第2話 久しぶりの朝
「起きて、遼くん」
身体がゆさゆさと揺れる。
「遼くん、朝だよ。起きて」
頬のあたりがくすぐったい。細くてさらさらした何かが鼻先を撫でている。
髪か。
母さんにしては長い。というか、母さんならこんな優しい起こし方はしない。問答無用でカーテンを開けて、朝日で攻撃してくる。
じゃあ誰だ。
「遼くん?」
仕方なく目を開ける。
まだぼやけた視界のすぐ近くに、人の顔があった。
白い肌に、すっと通った鼻筋。長い睫毛の奥には濁りのない黒い瞳が二つ。腰まで伸びた黒髪が肩からこぼれ、その一部が俺の頬に垂れている。
朝っぱらから腹が立つくらい整った顔だ。
……誰だ、この美少女。
数秒かけて意識が浮上する。
いや、知ってる。
ものすごく知ってる。
「……依織!?」
俺が跳ねるように上体を起こすと、篠原依織は顔を引き、ようやく起きたと言わんばかりに笑った。
「おはようございます、遼くん。やっと起きた」
「おはようじゃなくて。なんでいるんだよ」
つい数時間前までスマホの画面の中にいた女が、今は俺のベッドの横にいる。
怖い。
枕元の時計を見ると、六時五十八分。
目覚ましをセットした時間より、きっちり三十二分早い。
俺の貴重な三十二分である。
「誰が入れた?」
「ご両親」
「家に?」
「うん」
俺がじっと見上げると、依織は何を聞かれるのか分かったらしく、先回りしてにっこり笑った。
「お部屋にも入っていいって」
そこまで許可したのか、うちの親。
息子のプライバシーという言葉を、どこかへ置き忘れているらしい。
俺は寝癖のついた頭を掻きながら、改めて依織を見る。
「それにしたって、ずいぶん早いな」
「今日から少しお休みをもらえたから。ゴールデンウィークに大会も取材もまとめていっぱいやったでしょう? しばらくは学校にもちゃんと行けるの」
嬉しそうにそう言って、依織はベッド脇で膝を伸ばした。
立たれると、やっぱりでかい。
百九十センチを軽く超える身長が、俺の部屋だと余計に際立つ。
「それで、久しぶりに遼くんと一緒に登校しようと思って」
「なるほど。それは分かった」
俺は一度頷いてから、人差し指を立てる。
「でもな。だからって男の子の家に朝っぱらからそんな無防備に入るんじゃありません」
「えー」
「えー、じゃない」
依織は少しだけ唇を尖らせたあと、目を逸らした。
「でも、遼くんなら私は気にしないよ?」
言いながら、頬がじわっと赤くなる。
両手を胸の前で合わせ、なぜかもじもじし始めた。
「むしろ、その……遼くんなら……」
「…………」
こいつ。
意味を分かって言ってるのか、分かってないのか。
たぶん両方だ。
そこを掘ると朝から面倒なことになりそうなので、俺は布団をめくって立ち上がった。
「とにかく着替えるから出てけ」
「手伝う?」
依織がぱっと顔を上げる。
「ネクタイなら結べるよ。ブレザーも着せてあげようか?」
「俺は五歳児か。いいから出てけ」
肩を押して部屋の外へ追いやると、扉が閉まる寸前、黒髪の隙間から楽しそうな顔だけが覗いた。
「じゃあ下で待ってるね」
「はいはい」
扉を閉める。
ようやく静かになった。
時計を見ると、七時二分。
四分も使った。
俺の三十二分が、もう二十八分しかない。
いや、そういう問題じゃないな。
◇ ◇ ◇
制服に着替え、鞄を持ってリビングへ降りると、楽しそうな話し声が聞こえてきた。
「まあ、それじゃゴールデンウィークなのに、ほとんど休めなかったんじゃない?」
「移動中は寝られたから大丈夫です」
「若いからって無理しちゃ駄目よ」
「はい」
依織がうちの両親と、すっかり馴染んだ様子で朝食を囲んでいる。
昔はよく見た光景だ。
家が近かったこともあって、小さい頃はお互いの家を行ったり来たりしていた。最近は依織が大会だ取材だ仕事だと忙しくしていたから、こうして朝から相馬家に混ざっている姿を見るのは久しぶりな気がする。
もっとも、本人は昨日まで働き詰めだったとは思えないくらい元気そうだ。
「遼、おはよう」
父さんがコーヒーカップを片手に言う。
俺は「おはよ」と返しながら席についた。
すぐ横で母さんが笑う。
「依織ちゃんに起こしてもらったんでしょ?」
「本人を俺の部屋まで通した人が何言ってんの」
「いいじゃない。昔から知ってる仲なんだから」
「昔から知ってたら何でも許されるわけじゃないだろ」
