」
でも、ここまで来たらやるしかない。
腕を交差する。しゃがむ。片手を床につく。胸の前で拳を合わせる。身体を半分捻る。一回跳んで、着地と同時に風をイメージする。
先生の指示に従って、人生で一度も取った覚えのない姿勢を延々と試した。
結果。
全滅。
魔法どころか、そよ風一つ起きない。
「これは大変だねぇ」
環先生が腕を組んだ。
俺は膝へ手をつき、軽く息を整えながら見上げる。
「今さらですか?」
「普通はこんなことしなくていいからね」
すると壁際で見ていた航平が、ふと首を傾げた。
「そういや先生、普通の魔法と相馬がやろうとしてるのって、具体的に何が違うんです?」
「いい質問」
環先生はそう言うと、なぜか航平たち三人へ顔を向けた。
「じゃあ聞くけど、君たちが魔法を使う時はどうしてる?」
「俺ら?」
航平が自分を指差し、少し考える。
「どうって……まず魔力を練りますよね」
「それで使いたい魔法をイメージする。火なら火、水なら水って」
ひよりが続けると、直哉も腕を組んだまま頷いた。
「そこまでできたら、あとは普通に出すだけじゃないですか?」
「そう。みんなはそれでいい」
環先生が小さく頷いた。
「自分の魔力と外から取り込んだ魔力を練って、使いたい形をイメージして発動する。慣れてる人なら、それをほとんど一続きでやってる」
まあ、そうだ。
俺だって昔はそうだった。というより、考える前にやっていたくらいだ。
「でも相馬くんは、それができない」
環先生の人差し指が俺を向く。
「外の魔力を感じられないから、自分の魔力だけで魔法を作らないといけない。それだけでも効率が悪いのに、今の相馬くんは普通みたいにイメージしただけじゃ魔力が形にならない」
直哉が先生の話を追いながら、顎へ指を添えた。
「だから、キーが必要なんですね」
「そう。相馬くんは使いたい魔法をイメージして、さらに発動キーの条件を満たす。そこでやっと、自分の魔力がその形に動いてくれる」
ひよりが指を折りながら確認する。
「私たちは、魔力を練る、イメージする、出す。遼くんは、イメージして、キーを満たして、自分の魔力だけで……」
「無理やり出す」
環先生が真顔で締めた。
「最後の言い方、もうちょっと何とかなりません?」
「だいたい合ってるから」
嫌なところだけ正確である。
航平がしみじみと俺を見る。
「めんどくせえな、お前」
「俺が一番思ってるよ」
しかも問題は、面倒なだけじゃない。
環先生は、さっき俺にやらせた謎の構えを自分で再現してみせた。
「仮にこれが発動キーだったとしても」
「もう嫌な予感するんですけど」
「試合中に毎回この姿勢を取ってたら、久我くんに殴られるね」
「じゃあなんでやらせたんですか!」
「出るかもしれなかったから」
「実戦性ゼロじゃねえか!」
後ろでまた笑いが起きる。
先生は俺の抗議を綺麗に流し、ノートをぱらぱらとめくった。
「だから、できれば小さい動作がいいんだよね。拳を握るとか、手首を返すとか、一歩踏み出すとか。戦ってる最中でも自然にできるもの」
「最初からそれだけ試せばよかったんじゃ?」
「大きい動作の方がキーとしては分かりやすいから」
ちゃんと理由はあった。
悔しい。
「それに、新しいキーを一から身体へ覚え込ませるのも時間がかかる」
先生がノートから顔を上げた。
「二週間しかないし」
二週間。
いや、もう一日減った。
久我は二年以上、炎一つを磨いてきた。
こっちは今、魔法を出すためのポーズを探している。
こうして並べると、結構ひどい状況だな。
でも、だからって諦める気はない。
「じゃあ、どうします?」
「相馬くんが昔から無意識にやってた動作を使うのが、一番早いと思う」
「昔から?」
環先生の視線が俺を通り越し、依織へ向かった。
「篠原さん。何か知らない?」
「私?」
依織は顎へ指を添え、少し考え込んだ。
「遼くんの癖……」
「そんなのあったか?」
「あるよ。いっぱい」
「いっぱいあるの?」
知らなかった。
自分のことなのに。
依織は目を閉じ、昔の試合を思い出すようにしばらく黙った。それから指を一つ立てる。
「攻撃に入る時は右足から踏み込むことが多かったし、遠距離の魔法を撃つ前は少し肩を開いてた。それから、相手の懐に入る時はすごく低くなって……」
