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値段を見ずにクレジットカードを出すのは初めてのことだった。
ドキドキしながらレジに打ち込まれた数字を見る。デニムパンツ二本分だった。だがもしその倍だったとしても悔いはないだろう。
ハイヒールには、外反母趾になりやすいとか、骨にダイレクトに響いて腰に悪影響が出るとかのデメリットがあると聞く。現代の纏足だとも。あまり良いイメージは抱いていない。むしろ、だからこそその確信を揺らがせてみたいと願うのかもしれない。
メリットはたしか……歩く姿勢がきれいになる、とかだったか。
塔子は息を吸った。これを最初で最後のハイヒールにすればいい。
まるで恋のようだ。胸の奥に小さな火が灯るようなくすぐったさがあった。
店員の満面の笑みに見送られて、ハイヒールが入った紙袋を抱きしめるようにして店を出た。
呪いは解けたようだ。全身の緊張がほどけていく。お腹がくうと鳴った。
軽やかな足取りで目が合う店を探す。チェーン店ではない回転寿司が気になった。
「お一人様ですか」
一瞬だけ狼狽えた。
「は、はい」
カフェやファストフード以外の飲食店に一人で入るときにやましさがつきまとうのは何故なのか。カウンター席に案内されるころには、しかしちょっと誇らしい気持ちになっていた。
椅子の横に用意されたバスケットに荷物を置くときも、自分比では上品でまろやかな所作になったと思う。
「ふう」
皿を五枚積みあげた塔子はしみじみ思った。たまにはこうやって自分で自分のご機嫌を取るのも悪くない。デニムパンツがハイヒールになったものの、達成感はひとしおだ。歩き回ってくたくただけれど宝物を手に入れてしまえば疲労はむしろ心地よかった。値段も想定を上回ったが満足感は比較にならない。デニムパンツをはるかに凌駕していると断言できる。
靴屋の祭壇で、スポットライトを浴びてキラキラと輝いていたハイヒール。まるで塔子が買いに来るのを待っていたようだった。
シンデレラの透明なガラスの靴はシンボルだ。邪気で汚されることのない気高い少女を表している。童話の本当の主役はガラスの靴なのだ。
ところが舞踏会に招かれた少女はヒールのある靴で上手く踊らないといけない。無垢な少女が大人の女性らしさを兼ね備えていく過程でハイヒールを擦り込まれていく。ポジティブに鳴らされていく。こういう女性になればいいのだと。憧れと嫌悪はわかちがたい。
かまわないと思った。結婚式やパーティのお呼ばれがあってもこれを履くつもりがないからだ。見せびらかしたいわけではないのだ。
一人暮らしのマンションの部屋でたまに取り出して眺めたり、ドキドキしながら足を差し込んでみたりして、密かに楽しみたいのだ。
工場生産か職人の手仕事かはわからないけれど、作った人からしたら不満なことだと思う。芸術品ではなく実用品だと言うかもしれない。
だけど私は恥を知っている。憧れと嫌悪は自分だけのものだ。誰にも晒したくない。
「金庫があったら隠しちゃうかもね、我が愛しの……え?!」
視線の先には紙袋がなかった。たしかにここに置いたのに。
前後左右、バスケットの下まで見たが、ない。
身体中の血液が逆流する。周囲を見回した。あった。
いままさに会計を済ませて出て行こうとする青年の手の中に。
「泥棒!」
塔子が大声を上げると、青年はびくりと肩をすくめ、後ろを振り返りもせずに走り出した。その一目散ぶりに、思い違いかもしれないという僅かな疑念も吹き飛んだ。
「泥棒です! その人、泥棒です!」
青年は店を出てモールの人混みをすり抜けていく。塔子がいくら叫んでも誰も捕らえてくれない。驚いた顔だけして通りすぎていく。追いかける塔子の背に声がかかった。
「食い逃げ! あの人、食い逃げです!」
支払いを済ませていないことは承知している。だが私の宝物を奪った極悪人を逃すわけにはいかない。振り返って叫んだ。
「あとで払いに来ます!」
「ちょっ……!」
全速力で追いかけた。絶対に逃がすものか。
高校時代、陸上部の万年補欠だった血が燃えた。
塔子の粘り強い追跡に焦ったのか、青年は人混みに紛れ込もうとして家族連れとぶつかって幼児を跳ね飛ばした。
「ぎゃあ」
怪鳥のような子供の喚き声。
青年は驚いて紙袋を離した。紙袋はモールの床をするすると滑っていく。
「おい、なにすんだッ」
父親に詰め寄られた青年はちらりとこちらを振り返った。その顔は恐怖に歪んでいる。
距離にして二十メートル。あと少しだ、と塔子はピッチを速めた。
紙袋を拾いに行く余裕はないと判断したのか、青年は手ぶらで逃げ出した。
「おい、謝れ!」
父親の怒りは収まらないようだったが、追いかける気はなさそうだった。子供はひしゃげた飛行機の玩具をびっくりしたような表情で握りしめ、火がついたように泣き出した。
「あーあ、買ったばかりだったのに……」
母親が心配そうに子の頭を撫でている。
塔子はまっすぐ紙袋に向かった。粗末に扱われて表面が汚れている。手を突っ込んで箱の蓋を開けた。
「……よかった」
ハイヒールは無事だった。シャンパンゴールドの輝きは鈍っていない。
青年はバスターミナルのある階下へ駆け下りたようだった。
塔子にとって窃盗は赦しがたい狼藉ではあったが宝物を取り返せたので追跡は諦めることにした。紙袋ごとぎゅっと抱きしめると愛しさが募った。早く帰って思う存分愛でたい。その前に寿司屋で支払いをしなければ。
「ちょっと、どこ行くの」
「それはさっきの男の荷物だろうが。ネコババする気か。寄越せ」
母親が呼び止め、父親が塔子から紙袋を奪おうと手を伸ばしてきた。
「違います。私のです。逃げたのは泥棒で──」
「信じられるか」
さっきまで見て見ぬふりだったのに、塔子と家族連れを囲うようにして人だかりができた。
「ほんとです」
リュックからクレカの明細書を出した。
「ほら、間違いないでしょ」
「さっきの男は彼氏とかじゃないの?」
母親は諦めなかった。
「まったくの見ず知らずの他人ですけど」
「うちの子が頭打ってたらどうしてくれるのよ。病院代くらい出してくれていいよね」
「なんで私が?」
とんでもないことを言い出した。子供が突き飛ばされたのは災難だとは思うけど、こちらも窃盗に遭った被害者だ。
「高い靴なんか買ってんじゃねえよ。そもそもあんたが盗まれる隙を見せたからうちの子が怪我を負ったんだ。ちゃらちゃらしやがって」
「そうよ。病院代と玩具代、弁償してよね」
矛先が変わった。




