第12話 届かない距離を越えて
風が、刃になった。
「――っ!」
久我の目が見開かれる。
もう遅い。
両手を下から斜め上へ振り抜く。
その軌道に沿って生まれた風の刃が、久我の胴をまともに捉えた。
「ぐっ――!」
拳と足にまとっていた炎が弾けるように散る。
久我の身体が浮き、そのまま数メートル先まで吹き飛ばされた。肩から床へ落ち、二度、三度と転がってようやく止まる。
一瞬、実技場が静まり返った。
俺も振り抜いた両手を下ろしながら、荒く息を吐く。
入った。
今までまともに魔法一つ出せなかった俺の攻撃が、ちゃんと久我に届いた。
少し遅れて、観覧スペースから大きなどよめきが起こる。
「今の何だ!?」「風……だよな?」「相馬、攻撃までできんのかよ!」
聞こえてはいるけど、今はそっちを見ている余裕はない。
倒れた久我から目を離さない。
環先生も少し離れたところで様子を見ながら、首から下げた笛へ指を掛けている。
それでも鳴らさないってことは――まだ終わってない。
案の定、久我の腕が動いた。
「……っつぅ……!」
腹を押さえながら床へ手をつき、片膝を立てる。サングラスは鼻先までずれ、顔も思いっきりしかめていた。
かなり効いたはずだ。
それでも何度か浅く息を吐き、ふらつきながら両足で立つ。
「うわ、立つのかよ」
「聞こえてんぞ……! 腹立つな、お前……!」
ずれたサングラス越しに睨まれたので、俺は肩をすくめた。
「その元気があれば大丈夫そうだな」
「どこ見てそう思った!」
腹を押さえたまま怒鳴る。
ほら元気じゃん。
久我は大きく息を吐くと、指でサングラスを押し上げた。腹に当てていた手もゆっくり離し、もう一度俺を見る。
そして、笑った。
「やるじゃねえか、相馬」
「倒れててくれてもよかったんだけど」
「二年以上待って、一発で終われるかよ」
「そういうところが面倒くさいんだよ」
「うるせえ」
吐き捨てながらも、久我の口元は上がったままだ。
俺もたぶん、似たような顔をしている。
一発入った。でも終わらなかった。
だったら、続きだ。
俺が両手を構え直すと、久我も腰を落とした。
さっき散った炎が、再び両拳と両足へまとわりつく。
ただし、今度はいきなり突っ込んではこない。
久我は俺の両手をちらりと見ると、足元の炎を小さく噴かせて右へ動いた。すぐ止まり、今度は左へ短く移動する。
細かく位置を変えながら、じっとこっちを見ていた。
なるほど。
「警戒してんな」
「当たり前だろ」
久我は腹を軽くさすってから、俺の手元へ顎をしゃくった。
「もう一発まともに食らってたまるか」
「学習が早いことで」
「食らった方は忘れねえよ」
久我が右へ動き、俺も身体の正面を合わせる。
次の瞬間、一気に踏み込んで――こない。
途中で急停止し、足元から噴き上がった炎だけが前へ走った。
「熱っ!」
反射的に腕で顔を庇う。
その瞬間、視界の端で炎が揺れた。
横だ。
久我が回り込んでくる。
肩を引いて拳をぎりぎりで外し、そのまま両手を身体の右下へ引く。
斬る。
「おっと」
けれど久我はその動きを見るなり、足元の炎を短く噴かせた。
俺が両手を振り上げるより早く、一気に間合いの外へ抜けていく。
「……逃げるの早っ」
「その手振らせるかよ」
数メートル先で腹を庇いながら、久我がにやっと笑った。
やっぱり見られてる。
さっき一発食らっただけで、風の刃を出す時の動きまで覚えたらしい。
それから久我は、大きく懐へ入ってこなくなった。
短い噴射で細かく位置を変え、拳や炎を一発だけ入れたらすぐ離れる。俺が追えば距離をずらし、風で動けば着地点へ回り込もうとしてくる。
さっきまでの「速いから突っ込む!」みたいな分かりやすさはどこへ行った。
「お前、急に細かくなったな!」
「食らったからな!」
久我は笑いながら横へ飛び、着地と同時に足元の炎をまた噴かせる。
「開き直るな!」
「勝つために変えて何が悪い!」
言ってることは正しい。
腹立つけど。
俺が久我を視線で追った瞬間、反対側から炎が飛んできた。
身体を捻ってかわしたが、完全には外せず熱が腕を掠める。
そのわずかな隙に久我が踏み込んだ。
最初の拳は上体を反らして避ける。
でも、続けて飛んできた炎をまとった蹴りまでは間に合わなかった。
「いっ……!」
太腿へまともに入り、鈍い衝撃と熱が一緒に走る。
思わず顔をしかめながら両手を下げるが、久我はもう足元の炎を噴かせ、さっさと俺の間合いから抜けていた。
ほんっと嫌だな、こいつ!