言いながら俺の前へ出ると、長い脚を開いて腰を落とした。
上体を低くし、片脚を外へ引いて、片方の手を少し前へ。
長身の依織がやると、それだけで妙に様になる。
「こんな感じ」
「低いな」
「遼くん、相手の攻撃を避けながら中へ入る時によくやってたよ」
言われてみれば。
……いや。
やっぱり覚えてない。
「俺、本当にやってた?」
「やってたよ」
「本人の記憶より信用できるな」
直哉がぼそっと言った。
否定できないのが腹立つ。
俺は依織と入れ替わり、同じ姿勢を取ってみる。
腰を落とし、片脚を外へ引いて、身体を少し捻る。
「こんな感じ?」
依織が俺の横へ回り込み、肩へそっと手を添えた。
「もう少し低かったかな。あと、こっちの肩を少し引いてた」
「こう?」
「うん。それくらい」
環先生も俺の前へしゃがみ込み、眼鏡の奥からじっと身体全体を見た。
「何かイメージしてみて」
「何を?」
「まず風でいいよ。その姿勢、動くための形みたいだし」
風。
身体を押して、ほんの一瞬で距離を変えるための風。今いる場所から、横へ抜ける。
行け。
「…………」
何も起きなかった。
「駄目ですね」
「もう一回」
立ち直して、同じ姿勢。
駄目。
もう一度。
やっぱり駄目。
五回目あたりで、さすがに肩へ余計な力が入ってきた。
「もっと力抜いてみて」
環先生が言う。
「昔の相馬くん、そんなに考えて動いてなかったでしょ?」
「それ、褒められてます?」
「たぶん」
たぶんかよ。
でも、言われてみればその通りだった。
今の俺は、足はここ、肩はここ、身体をこれだけ沈めて、次に風をイメージして、キーを満たして――なんて、一つ一つ確認しすぎている。
そんなこと、昔はいちいち考えてなかった。
相手が来る。避けて、懐へ入る。必要なら魔法を使う。
それだけだった。
「……もう一回」
一度姿勢を解き、息を吐く。
今度は足の位置なんて見ない。前だけを見る。
目の前に相手がいるつもりで腰を落とし、片脚を外へ滑らせて上体を低くする。
昔の俺なら、このまま相手の攻撃をすり抜けて横へ出る。
だったら。
行け。
その瞬間だった。
腹の奥で、何かが動いた。
「――っ!」
足元と背中側で空気が弾ける。
次の瞬間、背中を巨大な手で思い切り押されたみたいな衝撃が来た。
景色が横へ飛ぶ。
「うおっ!?」
反応する暇もない。
気づいた時には、俺はさっき立っていた場所から二メートル近く横へずれていた。
勢いを殺しきれず、片足を大きく滑らせながら床へ手をつく。
少し遅れて風が駆け抜け、依織の長い黒髪を大きく巻き上げた。航平たちの制服の裾までばさっと揺れる。
静かになった。
誰も声を出さない。
俺も出せなかった。
床についた自分の手を見る。
そこには何もない。風だって、もう消えている。
でも、今のは分かった。
今まで何度探しても何もなかった身体の中で、ほんの一瞬だけ何かが動いた。それが身体を抜けて、風になった。
「……今の」
やっと声が出た。
環先生が立ち上がる。
いつもの無表情のまま。ただ、ほんの少しだけ目を細めていた。
「風だね」
俺もゆっくり身体を起こす。
「俺が出した?」
「相馬くん以外、誰も何もしてないよ」
その後ろから航平が大声を上げた。
「お前、今消えなかったか!?」
「消えてないよ。すごく速く横に動いただけ」
環先生が即座に訂正する。
俺はさっきまでいた場所と今立っている場所を見比べた。
「一歩にしては乱暴すぎるだろ……」
でも、そんな言葉とは裏腹に、口元が勝手に上がっていく。
手を握る。まだ覚えてる。
腹の奥から何かが抜けていった、あの感触。ほんの一瞬、それも一回だけ。制御なんてできてないし、着地だって危なっかしい。
それでも、空振りじゃなかった。
二年近く何度やっても出なかったものが、今、確かに出た。
「先生」
「なに?」
俺はもう一度、足を開いた。
さっきと同じように腰を落とし、身体を低くする。
今度は誰に言われなくても、自然と笑っていた。
「今の、もう一回やります」
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