水窓
色とりどりの生き物たちが、閉ざされた世界の中で美しく舞う。
ガラス一枚を隔てたその躍動に、僕はただ心を奪われていた。
「綺麗だねぇ」
隣を歩く彼女がそう微笑みかける。
こんな時でも僕は、気が利いたことの一つさえ言えない。
「そうだね……」
ただ、相槌を打つので精一杯だ。
それでも、彼女はきっと僕に幻滅さえしてくれないのだろう。
未だにこうして並び立っていることが信じられない。
とても現実とは思えない。
大勢の中で一人だけ、水面で呼吸しているかのような息苦しさが人知れずつきまとっている。
「あっ!見て、大きい魚がいる。なんて言うんだっけ?」
「ジンベイザメだよ。世界最大の魚」
いくつかの水槽を眺めているうちに、いつの間にか巨大水槽の前にまで来ていた。
ガラスの奥では、ゆうに十メートルを超えているだろう巨大な魚が悠々と目の前を横断していった。
その巨体に似つかわしくないほど優雅な泳ぎに、妙な圧迫感を覚える。
僕らが見ているはずなのに、まるで僕らが見下ろされているかのようだった。
思わず、水槽から視線を逸らしてしまう。
こちらを見ていた彼女と目があった。
一瞬の沈黙。
低く唸るようなポンプの音だけが、やけに響く。
気まずさを誤魔化すように口を開こうとした、その時だった。
「ねぇ、今日楽しい?」
不意に彼女がそう尋ねた。
「楽しいよ」と答えればいいだけの、単純な問いだ。
それでも、僕は答えることができなかった。
別に、彼女を心配させてしまったことを憂いているわけじゃない。
僕が抱える心のしこりを、だれにも隠し切れなかったことに、どうしようもなく絶望している。
不安気に僕を見上げる彼女。
そんな彼女に、向き合える自信が僕にはなかった。
静寂が世界を隔絶する。
無数の目が、アクアリウムの内と外から注がれるようだった。
「どうして、僕を選んだの……?」
口から漏れ出たのは、答えではなく新たな問いだった。
その言葉に、彼女は一瞬面食らったようだった。
しかし、次の瞬間にはいつもの彼女がいて。
そして——これまでのどの微笑みよりも柔らかく、僕を見つめる。
「君が私を選んだ理由と、きっと同じだよ」
どこかで、どうしようもなくひびが入る音がした。
それが、僕の内か外にあるのかは分からない。
でも、決定的な何かが崩れてしまったことは確かだった。
「……僕が君を選んだ……?」
「そうでなきゃ、君はここにいないでしょ?」
何も難しいことは無いと、彼女は答える。
僕の苦しみも葛藤も、露一つ知らないくせして、どうしてそうもあっけらかんと笑えるのか。
——そんな彼女を僕が選んだからだ。
再び、彼女が水槽に視線を戻す。
つられて僕も、真っ正面から見上げた。
限られた世界の中で、あの美しい生き物たちはまるで境界なんて無いように舞い踊る。
世界を閉ざしていたのは、僕か彼らか。
黒く大きな目が僕を捉える。
今度は逸らさなかった。
「また、来ようね」
僕はただ、小さく頷いた。




