第9章 小噺の決意
「――かはっ」
目が覚めるのと同時に、天崎は肺の中の空気をすべて入れ替えた。
それはまるで、今までずっと水の中を潜っていたかのよう。呼吸の仕方さえ忘れてしまった夢の中から逃れるようにして、現実という大気中へ這い上がってきたのだ。
だがしかし、脳はすぐに活動を始めてはくれなかった。
意識が混濁したまま、見慣れた天井をぼんやりと見つめるばかり。いや、それが天井だと認識できていたかどうかすら怪しい。夢から帰還したばかりの天崎は、生まれたての赤子同然の思考力しかなかった。
現状を把握できず、セルフ金縛りに遭っている間にも、徐々に意識が鮮明になってくる。自分が誰なのか、ここがどこなのか、ゆっくりと思い出しながら、天崎は身体を動かした。
「ぐっ……くそっ」
しかし立ち上がるどころか、起き上がることすらできなかった。足が棒になるという慣用句が、全身で起こっているかのよう。寝返りを打とうとしても謎の疲労感が襲い、うつ伏せになるまで軽く三十秒は要してしまった。
この疲労感はいったい何なんだ? なんでこんなに疲れている?
二月中旬だというのに、寝汗で布団が湿っていることに気づいた。さらには肩が上下するほど荒々しい呼吸。まったく身に覚えはないが、寝ている間に激しい運動でもしていたかのような有様だった。
布団と胸の間に腕を挟み、再度起き上がろうと試みる。その時、畳の上で倒れている円の姿が目に入った。
連日の寝相とは異なる常軌を逸した倒れ方に、天崎の顔が青ざめる。
「円!」
疲労で軋む身体を酷使させ、這う這うの体で円の元へと寄っていく。
肩を掴んで揺さぶると、彼女は眠ったまま一度だけ大きく息を吸った。
「円、しっかりしろ」
呼吸は安定しているようなので、ひとまずは安心する。だけど、なんで畳の上で寝ているんだ? 寝ぼけて天崎の布団に潜り込んできたり、上にのしかかってきたことは数あれど、こんな行き倒れみたいな寝相は今までなかったはず。
自分が眠っている間、円の身に何かあったのか?
心穏やかでなくなりながらも、天崎は円の頭を優しく撫でてやる。すると彼女はゆっくりと瞼を開けた。
「大丈夫か?」
呼びかけると、天崎の顔へ焦点が定まった。
そして掠れた声で、彼女は言う。
「東四郎。さきゅばすが……きた」
「サキュバス?」
その一言で、昨日までの記憶が芋づる式に蘇ってきた。
思い出すのは小噺との作戦会議だ。連日の夢はサキュバスの仕業だと予測し、小噺に逆探知を頼んだのだ。遠方から夢の中に入ってきているのなら、妖精の鱗粉を使ってサキュバスの居場所を突き止められないかと。
しかし円はサキュバスが来たと言った。
「来たって、この部屋にか?」
「……うん」
やられた。一歩遅かったと、天崎は顔を顰めた。
部屋に乗り込んできたというのなら、逆探知などまるで意味はなかった。居場所を突き止めるまでもなく、サキュバスは眠っている天崎の真横にいたのだから。
まさか、ここまで強引な手段に出てくるなんて……。
「いや、それよりも円は大丈夫なのか?」
「うん、平気。ちょっと、つかれただけ」
「そうか。よかった……」
見たところ怪我もなさそうだ。天崎と同じく、全身で疲労を感じているのだろう。
「そのサキュバスはどうなったんだ?」
「昨日は、かえってった」
「円が俺を守ってくれてたんだな。ありがとう」
「……うん」
疲れ果てて憔悴しながらも、円は誇らしげに頷いた。
しかし彼女はすぐに表情を引き締める。
「でも、東四郎が……」
「俺のことはどうでもいい。話はまた後で聞くから、今は自分の体力回復に努めてくれ」
「……わかった」
素直に従った円は、身体を引きずるようにして押し入れに入っていった。
その姿を見守った後、天崎は悲痛な表情を露わにする。
サキュバスが直接この部屋に乗り込んできた。にもかかわらず自分が無事だったのは、円が座敷童の能力を使い、その身を挺して守ってくれたおかげだろう。
だが相手方も、この部屋に座敷童がいることは知っていたはず。リスクを冒してまで強行策を取ったということは、目的を果たす算段がついたのかもしれない。そもそもサキュバスの目的は、いったい何なんだ?
