第8章 空美の葛藤
月島に今日の勉強会は中止という旨を伝え、天崎は早々に帰宅した。
空美の所へ話を聞きに行く前に、まずは荷物を下ろすため自分の部屋へ上がる。そこで珍しい来客があることに気づいた。
「おっす、天崎。お邪魔してるわよ」
天崎の部屋で円とくつろいでいたのは小噺だった。
知り合いとはいえ、勝手に他人を部屋に上げないでほしいなぁと、天崎は肩を落とした。まあ円もこの部屋の住人なので仕方のないことだが。
「んで、何の用だ? 二日連続で俺に会いに来るなんて」
「単刀直入に訊くけど、あんた、うちがあげたチョコはちゃんと食べたよね?」
「チョコ?」
そういえば昨日の帰り道、小噺からバレンタインチョコを貰ったんだった。
「ああ、円と一緒に食べたぞ。なあ?」
「うん」
同意を求めると、円もこくこくと頷いた。
「そうね。それは円ちゃんにも確認を取ってたところ」
「じゃあなんで俺に訊くんだよ……」
呆れたところで、妙な違和感を抱いた。
頭の中をくすぐられた気分になり、天崎は嫌悪感を露わにする。
「そういや、あのチョコって妖精の鱗粉が入ってるんだっけか?」
「なんであんたがそれを知ってるの?」
「なんでって、そりゃ……」
お前から教えてもらったからだ。と言おうとして、引っ掛かりを覚えた。
いつだ? いつ、チョコには妖精の鱗粉が入っていると説明された? チョコを渡された時点で聞かされていたのなら、警戒して食べなかっただろう。それに小噺が空美の顔を見て逃げ帰ってからは、今の今まで一度も顔を合わせていないはず。
さらに小噺の方も、自分が説明したことを覚えていない様子だった。
なんで鱗粉が入っていると思ったのか、天崎は合理的な理由を見つけるため黙り込む。
少しばかりの沈黙の後、先に小噺が口を開いた。
「あんたの言う通り、あのチョコレートの中には妖精の鱗粉が混ぜてあったわ。あんたが毎日変な夢を見るから助けてくれって、円ちゃんから依頼があったからね。それで、もしかしたら『誘惑』の妖精の鱗粉なら夢の中に入れるんじゃないかと思って試してみたの」
「夢……」
呟いた天崎の頭に、ぼんやりと記憶が蘇ってきた。
昨日、帰り道にチョコを渡してきた小噺。今、目の前にいる小噺。その間に一度だけ彼女と会話をしたような気がする。
「つまり俺とお前は夢の中で会ったってことなのか?」
半信半疑で問うと、小噺は目を伏せてゆっくりと首を横に振った。
「残念だけど、うちも昨日の夢はまったく覚えてない。でもチョコに鱗粉が入っているのを知ってたってことは、夢の中でうちがあんたに説明したという何よりの証明よ。夢の中で聞いたことを、あんたは無意識に覚えてたってわけ」
「待て待て。ちょっとまとめさせてくれ」
情報過多で混乱しかけた天崎は、今までの説明を自分の言葉で紡ぎ出した。
「えっと、俺が連日変な夢を見ていることに円は気づいてて、それを解決するために小噺に相談した。んで、お前はまず手始めに、妖精の鱗粉が混じったチョコレートを俺に食べさせて、夢の中に入ろうとした。こういうわけか?」
「そういうことね。それだけ理解が早いってことは、やっぱりあんたの夢に入り込むのは成功していたんでしょう。たぶん夢の中でも同じ説明をしたんだと思う」
「た、確かに」
指摘されて気づいた。突拍子もない話なのに、素直に受け入れられていることに。
予習復習みたいなものだ。同じ情報を反復することによって、より確実に自分の脳へと定着させる。天崎は一回目の情報収集を夢の中で行っていたため、ほぼ無意識レベルでそれをやっていたのだろう。