一発一発は、さっきの突進ほど重くない。
それでも肩、腕、脚と少しずつもらえば、当然効いてくる。
しかも俺の風刃は、両手で斬る動きをした瞬間にしか出ない。斬撃そのものを飛ばせるわけでもない以上、当てたければ俺自身も近づかなきゃならない。
久我は軽く足を動かしながら、俺の手元を指差した。
「懐に入らなきゃ、その刃は怖くねえ!」
「もうバレたか!」
「思いっきり食らったからな!」
「何回それ言うんだよ!」
「腹が痛え間は言う!」
結構長そうだな。
久我はまた足元の炎を噴かせ、右へ、左へと細かく位置を変えていく。
俺も動きを追いながら、必要な時だけ風を使った。
それでも一度使うたび、自分の中にある魔力が確実に減っていくのが分かる。
久我は周囲の魔力を取り込み、自分の魔力と混ぜて普通に魔法を使える。
自分の中にある分だけで無理やり全部やっている俺とは、そもそもの使い方が違う。
長引けば、先に干上がるのはこっちだ。
だからって焦って飛び込めば、久我の思うつぼになる。
「……ほんと面倒くさいな」
久我が動きながら眉をひそめた。
「何回言うんだよ!」
「言いたくもなるわ!」
「そろそろ褒め言葉に聞こえてきたぞ!」
「前向きだな!」
久我が笑う。
俺もつられて笑った。
腕も脚も痛いし、息も上がってきた。魔力だって確実に減っている。
なのに、楽しい。
久我は俺の風を見て、その場で戦い方を変えた。
だったら今度は、変わった久我を俺が見ればいい。
足の向き、肩の動き、炎を噴かす位置、間合い。
どこまで入ってきて、どこで離れるのか。
昔みたいに何でも使えるわけじゃない。
それでも、相手を見ることまで失ったわけじゃない。
久我が左へ動く。
俺は追わない。
足元の炎が短く噴き上がったが、まだ来ない。
もう一度。
今度は肩が前へ入った。
来る。
真正面から飛んできた拳を身体を傾けてかわし、すぐに両手を身体の右下へ引く。
けれど、それより早く久我は炎を噴かせ、間合いの外まで抜けていた。
「くそ、やっぱ早いな……!」
「今さらかよ!」
「褒めてんだから黙って受け取れ!」
「もう一回言え!」
「お前その流れ好きだな!」
また炎が弾けた。
そこから何度か攻防が続いた。
俺の腕や脚にはじわじわ痛みが増えていき、久我も最初に食らった腹が効いているのか、大きく動くたびに一瞬だけ顔をしかめる。
お互い、かなり息が上がってきた。
それでも久我の動きは止まらない。
やがて、一度大きく後ろへ下がった。
今までより明らかに遠い。
俺も追わず、その場で呼吸を整えながら構える。
久我は足を止めると、乱れた呼吸を一度大きく吐き出した。
そして、ゆっくり右拳を引く。
まとっていた炎が、一気に膨らみ始めた。
今までの細かい噴射とは違う。
右拳から腕、肩まで覆うように、巨大な炎が燃え上がっていく。
「うわ……」
思わず声が漏れる。
あれ食らったら、さすがに笑って立つ自信ないぞ。
久我は燃え上がる右拳を握り直し、荒い息のまま口元を吊り上げた。
「さっきみたいにはいかねえぞ、相馬。その刃、近くじゃなきゃ届かねえ」
「……でしょうね」
久我がさらに一歩だけ後ろへ下がった。
さっき俺が斬った間合いより、明らかに遠い。
久我の笑みが深くなる。
「その距離なら当たらねえ!」
なるほど。
そこまで見てたか。
さっき俺が見せた風刃は、両手を下から斜め上へ振り抜く斬撃だった。
振る分、横には広い。少しくらい動かれても、軌道に入れば当てられる。
その代わり、前へ届く距離には限界がある。
久我はそこを見て、斬撃の間合いの外へ出た。
正しい。
ちゃんと考えてる。
だから――やっぱり面白い。
俺が口元を上げると、それを見た久我も笑った。
「終わらせるぞ!」
「やってみろ!」
久我が踏み込んだ瞬間、足元の炎が爆発した。
