空 白 その5
微睡みから覚めた天崎は、ゆっくりと身体を起こした。
寝ぼけ眼で軽く周りを見回してみる。どうやら自分は、だだっ広い部屋の真ん中にあるベッドで眠りこけていたらしい。
「ここは……」
ぼんやりと灯るオレンジ色の照明。幾何学模様の派手な壁紙。四人五人はゆったりと横になれそうなキングサイズのベッド。一般的なビジネスホテルとは比べ物にならないほど高級感あふれる室内。
見知らぬ場所、見覚えのない部屋。
しかし天崎は、ここがどこなのか知識として知っていた。
「……そうか。そういやそうだったな」
ここはラブホテルの一室だった。
もちろん天崎は利用したことなどない。だが友人の某I君が、いろいろなラブホが紹介されている雑誌を持ってきたことがあり、天崎も興味津々に目を通していた。掲載されていた特殊な趣のあるラブホとは違い、この部屋はいたって普通の内装ではあるが。
高校卒業後、大学に進学した天崎は早々に彼女ができた。それなりにお付き合いを続けた結果、今日この日、念願叶って初めてのラブホテルへ連れ込むことに成功したのである。
ああ、とうとう俺も童貞卒業かぁ。などと下心の隠しきれていない下劣な笑みを浮かべた天崎は、再びベッドの上で大の字に寝転がった。そしてオレンジ色の照明を見つめながら、ニマニマと頬の筋肉を緩めていたのだが――、
「って、そんなわけあるかい」
現実的にあり得ない状況に、天崎は思わず冷静なツッコミを入れてしまった。
自分が大学生になったという覚えなどないし、そもそも高校を卒業した記憶すら皆無だ。にもかかわらず、まるで漫画や小説にあるような設定だけが頭の中に流れ込んでくる。
ということは……。
「つまり夢ってわけか」
明晰夢を自覚した途端、すべての記憶が蘇ってきた。
まずは自己認識を高めるため、声に出して確認してみる。
「俺の名前は天崎東四郎。高校二年生。今はおののき荘に住んでて、時期は二月中旬。現在、毎日変な夢を見ている。これもその類なのかもしれない。……よし!」
夢の内容は起床直後にほとんど忘れてしまうものの、逆に現実の情報はしっかりと夢の中へ持ち込めるようだ。
自分の頬を叩いて意気込みを入れた後、天崎は再び周囲を見回した。
「こんな明確に思考できるのは、小噺も言ってたように、誰かが意図的に作った夢の中だからなのか? つか、なんでラブホテル?」
訪れた経験のない場所が、こうもはっきりと夢の中で再現されているということは、夢を見せている誰かにとって好都合の環境なのだろう。だが何故ラブホテルなのか犯人の意図が理解できず、天崎は首を傾げた。
すると突然、水の流れる音が止まった。
今まで当たり前のように耳に入っていた雑音だったので、気にも留めていなかった。しかし急に途切れたため、静寂がより一層意識に浸透してくる。そして敏感になった天崎の耳は、新たな音を拾った。
足音だ。水の音がしていた方向から、誰かが近づいてくる。
ベッドで横になったまま、天崎はすぐ動けるように身構える。しばらく待っていると、浴室からバスローブを着た女の子が出てきた。
「おっ待たせ~。ふう、さっぱりしたぁ」
その女の子を前にするやいなや、天崎は驚きのあまり目を見開いた。
たった今までシャワーを浴びていたらしき彼女は、思考を停止せざるを得ないほどの美少女だったからだ。
だがそれと同時に、どうしようもない違和感が脳内を埋め尽くす。
彼女は確かに美しい。しかし『美少女』という記号だけが頭の中に浸透し、それ以外の情報がまったく入ってこないのだ。例えば彼女はどんな顔なのか、誰に似ているのか、どこの国の人なのかすらも、天崎には何一つ分からなかった。
ここが夢の中だとすでに気づいている天崎は、唐突に現れた違和感尽くしの不審人物に向けて、きつい目つきで睨みつける。
「お前、誰なんだ?」
「えー、ひっどーい。自分の彼女を忘れちゃったの? 私の名前は****よ」
「……?」
名前だけが聞き取れず、天崎は眉を寄せた。
おそらく彼女は意図的に濁したのだ。具体的な固有名詞を上げることによって、天崎の中で矛盾が生まれてしまうのを危惧したのだろう。
確かに、これが夢だと知らなければ騙されていたのだろうが……。
警戒心を高めた天崎は、強めの口調でもう一度問いただした。
