第7章 夢の忘却
「東四郎さん? 起きてますかー?」
天崎の部屋のドアを叩きながら、さくらは控えめな声で呼びかけた。
普段ならすでに起床している時間であり、朝食を作りに来るさくらのために鍵を開けているはず。しかし玄関は未だに施錠されており、声を掛けても返事がない。
珍しく寝坊しているのだろう。そう判断したさくらは、ニヤニヤと笑みを浮かべて、ポケットから合鍵を取り出した。
「まだ寝ているんですか? 学校に遅刻してもいけませんので勝手に開けちゃいますよ? 何か変なことをしてても東四郎さんの責任ですからね?」
とはいえ円も一緒に暮らしているのだ。こんな朝っぱらから他人に見られてマズいようなことをしているわけもない。
それを知ってるさくらは躊躇なく鍵を開け、天崎の部屋に上がった。
「おやおや」
薄暗い部屋の真ん中で無様な姿を晒す天崎を見て、さくらは頬を綻ばせた。
掛け布団を放り出し、敷布団と垂直になるような寝相の悪さで倒れている天崎と、同じくその上でうつ伏せに覆い被さっている円。二人はさくらが部屋に入ってきたことにも気づかず、微動だにしないまま寝息を立てていた。
「こんな時期に布団も被らないとは、風邪を引いてしまいますよ」
だらしない弟と妹を窘めるように呟いたさくらが、二人を起こそうと手を伸ばす。
そこで彼女は気づいた。
「し、死んでる」
「……生きてますよ」
「生きてはいるようですが、起きてはいないじゃないですか。早く準備をしないと遅刻してしまいますよ」
目が覚めた直後で瞼がまだ開き切っていない天崎に向けて、さくらは冷たく言い放った。
身体の上に乗っていた円を横へ落とし、天崎はのっそりと起き上がる。
「休みの日くらい、もう少し寝かせてくれてもいいじゃないですか」
「まだ寝ぼけているのですか? 今日は金曜日ですよ。休みまではあと一日耐えないと」
「……あれ?」
そうだっけ? と、天崎は欠伸をしながら首を傾げた。
木曜日に登校した記憶はある。そこからさらに一日分の時間を経た感覚があったため、今日は土曜日だと思ったのだが、違うのだろうか。考えてみれば、確かに金曜日だと思い込んでいた日の出来事は何一つ覚えていない。
つまり失われた一日分の体感は……夢だったのか?
「私は朝食の用意をしますので、東四郎さんは早く布団を片づけてテーブルの準備をしてください」
「……分かりました」
さくらから指示が出たことにより、思考が全部吹っ飛んでしまった。
昨日だと思っていた夢の内容を一切合切忘れてしまった天崎は、ゆっくりと立ち上がる。そこで立ち眩みが襲った。
なんだか妙に身体がだるい。本当に夢の中で一日分過ごした気分だ。この疲労感を抱えたまま今日も授業があると思うと、非常に憂鬱である。
未だ寝ぼけているためか、支離滅裂な思考が次々と生まれてくる。
「…………?」
ふと、左手の小指に違和感を覚えた。
注意深く観察してみても、特に変わった様子はない。でも最近、誰かに小指を折られたような気がする。めちゃくちゃ怒鳴られて、理不尽に折り曲げられた記憶が……。
「ま、いっか」
実際に折れているわけじゃないし、変な痛みがあるわけでもない。気のせいだろうと判断した天崎は、布団を片付けるため円に声を掛けた。
「おい、円。起きろ。おーい」
「んん~」
完全に閉じている目をこすりながら、円はゆっくりと上体を起こした。
眠そうだなぁと呆れつつも、あまり時間もないので、天崎はそのまま円に問いかける。
「なあ、円。深夜のこと覚えてるか? 何時くらいかは分からんけど、お前が俺の寝床にダイブしてきたのを」
「ん……おぼえてる」
そう。太陽がまだ顔を見せていない時間帯に、今日も今日とて寝ぼけた円が天崎の上にのしかかってきたのだ。その際、一瞬だけ目を覚ました天崎は、一言だけ恨み節を漏らして、すぐに寝入ったのである。