今日一番の加速だ。
巨大な炎をまとった右拳を引き、一直線に飛び込んでくる。
俺はすぐには動かない。
足。
腰。
肩。
ぎりぎりまで見る。
右肩が前へ入り、巨大な拳が突き出された。
今だ。
一気に腰を落とす。
さらに低く。
膝が床を擦りそうなところまで身体を沈め、そのまま前へ滑り込んだ。
「なっ――!」
巨大な右ストレートが頭の上を通り抜ける。
熱気が髪を大きく巻き上げた。
熱い。
でも、当たってない。
そのまま久我の腕の下をくぐり、懐へ潜り込む。
さっきの斬撃より、さらに深く。
久我の腹が目の前にある。
両手を低い位置で重ねる。
見えない剣の柄を握るように。
久我が俺を見下ろした。
その口元には、まだ余裕が残っている。
「その距離でも届かねえ!」
斬るなら。
そうだな。
さっきと同じように振るなら、ここからじゃ届かない。
だから――斬らない。
低い姿勢から身体を起こしながら、重ねた両手を一気に突き上げる。
振るより、突く方が遠い。
腰を伸ばし、肩を入れ、両腕まで一直線に伸ばせる。
その代わり、狙えるのはほとんど一点。
少し横へずらされるだけで外れる。
斬るよりずっと当てにくい。
だから、最初からこれ一本で戦うつもりはなかった。
でも。
今の久我は、巨大な右へ全部乗せて真正面から突っ込んできた。
だったら――。
「そこだ!」
突き上げた両手の先で、空気が一点へ集まった。
風が細く、鋭く刃の形を取る。
久我の笑みが消えた。
「な――」
遅い。
今度は、斬撃じゃない。
下から突き上げた風の刃が、久我の腹をまともに捉えた。
「がっ――!」
久我の身体がくの字に折れ、そのまま宙へ浮く。
巨大な炎をまとっていた右腕が大きく跳ね上がり、拳と足にまとっていた炎が弾けるように散った。
そのまま後ろへ吹き飛ばされ、背中から床へ落ちる。
俺も勢いを止めきれず二、三歩たたらを踏み、その場で膝へ両手をついた。
「はっ……はぁ……!」
やばい。
今ので、ほとんど使った。
頭の奥がぼんやりして、自分の中身だけがすっかり抜け落ちたみたいな感覚がする。
身体はまだ動くけど、魔力の方はほとんど空だ。
荒い呼吸を整えながら顔を上げる。
久我は仰向けに倒れ、胸を大きく上下させていた。
環先生がすぐそばまで寄ると、腰を屈めて顔を覗き込む。
「久我くん。続けられる?」
「……っ」
久我は顔をしかめながら肘を床についた。
起き上がろうと腹へ力を入れた途端、身体が止まる。
「ぐ……!」
そのまま腹を押さえ、力尽きたようにまた背中を床へ落とした。
しばらく天井を睨んでいたが、やがて大きく息を吐く。
「……無理だ」
「無理だな」
俺が横から言うと、久我は首だけ動かしてこっちを睨んだ。
「お前が言うと腹立つな……」
「じゃあ頑張って立てよ」
「もっと腹立つわ……」
「注文多いな」
まだこれだけ喋れるなら、元気ではあるらしい。
久我は目を閉じて何度か呼吸を整えたあと、悔しそうに眉間へしわを寄せた。
それから、とうとう観念したように片手を上げる。
「……参った」
環先生がそれを確認し、笛を口へ運んだ。
甲高い音が実技場に響く。
「そこまで。勝者、相馬遼」
一瞬遅れて、観覧スペースが沸いた。
「相馬が勝った!」「マジかよ!」「魔法使えてるどころじゃねえじゃん!」
航平やひよりの声も混じっているけど、みんな一斉に叫んでいるせいで、何を言っているのか全部までは聞き取れない。
でも。
勝った。
俺はその場に立ったまま、しばらく荒い息を整えた。
……うん。
やっぱ嬉しいな、これ。
派手に拳でも上げたいところだけど、今やったらそのまま後ろへ倒れそうなのでやめておく。
少し呼吸が落ち着いてから、まだ床に転がっている久我のところまで歩いた。
俺の足音に気づいたのか、久我が首だけこちらへ向ける。