朝飯は焼いたパンと卵、サラダ。
パンをかじっていると、父さんが依織へ視線を向けた。
「昨日の大会も優勝だったんだって?」
「はい。なんとか」
「なんとかって試合じゃなかったでしょう。ニュースで見たわよ」
母さんに言われ、依織は少し照れたように笑う。
「ありがとうございます。でも、反省するところも結構あって」
「またそれか」
俺が卵を口に放り込むと、依織がこっちを見る。
「なに?」
「昨日のインタビューでも同じこと言ってただろ。優勝した日くらい、今日は完璧でしたって言っとけばいいのに」
「本当に完璧じゃなかったから」
「真面目だなあ」
スマホで見たヒーローインタビューより、こうして朝飯を食いながら話している方が、俺の知っている依織らしい。
母さんは感心したように頷いた。
「でも大変ねえ。大会に取材にテレビでしょう?」
「最近は雑誌の撮影も増えました」
「モデルまでやってるの?」
「競技関係のものがほとんどですけど」
百九十センチを超える身長に、あの顔だ。
撮る側からすれば使いたくもなるだろう。立っているだけで目立つ。
本人は昔からでかいから、あまり自覚がないみたいだけど。
依織はスープを一口飲んでから、今度は母さんに尋ねた。
「遼くんの方は、最近どうですか?」
「なんで本人が隣にいるのに親へ聞くんだよ」
俺が横から突っ込むと、依織は悪びれもせず笑った。
「だって遼くんに聞くと、普通とか別にとかしか言わないから」
「分かってるじゃん」
「学校ではちゃんとやってるわよね?」
母さんまで俺を見る。
「普通ってなんだよ」
「友達もできたみたいだし」
その言葉に、依織の表情が少し明るくなった。
「本当? よかった」
「なんで安心されてるんだ、俺は。普通にできるよ、友達くらい」
「遼くん、昔から知らない人には意外と人見知りするから」
「しない」
「するよ。大会の控室で知らない子に話しかけられて、私の後ろに隠れたこと――」
「それ何歳の話だよ」
思わず声を上げると、父さんと母さんが揃って笑った。
やめろ。
朝から味方がいない。
母さんは笑いながらも、どこか嬉しそうに俺たちを見比べた。
「でも、本当によかったわね。二人とも同じ高校に入れて」
「そうですね」
依織が素直に頷く。
俺はパンをもう一口かじった。
過去の実績込みとはいえ、俺も一応入れた。
依織は当然のように入った。
その差について朝飯の席で考えるほど、俺も暇じゃない。
パンが冷める。
「それで」
母さんが急ににこにこし始めた。
嫌な予感がする。
「孫の顔はいつ見られるのかしら」
「ぶっ!」
飲みかけの牛乳を危うく噴き出すところだった。
「話飛びすぎだろ! 高校入学から孫まで何段飛ばしたんだよ!」
父さんがコーヒーを飲みながら肩を揺らしている。
母さんは完全に面白がっていた。
俺は呆れながら隣を見る。
依織は――。
「え、えっと……」
顔を真っ赤にして、両手を頬へ当てていた。
視線が忙しなく泳いでいる。
「ま、まだ早いと思います……」
「答えなくていい!」
なんでそこだけ真面目に返すんだ。
依織はさらに赤くなり、父さんはついに声を出して笑い始めた。
勘弁してくれ。
俺は残っていたパンを一気に口へ突っ込んだ。
◇ ◇ ◇
家を出ると、五月の朝の空気は思ったより涼しかった。
グレーのブレザーに白いシャツ、濃い青のネクタイ。袖口や襟の内側に入った学校カラーの青が、歩くたびちらりと見える。
俺と依織は同じ制服姿で並んで通学路を歩いていた。
当然、目立つ。
正確に言えば、俺も昔はテレビや雑誌に出ていたので、たまに顔を覚えている人がいる。顔だって、まあ悪くはないと思う。
自分で言うのもなんだけど。
ただ、今すれ違った人が二度見した原因は、九割九分隣にいる女だ。
百九十センチオーバーで、腰まである黒髪。どう見ても美少女で、しかも学生魔法戦じゃ有名人。
これで目立つなという方が無茶である。
俺は少しだけ顎を上げて、隣を見る。
「なあ。やっぱお前、また身長伸びてない?」
「伸びてないよ」
依織は前を向いたまま答えた。
「本当に? 二メートルまであと何センチ?」
「数えないで」
「もう時間の問題だろ」
「遼くんが縮んだんじゃない?」
こっちを見下ろして、依織が少し意地悪そうに笑う。
「朝から怖いこと言うなよ。高校生男子にとって身長は繊細な問題なんだぞ」
