間 章 とある座敷童と淫魔の会話
夜の帳が下りた、おののき荘の一室。薄暗い部屋の中で、床に就いた天崎を挟むようにして二人の女性が睨み合っていた。
一人は地味な色合いの着物を纏った、年端もいかない童女。一年と半年前から天崎の部屋で居候をしている座敷童の円である。彼女は畳の上で正座したまま、いつになく険しい顔つきで正面に睨みを利かせていた。
対するもう一人は、円も会ったことのない妙齢の女性だった。
重力に逆らう、ふんわりとしたボブカット。水晶のような瞳を収める目つきは甘え上手な垂れ目であり、目尻に一つ蠱惑的な泣きボクロがある。そして何より彼女の魅力を引き立てているのは、病的なほど白い肌だろう。
外見年齢は空美と同じく二十代前半であるが、常に勝気な性格の彼女とは対照的に、その女性には世の男性が守ってあげたくなるような儚い美が備わっていた。
ただ今の彼女からは、本来の美しさを感じることは難しそうだった。というのも色気もへったくれもない機動性を重視したジャージ姿だからである。それはまるで、今宵は誰とも会うつもりはなかったと言わんばかりのダサい服装だった。
警戒心を剥き出しにする円とは反対に、女性は大人の余裕をもって対応する。気を抜いているわけではないが、口元に笑みすら浮かんでいた。
「ふう。まったく、子供が起きているような時間じゃないでしょうに」
『あなたが来なければ寝ていた』
「はいはい、私のせいですよぉ」
険のある円のテレパシーを受け取った女性は、拗ねるように唇を尖らせた。
「にしても、サキュバスの沽券にかかわるから、触れられなくてもやりようはあるって豪語しちゃったけど、実際どうすりゃいいのよ。見てもダメ、触れるのもダメって、完全にサキュバス殺しじゃない。ホント、妨害やめてよね」
『…………』
お手上げ状態で愚痴る女性を前に、円はさらに目を細めた。
また非難のテレパシーが飛んでくると思ったのか、女性は遮るように顔の前で手を振る。
「白状しちゃうけど、この状況じゃあ私は何もできないみたいだから、そんなに気を張らなくても大丈夫よ。まあ何もできないのは、あなたも同じでしょうけど」
『…………』
その通りだったが、円は眉一つ動かさなかった。
「あなたの細い首なら、私の腕力でも絞め殺すくらい簡単にできるでしょう。でも、それをすると夢への干渉が途切れて彼が目覚めてしまう。フィジカルじゃあ彼に勝てる要素なんて皆無だしね。逆にあなたが私に不幸を与えようとするなら、夢の中の彼は無防備になって私に犯される。だからお互い何もできない。完全にデッドロック状態だわ」
『あなたが去ればいいだけの話』
「まだ目的を果たしてないから、それは聞けない願いね」
『あなたの目的は何?』
「それ、夢の中であなたのご主人様も訊ねてきたわ。だから同じ答えをあげる。言うわけないじゃない」
『…………』
何も言い返せず、円は再び黙り込んでしまった。
そのまま時間だけが刻々と過ぎていく。ただじっと待つことに慣れている円とは違い、女性の方はそうでもないようだ。五分も経たないうちに、彼女は無言のにらめっこに根を上げた。
「ねえ、本当に妨害やめてよ。あなたのご主人様には何もしないからさ」
『今、何かしてる』
「そうね。でも、危害を加えたいわけじゃない。私はサキュバスとして、彼に快楽を与えてあげたいだけなの」
『何故?』
「それは私の目的にも通じてるから言えないわ」
『矛盾している。あなたはサキュバスとして活動しているわけじゃない。サキュバスであることを利用して、別の目的を果たそうとしている』
「…………」
円の指摘に、今度は女性が黙る番だった。
さらに円は畳みかける。
『あなたはサキュバスの沽券にかかわると言った。自分の種族に、それなりのプライドを持ってると思う。でも今のあなたはサキュバスとしての行動理念に反しているんじゃない? あなたはそれでいいの?』
下唇を噛みしめ、鼻の頭に皺を寄せた女性の顔が醜く歪んだ。
それは痛いところを突かれた時の反応だった。さらに正論をぶつけてきた相手が子供の姿だったこともあり、思った以上に苛立ちが募っていく。もし部屋が明るければ、こめかみに浮かんだ青筋が見て取れただろう。
しかし彼女はヒステリーを起こさない程度には大人だったようだ。
怒鳴り散らすことはせず、代わりに乾いた笑い声を漏らした。
「ははは。私の気持ちなんて、子供には分かりゃしないわ」
『年齢なら、あなたとそんなに変わらない』
「あ、そう」
すぐに笑みを消した女性が、興味なさそうに吐き捨てた。
『私が訊きたいことは一つ。あなた、東四郎のことが好きなの?』
「この男を好きか、だって? 冗談じゃない。私がこんなガキに惚れるわけがないわさ」
『そう。なら、なおさら東四郎を狙うのは許さない。彼には純粋に好きになってくれる人たちがいる。その人たちのためにも、遊び半分で東四郎をあげたりはしない。東四郎は私が守る』
「ふーん。健気だねえ」
無駄な努力ご苦労様と小馬鹿にするように、女性は鼻で笑った。
「どのみち私の目的を果たすためにも、彼には快楽に溺れてもらう必要がある。今夜はそろそろ潮時だから帰らせてもらうけど……明日以降、彼の守りを固めてもすべて無駄よ。サキュバスと人間が現実で接触する意味、座敷童なら分かるでしょ?」
勝ち誇った微笑を浮かべる女性に対し、円は口をへの字に曲げて不快感を露わにした。
一度サキュバスに這い寄られた男性は、たとえ遠隔での干渉であろうとも、次からは夢の主導権を握られてしまう。それはサキュバスから与えられる快楽を覚えてしまい、無意識のうちに迎え入れるからだ。そのため欲求不満や現実がうまくいっていない人間ほど、サキュバスの干渉は長く続く。
天崎を狙うこのサキュバスも、できるだけ早く接触を図りたかった。だが天崎の部屋には座敷童という最大の障害がある。早々に乗り込んでも返り討ちに遭うだけだと判断した彼女は、数日前から少しずつ天崎の夢に干渉していたのだ。
そして連日ちょっかいを出した結果、夢と現実の境界が曖昧になるくらい、円の体力と精神力を削ぐことに成功する。今現在、円のテリトリー内で能力が拮抗しているのも、そのためだった。
「彼が眠っている限り、私は自由に夢を作ることができるようになった。つまり、あなたのご主人様はすでに私の手の内にあるってわけ。あなたも今までみたいに妨害くらいはできるでしょうけど……果たして、その体力はいつまで持つのかしらね」
何日掛かってでも天崎を虜にしてみせる。持久戦の申し入れであり、実質勝利宣言でもあった。見た目相応の身体能力しか持たない円にとって、連日連夜、集中力を研ぎ澄ますことなど不可能に近いのだから。
円の悔しそうに歪む表情を見た後、女性はおもむろに立ち上がった。
「それじゃ、また明日ね」
まるで姪と遊ぶ約束でもするかのように手を振った彼女は、忍び足で部屋から出ていく。その姿を無言で見送った円は、力を使い果たしたのか、それとも緊張の糸が切れたためか、プツンと電源が落ちたように意識を失ってしまった。