仰向けのまま、ものすごく悔しそうな顔をしていた。
「……また負けた」
「そうだな」
「腹立つ。二年以上やったんだぞ」
久我は顔をしかめたまま、天井へ視線を戻す。
「知ってるよ」
俺は苦笑しながら、その場にしゃがんだ。
そりゃ悔しいだろう。
こいつがこの二年以上、何をやってきたかは試合をすれば嫌でも分かった。
だから。
「強かったよ。前にやった時より、ずっと」
久我の顔がぴたりと止まった。
ゆっくりこちらへ顔を向ける。
「……は?」
「だから――」
言い直そうとしたところで、久我が急に両手を床へついた。
「もう一回言え」
勢いよく起き上がろうとして――。
「ぐぉ……!」
腹を押さえ、そのまま床へ沈む。
何してんだこいつ。
「嫌だよ」
「聞こえなかった」
久我は腹を押さえたまま、悔しそうに俺へ手を伸ばしてくる。
「絶対聞こえてただろ」
「もう一回!」
「二度と言わねえ!」
「お前なぁ!」
ほら。
やっぱり言ったら調子乗った。
一週間前の俺、正解。
久我は不満そうに舌打ちすると、伸ばしていた手をだらんと床へ落とした。
そのまま少し黙っていたかと思えば、今度は俺の両手へ視線を向ける。
「……最後のあれ、何て技だ?」
「何って?」
「風のやつだよ」
久我は自分の腹を指してから、俺の手元を指した。
「名前」
「ない」
「ねえのかよ!」
「一週間で作ったんだぞ。名前考えてる暇あるか」
腹を押さえながら勢いよく顔を上げるなよ。
久我は呆れたように眉を寄せ、また床へ頭を戻した。
「つけろよ。締まらねえだろ」
俺も自分の両手を見下ろしてから肩をすくめる。
「お前、俺の黒歴史増やそうとしてない?」
「次やるまでにつけとけ」
「もう次の話してんのかよ」
「当たり前だろ」
久我は仰向けのまま、悔しそうだった顔を崩してにやっと笑った。
「今度は俺が勝つ」
「はいはい」
「適当に流すな!」
また起き上がろうとしたので、俺は笑いながら手を差し出した。
「ほら。まず立て」
「誰のせいだと思ってんだよ」
文句を言いながらも、久我は俺の手首をしっかり掴む。
俺も握り返し、その身体をゆっくり引き起こした。
「じゃあ次は、勝手に日程決めんなよ」
久我はまだ腹を庇いながら立ち上がると、ずれかけたサングラスを指で押し上げた。
「考えとく」
「そこは約束しろよ」
久我が鼻で笑う。
その向こうでは、観覧スペースがまだ騒がしかった。
航平が何か叫びながら両腕を振ってるし、ひよりも負けじと手を振っている。環先生は笛を首から下げたまま、もういつもの眠そうな顔に戻っていた。
そして依織は――。
人混みの中でも、すぐに見つかった。
目が合う。
依織が、柔らかく笑った。
それを見た途端、身体からふっと力が抜けた。
「……はぁ」
大きく息を吐く。
脇腹も太腿も痛い。魔力なんてほとんど空っぽだし、さっきまで動いていた足まで今さら重くなってきた。
それでも、不思議なくらい気分はよかった。
勝ったから。
もちろん、それもある。
でも、それだけじゃない。
俺は自分の両手を見る。
昔みたいな魔法じゃない。
外の魔力は今でも何一つ感じない。使える魔法だって少ないし、自分の中にある分だけで無理やり動かしているせいで燃費も最悪だ。
昔みたいに何でもできるわけじゃない。
それでも。
風で動けた。
風で斬れた。
最後には、突くことだってできた。
二年近く、何をやっても出なかった魔法を。
今日、俺は自分の意思で使って、ちゃんと戦えた。
昔と同じじゃなくていい。
たぶん、この先も面倒なことはいくらでもある。
できないことだって、まだ山ほど残ってる。
でも。
俺は両手を軽く握った。
まだ、やれる。
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