どのみち、たった一回の侵入であれだけ疲弊してしまっているのだ。もう円に頼るわけにはいかない。次に備えて何か対策を練らなければ。
「っと、今何時だ?」
今さら気づいた。部屋の中が明るすぎる。
日の出が遅いこの時期、これだけ明るいとなれば余裕で遅刻確定だ。慌てて目覚まし時計を確認したところ、午前八時を過ぎていた。
「なんでさくらさんは来ないんだ? ……ああ、今日は土曜日だったか」
さくらは学校のある平日しか朝食を作りに来ず、休日の早朝は少しくらいなら惰眠を貪ってもいいことになっていた。
そして今日が週末だと思い出したことで、自ずと予定も蘇ってくる。確か安藤たちと廃墟へ行く約束をしていたはずだ。
「……無理だな」
再び身体を動かそうとして、満足に立ち上がることさえできないのを確認した。
枕元のスマホを拾い、安藤に連絡する。早朝だし迷惑になるかなとも思ったが、コール三回で相手が出た。休日とか関係なく、安藤の朝は早いようだ。
『おはよう、天崎。今日の探索は中止かい?』
「よく分かったな」
『昨日、話したじゃないか』
そういや無理そうだったら連絡するって言ったっけ。
夢のせいかは知らないが、だいぶ記憶が曖昧になっているようだ。
『中止ということは、また変な夢でも見て気怠くなっているのかい? 体力バカの君にも珍しいことがあるもんだな』
「俺の体力が無尽蔵なのはフィジカルだけだぞ。メンタル面は知らん。……でさ、ちょっと相談があるんだけど」
『相談?』
「どうやら昨夜、サキュバスに襲われたみたいなんだ」
『……一応、話だけは聞いておこう』
またいつもの厄介事か。とでも言いたげなため息が聞こえたが、相談には乗ってくれるようだ。なので天崎も遠慮なく昨日の出来事を説明する。
安藤の助言を受けて空美に相談しに行ったが、力になってやれないと言われて追い返されたこと。
そのため、自分に変な夢を見せているのは他のサキュバスだと予想を立てたこと。
例の妖精コレクターの手を借りて、夢を逆探知しようとしたこと。
しかし昨夜は遠隔ではなく、サキュバスが直接天崎の部屋へ乗り込んできたこと。
そして円のおかげで大事には至らなかったが、二人とも異様な疲れを感じていることを事細かに話した。
天崎の説明を一通り耳にした安藤は、しばらく沈黙した後、静かに切り出した。
『……なるほどね。ただ話を聞く限り、僕は協力できそうもない。そのサキュバスは、サキュバスとして君に夜這いをかけてきたんだろう? それはサキュバスという種族にとっては当然の行為だ。だから僕は積極的に介入する気はないし、自分で解決できないんだったら警察を頼るしかないね。不法侵入的な意味で』
「お前ならそう言うと思ったよ」
仮に人外が相手だとしても、安藤は人間社会に影響を及ぼすような悪事を働かない限り動かない。狙われているのは天崎個人だし、サキュバスは種族の本能に従っているだけ。安藤が解決に乗り出さないことは、最初から知っていた。
だからこそ天崎は、友人として安藤に依頼する。
「別に協力してくれなくていい。今はお前の意見が欲しい」
『意見?』
「今まで遠隔で夢に干渉してくるだけだったサキュバスが、昨日に限って俺の部屋に直接乗り込んできた理由は何だと思う?」
『ふむ』
少しだけ考える間があった後、お決まりの保険を宣言してから答えた。
『本来なら同種族に聞いた方が早いんだけど、協力しないと言ってるんなら仕方がない。僕の意見は単なる知識として頭に入れてくれ。……たとえ距離が離れていても、サキュバスは任意の男性の夢に入ることができる。けどその場合、夢の主導権はあくまでも夢を見ている本人にある。多少は夢の内容を書き換えることもできるが、意のままに操ることまではできない。逆に眠っている相手の側にいるなら、自由に夢を見せることができる。さらに今後遠距離で干渉する場合も、しばらくの間は主導権を握れるようになるんだ。つまりサキュバスが君の部屋に乗り込んできた理由は、より強固な主導権を得たかったためと推測できる』
「なるほどな」
以前と比べ物にならない疲労感を感じている理由にも納得がいった。
昨夜は夢の主導権を握られたことにより、多大なエネルギーを消費していたのだ。しかも安藤の話によると、今日以降たとえ遠隔で干渉してきたとしても、側で寄り添っているのと同じ状態になるという。