「で、ここからはうちの推測なんだけど、その変な夢を意図的に見させている誰かが存在するんだと思う。毎日のように見続けているのは、誰かが作った夢だから」
「誰かが作った……夢?」
「いくら妖精の鱗粉でも、他人の夢の中に入ることなんてできやしない。それでも仮に入れたんだとしたら、それは誰かが特定の『場所』を作ったってことよ。あんたの夢の中にね」
「誰かって、誰が……」
そこで天崎は安藤との会話を思い出した。
いるではないか。夢の中で快楽を与えると言われる種族が、すぐ近くに。
「……そうだ。空美さんと話をしなくちゃ」
「空美さんって、おののき荘に住んでるサキュバスのこと? なんで?」
安藤の名前を出さないようにしながら、天崎はサキュバスが夢魔と呼ばれることを話した。
なるほどと、話を聞き終えた小噺が膝を打つ。
「そういうことなら、会いに行く価値はありそうね。でもごめん、ちょっと用事を思い出しちゃったから、うちはこれで……」
「待て待て、お前も一緒に来るんだよ」
流れるように逃げ出そうとする小噺を、天崎は襟首を掴んで引き止めた。
「ヤダヤダぁ! あの女に会いたくないぃ!」
「年上の女性の幼児退行が、ここまでドン引きするものだとは思わなかったよ」
駄々をこねる小噺を引きずって、隣の部屋へ向かう。
起きているかどうか微妙な時間帯だったが、呼び鈴を押すと、眠たげな目をこさえた空美がすぐに出てきた。
「ん……なんだ、東四郎……と処女ビッチか。こんな朝っぱらから何の用だ? 結婚の報告にでも来たのか?」
「んなわけないでしょ」
もう夕方だし、小噺と結婚なんてするわけないし、来客が誰か把握してないんなら、もうちょっとマシな恰好で出てきてほしいものだ。薄手のネグリジェ一枚など、天崎でなければ目のやり場に困るだろう。
そんな空美を前にして小噺は怯えきっているのか、天崎の背中に隠れたままツッコミを入れることすらしなかった。
「突然すみません。空美さんにちょっと訊きたいことがあるんです」
「訊きたいこと?」
訝しげに眉を寄せた空美が、小噺の方にも視線を向ける。
そこで何かを悟ったらしく、鼻を鳴らした空美は渋い顔をしたまま二人を招き入れた。
「分かった。入れ」
いやにあっさり承諾してくれたなと、天崎は思った。
嫌がる小噺とともに空美の部屋へ。六畳一間の半分近くはセミダブルのベッドが占領しており、その上には何着もの洋服が脱ぎ散らかされている。さらに玄関付近には、数日分のゴミの詰まったゴミ袋が。相変わらずの汚部屋だった。
最近は少なくなったとはいえ、旧おののき荘でお隣さんを始めた頃は、よく掃除を手伝わされたっけなぁと、天崎は感慨深げに思い出した。
空美がテーブルの奥側に腰を下ろしたので、天崎は対面に座る。
すると半眼で睨みつけてきた空美が、前置きもなく牽制してきた。
「話ってのはアレか? 最近お前がよく見てる夢の話か?」
「えっ、知ってたんですか?」
「なんせ円が真っ先にあたしに相談しに来たからな。東四郎が変な夢を見てるから、解決してくれって」
「円が?」
「そりゃそうだろう。その処女ビッチを連れて来たのは円だろ? そんないつ駆けつけてくれるか分からない『専門家』よりも、まずは隣に住んでるあたしの所へ相談に来るのは合理的だと思うがね」
「しょ、処女ビッチって言うな……」
「ふん」
小噺の控えめな反抗に、空美は機嫌が悪そうに鼻を鳴らすだけだった。
天崎は混乱する。円は小噺に依頼する前に、空美に相談していた?