ちょっと意外だったが、その時のことは円も覚えているらしい。
「じゃあ夢とか見なかったか? なんか俺、夢の中で円と会った気がするんだけど」
「……?」
少しだけ瞼を開いた円が、訝しげに頭を傾けた。
数秒ほど天崎の顔をじっと見つめた後、彼女は簡潔に答える。
「おぼえてない」
「だよな」
そもそも夢とは自分だけのものだ。夢の中で会ったからといって実際に会話したわけではないし、一緒の夢を見ることも普通はあり得ない。なんでそんな質問をしようと思ったのか、天崎自身不思議でたまらなかった。
とにもかくにも、さくらに叱られる前に早く準備をしなければ。
円を脇に追いやり、慌てて布団を片付けようとしたのだが……その間、左手の小指に抱く違和感が消えることはなかった。
「うっわー……」
昼休みのチャイムとともに近寄って来た安藤が、天崎の姿を見てドン引きした。
二限目辺りから机に伏している様子はずっと視界に入っていたのだが、それは単に授業をサボっているだけだと思っていた。しかし近づいてみて初めて気づく。天崎はガチ寝だった。
よもや三時間近くもの間、教師の目を憚ることなく居眠りできる奴がいるなんて……。
「天崎。起きろ。昼休みだぞ」
ここまで真剣に寝入っているということは、以前と同じく深夜に何かあったのだろう。ならこのまま寝かせてやるのが思いやりか、それとも昼休みだと知らせてやるのが優しさか。
迷った安藤は、一回だけ声を掛けてみる。
すると居眠り大魔神から「ん……」という反応があった。
「昼休みだぞ。起きろ」
「……ああ」
どうやら起きるつもりはあるらしい。意識を取り戻した天崎は、のっそりと顔を上げた。
しかし半開きの瞼は未だ完全覚醒には至っておらず、さらに目の前の安藤を無視してマイペースにも背伸びを始める。
呆れ果てた安藤は、ため息混じりに皮肉を漏らした。
「ずいぶんとお疲れのようだね。また夜通し吸血鬼にでも追われていたのかい?」
「吸血鬼? ……ああ、いや、そんなんじゃねえよ。ただの夢疲れだ」
「初めて聞いたよ、そんな言葉」
また厄介な異変に巻き込まれているんじゃないかと少なからず心配していた安藤だったが、思わぬ真実に肩を落とすのだった。
「んな肩透かし食らったような顔してるけどさ、こっちとしては大事件なんだぞ。最近、毎日のように変な夢を見てるみたいで、まったく眠った気がしないんだよ」
「夢を見て疲れるってことは、ストレスでも溜まっているのかもしれないね。まあ君の場合、逆に溜まってなきゃおかしいんだけど」
「ん? なんで俺のストレスが溜まってるって思うんだ?」
「君はヴラド三世から命を狙われている身だろう? いつ襲って来るかも分からないし、普通だったら安眠なんてできやしないと思うけどね」
「そういえばそうだな」
と、天崎は納得した。
ヴラド三世の目的は、天崎を殺すことではない。その身体を乗っ取ることなので、手荒な手段は取れないだろうという油断が心のどこかにあったのだ。
しかし神上立人という前例があるように、肉体を奪われたら確実に死ぬ。標的にされている天崎にとっては、結果は同じはずだ。
にもかかわらず、どうして自分はこうも落ち着いて日常生活を送っていられるのか。
その答えは、意図せず口から出ることとなった。
「……たぶん、お前の存在があるからなんだろうなぁ」
「僕の?」
「何かあったら何とかしてくれるって期待があるから、俺も安心していられるんだと思う」
「よしてくれ。そんなに買いかぶらない方がいい。基本的に僕は何もできないし、あんまり頼りすぎてると、いざとなった時に自分で動けなくなるよ」
「だとしても異変を解決へ導いてくれてるのは確かだろ? それに戦闘はリベリアがいるし、精神安定剤の円もいる。安心感が不安を上回ってるんだろうよ」