相手方は、円がいるのに強行突破してきたわけではない。円がいるからこそ、そうせざるを得なかったのだ。このまま遠隔だけで干渉を続けたとしても、延々と邪魔されるのは目に見えていたから。
「サキュバスの干渉を防ぐには、どうしたらいい?」
『難しいなぁ』
通話口の向こうで、安藤が嘆いた。
『残念ながら、僕も正攻法は知らない。それこそサキュバスに聞かなきゃね。そりゃ強制的に夢から排除する方法もあるっちゃあるけど、これも魔界の技術だからなぁ。できれば教えたくはない』
「結界とか張れば、少なくとも遠隔からの干渉は防げるんじゃないか?」
『それも今となっちゃ不可能に近いと思う。サキュバスに夢の主導権を握られてしまった今ではね』
「どういうことだ?」
『何故夢の主導権を奪われるかというと、対象の男性が快楽を覚えてしまうからなんだ。たとえサキュバスが側にいなくとも、眠っている間は無意識に求めてしまう。結界とは外から来る者を拒んだり、内部の情報を外に漏らさないようにするのが主な目的だ。結界の中にいる者が任意で招くのであれば、その効力は意味をなさないよ』
「俺は別に快楽に溺れてなんかいないぞ」
『確信はないだろ?』
「…………」
その通りだった。
起きている間なら、いくらサキュバスに誘惑されても絶対に靡かないという自信はある。しかし問題になっているのは夢の中だ。無意識下で自分がどのような行動を取るのか、想像すらできなかった。
『あとは……そうだな。そのサキュバスを捕まえるまで眠らないとか?』
「バカ言え。どこにいるかも分からん奴を捕まえるなんて、何日掛かるんだよ。俺らは妖精の鱗粉を使って逆探知しようとしたけど、お前は居場所を突き止める方法とか知らないのか?」
『この世界の技術では思い当たらないなぁ。僕が知ってるのは魔界の技術だ』
「そこを何とか教えてくれたりはしないだろうか?」
『無理』
一蹴されてしまった。
というか今回、妙に安藤が非協力的な気がする。朝っぱらから厄介事を持ち込んだせいで、機嫌が悪いのだろうか?
それを指摘すると、安藤は歯切れを悪くして答えた。
『じゃあ、はっきり言ってやる。できればサキュバスを敵に回したくはないんだよ』
「なんだお前。サキュバスに弱味でも握られてるのか?」
『そうじゃなくて……サキュバスは横の繋がりが異様に強いのを君も知ってるだろ? 個々の能力は弱くとも、集団となれば話は別だ。どこがどう繋がっていて、どう情報が流れていくかも分からない。この仕事が終わって魔界に帰った後、社会的に抹殺されていたらシャレにならないからな』
「うわぁ」
悪魔の社会事情の一端を垣間見てしまい、天崎はドン引きした。
出張から帰ったら、身に覚えのない悪い噂が会社内に蔓延しているようなものだろう。できるだけサキュバスと関わりたくない安藤の気持ちは、痛いほど理解できた。
『だからさっきも言ったけど、そのサキュバスが人間社会に影響を及ぼすような事件を起こそうとしているなら協力する。だけど君個人しか狙われていない現状、僕は助言を与えるだけに留めたいんだよ』
「そういうことなら仕方がないか」
『で、そもそもサキュバスに狙われる心当たりはないのかい?』
「ない。だからこそ黒幕は大方の予想がついている」
『ヴラド三世か』
サキュバス個人の活動も捨てきれないが、天崎の方に狙われる心当たりがない以上、誰かの指示に従っている可能性の方が格段に高い。そしてその『誰か』に該当する人物は、今のところヴラド三世が最有力だった。
『だとしても僕が動くことはできないかな。まあ、友人として知恵を貸すくらいのことはしてもいいけど』
「ああ、その時は頼んだ」
『分かったよ』
通話を終えて安藤の声がなくなると、朝の静けさが余計に身に染みた。
布団の上でうつ伏せになったまま、天崎は大きく息を吐く。
「さて……」
状況を整理してみよう。
まず仮にサキュバス個人の活動として天崎を狙っているのなら、考えるだけ無駄だ。何が目的なのか想像だにできないし、おそらく命までは取ってこないだろう。なのでこちらの可能性は、とりあえず保留にする。
次にヴラド三世の指示だった場合、何故サキュバスを差し向けてきたのか。
石神の言っていた、『完全なる雑種』の血統を覚醒させるための一環か? いや、奴の狙いは天崎の肉体を奪うこと。夢で疲労させられ、満足に身体を動かせない今の状況は非常にマズい。もし攻めてこられたら、自分一人では対処できないだろう。
つまり今は天崎の身体を乗っ取るための、最終的な下準備……なのか?