「そんなこと、円は一言も言ってませんでしたよ」
「たぶん忘れてるんだろうさ。毎日のようにお前の夢の中に入ってるんなら、夢と現実が混ざって記憶が不安定になってても不思議じゃない。もしかしたら言えば思い出すかもな」
「そんな……」
その事実を耳にし、天崎は絶句した。
夢の中に何度か円が登場したことだけは、なんとなく覚えている。けど、それがまさか天崎を助けるための行動であり、さらにはその代償が現実にも及んでいるなんて。
ふと、そこで思い至る。真っ先に相談されていたというのに、空美が今までまったく話に絡んでこなかったということは……。
「つまり空美さんは、円の相談事を断ったってことですか?」
「…………」
口を閉じた空美が睨みつけてくる。ただ、その中に怒りの感情は見えない。ポイ捨て程度の軽犯罪を咎められたような、煩わしく思っている様子がありありと伝わってきた。
それが分かっているからこそ、天崎も怯まない。真正面から空美の瞳を見つめ返す。
睨み合いの結果、先に折れたのは空美だった。
深くため息を吐いた後、拒絶するように大きく目を逸らす。
「まあ、なんつーか、この件に関してあたしは何もできない。何も……教えられない」
「それは、何でですか?」
「ちょっとしたコンプライアンスだよ。ここであたしが出しゃばると、今後の立場やら関係性が複雑になっちまう。それこそ、この土地を去るくらいの覚悟はしなきゃならないだろうな。結局、あたしも自分の身が可愛いもんでね。東四郎にも悪いが……」
「自分の身が可愛いって、それは円よりもですか?」
「…………」
再び黙った空美は、旋毛が見えるほど深く俯いてしまった。
その横顔は、普段よりも幾分か老け込んだように見えた。もちろん、いつもならそんなことを口にした瞬間に拳が飛んでくるだろう。だが今は皮肉すら返せないと断言できるほど、空美は憔悴しているようだった。
しばらく胡乱げに視線を彷徨わせた後、空美は口を開いた。
「……悪い。円にもお前にも、あたしは何もしてやれない」
「分かりました」
詳しい説明はなかったが、天崎は納得したと言わんばかりに強く頷いた。
一ヶ月前、殺人鬼がおののき荘に襲来した際、空美は天崎を殴りつけたことがあった。円を巻き込むのは絶対に許さない、と言って。
それほど円のことを庇護しているのに、今回は彼女の相談を断り、さらには何も話せないとまで言う。
おそらく空美は葛藤しているのだ。円の力になってやりたいのは山々だが、ちょっと生活リズムが崩れているだけの円と、今後自分に降りかかってくる被害。その二つを天秤に掛けた結果、今はまだ自分が手を貸す段階ではないと、泣く泣く判断したのだろう。
今まで決して弱みを見せなかった空美が、ここまで気落ちしているのだ。天崎としても、これ以上の追求をするつもりはなかった。
「空美さん、確認だけはさせてください。俺の異変に気づいた円は、真っ先に空美さんに相談した。そこで空美さんは話を聞いたけど、協力できないから円の依頼を断った。相談したこと自体、円は覚えていない。そういうことですね?」
「……そうだな」
「では円から話を聞く前に、空美さんは異変に気づいていましたか?」
「いや、円が来るまでは一切知らなかった」
「そうですか。ありがとうございます」
お礼を言い、頭を下げた天崎が立ち上がる。
すると今まで二人の会話を見守っていた小噺が抗議の声を上げた。
「ちょっと待ってよ。このまま引き下がっていいの? このサキュバス、絶対何か知ってるじゃない!」
「ふん。処女ビッチのクセに、ずいぶんと偉そうだな」
「だからうちは処女ビッチじゃ……」
反論しようとしたものの、小噺は途中で口を噤んだ。
睨みつける空美の眼力があまりにも恐ろしく、怯んでしまったのだろう。
「子供にゃ想像もできない、大人の事情ってやつがあるんだよ」
「うちは……子供じゃない」
「あたしからしたら、お前も東四郎も鼻水垂らしたガキんちょと同じだ」
まともに取り合わない空美に対し、小噺は悔しそうに唇を噛んだ。
これ以上の問答は無用だろう。時間の無駄なのは火を見るよりも明らかなので、天崎は小噺の腕を強引に引っ張った。
「空美さん、お邪魔しました」
「ああ」
小さく頷く空美を確認してから、天崎は小噺を連れて退室した。
天崎の部屋の前まで移動したところで、小噺がヒステリック気味に叫んだ。
「なによアレ! 他人には偉そうなこと言っといて、自分は何も教えられないですって? 絶対何か知ってるのに? 大人の事情って何よ! ムカつく! 天崎はそれでいいの!?」
矛先を向けられ、天崎はうんざりしたように肩を落とした。
「いいんだよ。あんなに思い悩んでる空美さんは初めて見た。何か考えがあるんなら、俺はそれを尊重するだけだ」
「なによそれ。あんた自身、身の危険に晒されてるのに? ヒントをみすみす逃すの?」
「だとしても空美さんに迷惑は掛けられない。今までいろいろとお世話になってるからな」
「ふーん。お世話って、そっちの意味じゃないわよね?」
「殺すぞ?」
自分でもビックリするくらい優しい声が出た。
「ともあれ、俺が標的になってることは事実だと思う。だから対策を立てたいんだけど……ちょっと小噺に頼みたいことがあるんだ」
「うちに? いいわよ。あの女の分もうちが協力してあげるわ」
「ああ、頼んだ」
頷いた天崎は、小噺と作戦会議をするべく、円の待つ自室へと戻っていった。