「じゃあ、はっきり言ってやる。お前、サキュバスなんだろ?」
指摘すると、美少女は演技じみた不満げな表情を捨て、不敵な笑みを浮かべた。
「なんだ、気づいてたんだ。空美にでも教えてもらったのかい?」
「いや、空美さんは何も話さなかった」
「そりゃそうだろうね。あなたに肩入れしたともなれば、サキュバス仲間から村八分にされるのは明白だもの」
どうやら彼女は、空美が自分を売らないと最初から知っていたらしい。
この美少女と空美がどのような関係にあるのかは知らないが、他人の善意を蔑ろにするような言い草には少しだけ腹が立った。
「あんた、空美さんと知り合いなのか? どうして空美さんは俺に何も教えてくれなかったんだ?」
「サキュバスには不文律があるのよ。『他のサキュバスが狙っている男を故意に奪い取ってはいけない』。例えばあなたが空美の恋人だったりとか、空美が以前からあなたを狙っていたのなら私も手出しできなかったんだけど、別にそういうわけでもないんでしょ? なら私があなたに何をしようが、空美は何も言えないわけ。むしろ妨害でもしてくるようであれば、仲間内から報復されるのはあっちの方」
「そういうことか」
円の相談を受けた空美は、すぐにサキュバスの仕業だとピンときた。だが自分と天崎は、ただのお隣さん。他のサキュバスが狙っていても、それを邪魔することはできない。なぜならサキュバスの間にも、諍いが起こらないように、ちゃんとしたルールが存在しているのだから。
空美は空美で暗黙の了解に従っていただけなのだ。責めることなどできるはずもなかった。
「連日の変な夢も、お前の仕業なのか?」
「その通り。なに、覚えてるの?」
「いいや、まったく。でも起きた後の疲労感が酷かったり、円が異様に眠たそうにしてたこともあったからな。大方の見当はつく」
「円って、あの座敷童ね。ふん。あいつさえいなければ、こんな強引な手段を使わなくても、もっと早く目的を達成できたのに」
「目的? お前の目的は何なんだ?」
「言うわけないじゃん」
そりゃそうだ。
ただ彼女の口ぶりからして、サキュバス個人として天崎の精を貪りに来たわけではないことは確かだろう。天崎も空美以外のサキュバスと会ったことはないし、人間的に惚れられたなんてのはあり得ない。彼女が天崎に執着する理由が見当たらなかった。
となれば、誰かの差し金ということになる。
そこまで考えが至ったのなら、黒幕の正体は自ずと見えてきた。
だが今は後回しだ。この状況を切り抜けるために、もっと話を長引かせなければ。
焦り始めた天崎が渋い顔を浮かべていると、美少女がベッドの端に腰かけた。そして、ゆっくりとバスローブをはだけさせる。
「目的を話すことはできない。けど私がやろうとしていることは分かるわよね?」
全裸になった美少女が、天崎の方へと這い寄ってくる。
気がつけば天崎も裸になっており、まるで透明な鎖で拘束されているかのように、大の字に寝転がったまま身動きが取れなくなっていた。
まな板の上の鯉となった獲物を見下ろしながら、彼女は妖艶な笑みを浮かべる。だが天崎は全裸の美少女に迫られているのにもかかわらず、不敵に笑うだけだった。
「残念だったな。悪いけど、『完全なる雑種』の俺はサキュバスじゃ興奮できねえんだ」
美少女の視線が天崎の下半身へと移る。
まったく反応していない天崎の一物を見て、美少女は幼い男児でもあやすかのような、優しげな声を漏らした。
「ふふ。なるほど、聞いていた通りね」
「聞いていただと? 誰にだ?」
「それも言うわけがないわ」
そう言いながらも、彼女は天崎の股間へと手を伸ばした。
「いくら性的欲求を抱かないといっても、刺激を与えれば別でしょう?」
その通りだ。人間以外に欲情しないのと、生理現象は別の話。たとえ天崎にその気がなくとも、性感帯を刺激されれば当たり前のように反応してしまう。それを知っている天崎は、苦い顔を浮かべながら歯を食いしばった。
だが美少女の手が天崎に触れることはなかった。
接触する瞬間、まるで感電でもしたかのように、少女の手が弾かれたのだ。驚いた彼女は、反射的に手を引っ込める。
そしてひどく醜い顔を露わにしたまま、虚空を睨みつけた。
「ちぃっ! またあの座敷童の邪魔が入ったか」
「座敷童?」
そうか。姿は見えないが、また円が守ってくれたのか!