「遼くんだって十分大きいでしょう?」
「お前の隣にいると全部霞むんだよ」
依織がくすくす笑う。
そんな他愛ない話をしながらしばらく歩いたところで、依織がふと思い出したように聞いてきた。
「学校、最近どう?」
「普通に楽しいよ」
「珍しくちゃんと答えた」
「俺だって成長する」
依織は満足そうに頷いたものの、すぐに少し申し訳なさそうな顔になった。
「私、最近あんまり学校行けてなかったから。みんなともあまり話せてなくて」
GW前から、依織は大会や仕事で何日か学校を空けている。
うちの学校は魔法戦の強豪校だけあって、選手が大会で授業を抜けることには慣れている。でも、制度がどうだろうと本人の高校生活まで代わりにやってくれるわけじゃない。
「航平と直哉は、また戻ってきたら話そうって言ってたぞ」
俺がそう言うと、依織はすぐに笑った。
「二人とも元気?」
「元気。航平はGW明けの宿題を昨日からやり始めたらしい」
「間に合ったの?」
「知らん。直哉はたぶん横で笑ってる」
「ふふっ。二人らしいね」
入学してまだ一か月。
俺ほど長い付き合いじゃないけど、依織も航平や直哉とは普通に友達になっている。
「あ、ひよりちゃんは?」
依織が続けて聞いた。
「元気だよ。お前が学校来るって知ったら喜ぶんじゃないか」
「そうかな?」
「そうかな、じゃないだろ。あいつ、お前の試合ほぼ全部見てるぞ」
ひよりは依織と普通に話せるくらいには仲良くなっている。ただし、その土台にはかなり分厚い憧れがある。
最初に依織とまともに話した日は、表面上は平静を装いながら、あとで俺に「本物だった」と三回くらい言ってきた。
「この前も、新しい戦い方がどうとか言ってたな」
「今度ちゃんと話したいな」
依織が嬉しそうに笑う。
「ひよりちゃん、すごく勉強熱心だから」
「お前に言われたら、たぶん一週間くらい機嫌いいぞ」
「じゃあいっぱい褒めよう」
「やめろ。調子に乗る」
今度は依織が声を出して笑った。
学校を離れている間も、こうやって少しずつ友達が増えている。
それを嬉しそうに話す依織を見ていると、こいつも一応、俺と同じ高校一年生なんだなと思う。
テレビの中にいると忘れそうになるけど。
話しているうちに、通学路の先へ学校が見えてきた。
灰色を基調にした大きな校舎。その奥には、普通の高校じゃまず見ない規模の競技施設が並んでいる。
俺たちが通うのは、魔法戦の強豪として全国的に知られた高校だ。設備も指導者も揃っていて、当然、強い選手も集まってくる。
俺がここへ入れたのは、今の実力というより昔の実績と、もしかしたら復活するかもしれないという期待込みだ。
ありがたい話ではある。
時間が無限にあるなら、もっとありがたかった。
魔法は、一生使えるものじゃない。
昔から人間の身体に備わっている力ではあるけど、幼い頃は弱く、成長と一緒に一気に強くなる。
十代で強くなり、二十歳前後でピークを迎える。そこから少しずつ衰えていき、三十歳にもなればほとんど使えなくなる。
だから魔法戦の選手生命は短い。
高校生なんて世間じゃまだ子供だけど、競技の世界じゃ一番大事な成長期の真ん中だ。
俺の場合、その貴重な一年をほぼ丸ごとリハビリに使った。
で、今も魔法はさっぱり。
なかなか景気のいい話である。
まあ、だからって止まってても仕方ない。入れた学校には通うし、できることはやる。
それで何か変われば儲けものだ。
「遼くん?」
呼ばれて顔を上げる。
依織が少し前を歩きながら、振り返っていた。
長い黒髪が朝の光を受けて揺れる。
「ぼーっとしてる」
「朝早かったからな」
「私のせい?」
「百パーセント」
「ごめんね?」
口では謝っているくせに、顔は全然申し訳なさそうじゃない。
校門の前には、GW明けの生徒たちが次々と吸い込まれていく。
依織は少し楽しそうに校舎を見上げた。
「久しぶりだなあ」
「お前、GW前も結構休んでただろ」
「お仕事です」
「知ってるよ」
依織は鞄を持ち直し、少しだけ胸を張った。
「今日からはちゃんと学生します」
「普段からしろ」
「遼くんもね」
「俺はしてる」
並んで校門をくぐる。
ゴールデンウィークは終わり。
今日からまた学校だ。
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