「なるほどね」
なんやかんやで自分の周りには助けてくれる人たちがたくさんいる。人間である天崎には及ばない、様々な能力を持った仲間たちが助力してくれるからこそ、差し迫った危機感を抱かずに済んでいるのだろう。
「それと親父の存在もあるかもな。小さい頃から大冒険譚を聞かされてる身としては、ヴラド三世の件もちょっとした異変の一つとしてしか認識できていないのかもしれない」
「それについては考えを改めた方がいい」
「そりゃそうだ」
父親が生き延びているからといって、自分も無事でいられる保証はどこにもない。父と自分の在り方は切り離して考えるべきだ。
ともあれヴラド三世と連日の変な夢は、おそらく無関係だろう。
再び机に突っ伏した天崎は、恨みがましげに時計を睨みつけた。
「つーか、もう昼休みなのか。腹は減ってるけど眠たい。マジ眠たい。まだ寝ていたい」
「学校に来てから三時間近く寝てただろうに。そんなに寝不足になるなんて、君はいったい夢の中でどんな大冒険を繰り広げてたのさ」
「それがまったく覚えてないんだよ。目が覚めたら完全に忘れちまった。でもはっきり見てたって記憶だけはあるから、異様に疲れてる」
「ふーん」
安藤は興味なさそうに鼻を鳴らすだけだった。
頼みの綱の友人に見放された天崎は、安藤の制服の裾を摘まんで泣き付いてくる。
「なあ、安藤。なんか快眠できる方法とかないか? 魔界の技術とかでさ」
「あるけど教えるわけないだろう。それは僕の目的に反する」
「だよなぁ」
「それに夢のことなら隣のサキュバスに訊けよ。もしかしたら僕より詳しいかもしれないぞ」
「空美さんに? なんで?」
どうして、ここでその名前が? と、天崎は首を傾げた。
「サキュバスは別の呼び名で夢魔っていうだろ。睡眠中の男性の精液を搾り取るのが種族元来の性質だし、夢の中で快楽を与える能力もあるって話だ。ある意味、夢の専門家と言っても過言じゃない」
「な、なるほど」
空美自身からそんな話は聞いたことないが、確かにサキュバスは夢に関する種族だったなと天崎は思い出した。
なら、さっそく帰宅後にでも空美を訪ねてみるか。
と、安藤の助言を採用したところで――、
「ヘイヘイヘイヘイ。なんか精液とか快楽とかいう単語が聞こえちまったぜ。こんな真昼間から猥談かよ。しかもクソ真面目君の安藤様が! 世も末だねぇ、こりゃ」
話を聞きつけた犬飼が、卑猥な顔をぶら下げて安藤の肩に腕を回してきた。
馴れ馴れしく体重を掛けてくる犬飼に向けて、安藤は煩わしそうに睨みつける。
「エロ犬こそ、もうちょっと節操を持ってくれよ」
「誰がエロ犬じゃ!」
唾を撒き散らしながら抗議する犬飼が、この上なく鬱陶しい。眉を寄せながら訴えかけてくる安藤に対して、天崎も頷き返す。
「ところで天崎、明日はどうする? 体調が悪いなら日曜日にするかい?」
「なになに? 明日二人でどこ行くつもりなんだよ」
興味津々で訊ねてくる犬飼はさておき、そういえば明日は例の廃墟へ情報を集めに行く約束をしていた。正確にはリベリアも含めた三人なので、できれば予定を崩したくはない。
「別に歩けないほど寝不足ってわけでもないし、そこは何とか耐えるさ。けど、どうしても無理そうだったら早めに連絡するわ」
「分かった」
「友人たちの露骨な無視が痛い!」
嘆きの叫び声を上げた犬飼が、肩に回していた腕で安藤の首を締め上げた。そしてヘッドロックをかましたまま、安藤を無理やり引きずっていく。
「ブハッ! 何するんだ犬飼! やめろ! 眼鏡が落ちるだろ!」
「うるせぇ! 天っちもさっさと来しゃい! 外で弁当食うぞ!」
力負けしている安藤は、ずるずると犬飼に拉致られていく。
そんな騒がしい友人の声が響く寝不足気味の頭を抱えながら、天崎は疲労に満ちたため息を吐かずにはいられなかった。