分からない。しかしサキュバスは今夜も干渉してくるはずだ。たった一日でもこの有様なのだから、長く続くのはヤバい。早めに何とかしないと。
ともかく、このままでは日常生活もままならない。ひとまずさくらを呼んで事情を説明しようと思い、再びスマホに指を乗せた……その時だった。
「天崎。起きてる?」
呼び鈴の音に乗って、小噺の声が届いた。
ずいぶんと早い時間帯だなぁと思いつつも、彼女の訪問理由には大方の察しがつく。未だ立ち上がることが困難なため、這いつくばって出迎えようとしたのだが……布団から外に出たところで限界を迎えてしまった。
「小噺か? 悪い。起きてるけど、ちょっと動けそうにない」
「動けない? どういうこと? ……あら、開いてるじゃない」
ガチャリと、遠慮がちに玄関の扉が開いた。
なんで鍵が掛かってないんだ? と一瞬だけ戸惑ったが、サキュバスが去ってから施錠していないのだから当たり前だ。
「入っていいの?」
「ああ、むしろ入ってきてくれ」
言うと、浮かない顔をした小噺が現れた。
そして布団から這い出た状態の天崎を見て、訝しげに眉を寄せる。
「なに、起きたばかりなの? 身なり整えるくらいの時間なら待つけど」
「これには訳が……」
身体を動かすのもしんどいため、そのままの姿勢で昨夜の成り行きを話した。
話が進むにつれ、小噺の表情が徐々に険しくなっていく。最終的には、自分の無能を嘆くかのように下唇を噛みしめながら絶句していた。
「逆探知に失敗したから報告に来たんだけど……まさか、この部屋に直接乗り込んできていたなんて……」
「聞いた話によると、サキュバスは一度夜這いした相手なら、しばらくの間は遠隔でも夢の主導権を握ることができるらしい」
「つまり今夜から本番が始まるってわけね」
小噺が苦い表情を見せた。
と、何かを探すようにキョロキョロと首を回し始める。
「円ちゃんは?」
「力を使い果たしたせいか、だいぶ疲れが見えてたからな。今は押し入れの中で体力回復に専念してもらってる」
「そう」
顔を伏せた小噺は、天崎に断りを入れてから押し入れの前へ移動した。
そして普段とは比べ物にならないくらい柔らかい声で、押し入れの中へ呼びかける。
「円ちゃん、大丈夫?」
「……うん、だいじょうぶ」
返事はあったものの、それはかなり弱々しいものだった。
想像以上に痛ましい声だったためか、それ以上は話しかけることをせず、小噺は黙り込んでしまう。ふと、彼女の背中が小刻みに震えていることに気づいた。
「……絶対に許さない」
決意と憎悪を滲ませた声を絞り出しながら、小噺が振り返る。
その顔には、今まで見たこともない憤りが宿っていた。
「天崎。悪いけど、この件はうちが預かるわ」
「預かるって……」
「円ちゃんをこんな目に遭わせた奴を、うちは絶対に許さない。こうなったら手段なんか選ばずに、何が何でもそのサキュバスを取っ捕まえてやるわ。だから、うちに任せて」
小噺のいきなりな逆襲宣言に、天崎はポカンと呆気に取られることしかできなかった。