天崎は安堵するも、それと同時にこれ以上の時間稼ぎは難しいと判断する。どうやら夢の中ではサキュバスに抵抗する術はないみたいだし、円の援護も無駄にしたくはない。こいつには早いとこ撤退してもらおう。
「なあ、あんた。自分の身が大事なら、早く夢を切断した方がいいんじゃないか?」
「……何を言ってるの?」
余裕すらも窺える天崎の顔を見て、美少女は訝しげに眉を寄せた。
その反応も当然のこと。円に妨害されたとはいえ、天崎は未だに動けず情けない姿を晒しているのだから。その状態で撤退を促しても説得力など皆無であり、相手を呆れさせるばかりだった。
「本来の姿を見せないってことは、俺に身元を知られたくないわけだろ? 今、小噺が夢を逆探知してくれている。お前の居場所が判明するのも時間の問題だ」
「小噺っていうと、あの妖精コレクターの?」
「そうさ。標的の夢の中に入るには、サキュバス自身も眠ってなけりゃいけないはずだ。だから妖精の鱗粉を使って、俺の夢に干渉している元凶へ遡ってる最中なんだよ」
もちろん成功するかどうかは分からない。それどころか前例がないため、不可能という前提で試してみると小噺は言っていた。だが、それを素直に教える義理もない。
そしてこちらの計画を暴露したのも、ひとえに保険のためであった。
逆探知が成功して、サキュバスの居場所を特定できれば良し。仮に失敗しても、牽制にはなるだろう。今後天崎の夢に干渉する際、居場所がバレるんじゃないかと警戒させることができれば御の字だった。
成功しようが失敗しようが、今より状況は良くなるはずだ。
そう確信した天崎は、勝ち誇ったように眉を吊り上げたのだが……当のサキュバス本人は、狐につままれたようにきょとんとするばかりだった。
さらには、天崎の言葉を理解するのと同時に笑い出した。
「あはははは。なるほど、逆探知ね。それは名案だわ。でも惜しいわね、惜しすぎる」
「惜しい、だと?」
まさか小噺の理論が間違っていたのか?
だとしても彼女は『妖精コレクター』なのだ。サキュバスにも夢に関しても知識は浅い。たとえすべてが見当違いだったとしても、まったく責めるつもりはなかった。
するとサキュバスの美少女は、天崎の心を読み取ったかのように首を横に振った。
「いいえ、妖精コレクターの推理は正解よ。確かに、妖精の鱗粉なら万に一つくらいの確率で私の居場所を突きとめられるかもしれない。でもね、それはあくまでも私があなたの夢に遠隔で干渉していた場合の話だわ」
「……どういう意味だ?」
「不思議だと思わなかった? あなた、ラブホテルなんて来たことないでしょ? にもかかわらず、こんなにもはっきりと見知らぬ場所が夢に出てきている」
「そりゃそうかもしれないけど……」
美少女が何を言おうとしているのか分からず、天崎は困惑した。
と、そこで気づいた。円がいない。
先ほど美少女が天崎に触れようとした際、何かしらの妨害があった。円が助けてくれたのは間違いないのだろうが、今までと比べて明らかに方法が違う。もうほとんど覚えていないものの、以前は円自身が天崎の夢に入ってきたはずだ。
では、どうして今日に限って夢の中に円の姿がないのか。
「遠隔で夢に干渉してたら逆探知できたかもしれないって、まさか……」
見知らぬはずのラブホテル。
夢の中に入ってこない円。
遠隔ならという、サキュバスの言葉。
すべてが繋がった。
「ふふ。気づいたところで、もう遅いわ」
サキュバスの美少女が妖艶に笑った。
そして肌と肌が触れ合わないように、彼女は仰向けに寝転がっている天崎の上へ馬乗りになってくる。
「私はサキュバスよ。触れられないなら触れられないで、いくらでもやりようはあるわ」
「くそっ!」
抵抗しようにも、未だに拘束されているようで身動き一つできない。さらに舌を噛み切ってみたが、まったく痛みがなく、強制的に起床することもできなかった。
そんな無抵抗の若くて精力ある男児を見下ろしながら、美少女は恍惚と舌を出した。
「さあ、楽しい夜を過ごしましょう」




