空 白 その4
意識が繋がるのと同時に、世界が回転した。
白い霧に覆われた天井が見えたと思ったら、今度は透明な液体が視界を遮った。そのまま天崎の身体は、滑るようにしてお湯の中へと飲み込まれていく。
頭のてっぺんまでお湯に浸かったことで、本能的に生命の危機だと感じ取った天崎は、混乱しながらもがむしゃらに両手両足を動かした。
「ゴボッ、ボフッ!?」
しかし意外と水深は浅かったようだ。水底に尻をついても、水面が自分の胸の辺りまでしかないことに気づく。数センチの水があれば人は溺死するとはいえ、冷静さを取り戻せば何ともない深さだった。
「こ、ここは……?」
溺れる危険性はないと判断した天崎は、落ち着いて周りを見回した。
浴槽から立ち昇る湯気が視界を遮っているものの、状況を把握できないほどではない。素っ裸の自身を見ても分かる通り、ここは風呂の中だ。自分は今、湯船の中でうたた寝をして溺れかけたのである。
ただ、どう見てもおののき荘の窮屈な風呂ではなかった。
両脚をうんと伸ばしても、なお余りがあるほどの面積。まるで旅館の共同浴場並みの広さがあるここは……そう、天崎の実家の風呂だった。
それを認識するのとともに、頭の奥から記憶が引っ張り出される。
思い出した。今は年末年始。冬休みを利用して、実家に帰省中だった。
そうと分かれば慌てる必要もない。自宅の風呂で溺死するのはシャレにならないので、今度は熟睡してしまわないよう気をつけながら肩まで浸かる。そしてちょっと熱めのお湯に身を委ね、再び極楽気分を味わおうとしたところで――、
「って、んな訳あるかい!」
天崎はセルフツッコミを入れた。
円とミルミルが豆を撒いている光景を見たことがあるし、リベリアや月島からバレンタインのチョコレートを貰った記憶もある。つまり今日はどう足掻いても二月中旬。年末年始からは一ヶ月以上も経過しているはずだ。
「ということは……これは夢なのか?」
そうとしか考えられない。頬を抓ってみても痛くはないし、そういえばなんだか意識も薄い気がしてきた。夢と自覚しながら見る夢、これが明晰夢というやつか。
いやはや実家の夢を見るなんていつぶりだろうか。一人暮らしを始めた頃は、よく見ていた気がする。当時は少なからずホームシックだったものの、まさか二年近く経っても治っていないとは思わなかった。年末年始に帰省したことで、実家が恋しくなっちゃったのかな?
などと考えながら、天崎は湯船の中でリラックスする。
と、その時だった。
「うわっ、本当に入れちゃった。……ってか、なんでお風呂?」
湯気の向こうから、聞き覚えのある女の子の声が届いた。
というか今日の昼間に会話したばかりの声だ。やはり今が年末年始ではないことの証明でもある。声を聞いた瞬間、彼女からバレンタインチョコを貰った記憶が蘇ってきたのだから。
「小噺か?」
「天崎? そこにいるのね?」
相手も天崎の存在を認識したようだ。湯気を掻き分けて、小噺がやって来る。
もちろん風呂に浸かったまま、素っ裸の状態で。
「うおっ」
マズいマズいと慌てた天崎は、すぐに小噺から視線を逸らした。
「えっと……小噺さん? なんで裸なんですか?」
「なんでって、お風呂なんだから当たり前でしょ? なんでお風呂に入ってるかは、うちに訊かれても困るけど」
「なんじゃそりゃ」
呆れる天崎だったが、すぐにピンときた。
さっき自分で答えを出したではないか。
「一つ訊きたいんだけど、これって夢なんだよな?」
「そうね。ここは間違いなく夢の中よ。もっと正確に言うなら、天崎東四郎が就寝中に見ている夢の中、ね」
「ふむ」
夢、夢、夢。なるほど、夢か。
そうかそうか、夢の中なのか。
「……急に黙り込んでどうしたのよ。気持ち悪いわね」
「いやさ。夢の中だったら、何をしても罪に問われることはないと思って」
「は?」
健全な男子高校生である天崎には、青少年的下心を抑えることなどできるはずはなかった。
突然、ニヤニヤと醜悪な笑みを浮かべた天崎が、小噺の控えめな胸部に両手を伸ばした。手の平で彼女の胸を優しく包み込むと、そのまま二度三度と弧を描くようにゆっくりと揉み始める。そして両手いっぱいに幸せを感じながら、天崎は感動の声を上げた。
「おお。小さいとはいえ、男の胸筋とは全然違うんだな。めっちゃ柔らかい」
「なっ、なっ、なっ――」
現実では絶対にできない卑劣な行為。しかし、ここは自分の夢の中。遠慮なんてする意味もなく、天崎はこれでもかというほど小噺のおっぱいを堪能する。
だが夢だろうが現実だろうが、犯した罪に対して必ず報いは訪れるものだ。
怒りと辱めで顔を真っ赤に染め上げた小噺が、ついにキレた。
「なにすんじゃい、ボケーっ!!」
「ほげぇ!?」
小噺の鉄拳制裁が天崎の頬を貫いた。
後ろへ吹っ飛ばされた天崎は、勢い余って湯船の中で後転してしまう。掴まる物が何もなかったので、危うくまた溺れそうになった。
股間を晒したまま無様な姿でもがき続けた後、天崎はなんとか体勢を整える。そして肩を上下させるほど息を荒げている小噺に向かって、必死に訴えた。
「なにすんじゃいって、お前がなにするんじゃい! 殴ることねえだろ! いや現実の小噺だったら間違いなく殴ってくるだろうけどさ!」
「最低! 最悪! 普通、いきなり女の子の胸とか揉んでくるぅ!?」
「普通はしねえよ! でも俺の夢なら俺の自由にさせてくれよ!」
「うわっ、完全に犯罪者の思考ね。このドスケベ変態性欲モンスターが!!」
「ぐぬぬ、否定したいけど否定できねぇ。でもよく考えてみろよ。夢だったら普段できないことをするのが普通だろ!?」
「これは夢だけど夢じゃないの!」
「んなトトロみたいなこと言ってんじゃねえよ! 訳が分かんねえよ!」
「だーかーらー! ここはあんたの夢の中だけど、うちだけは夢じゃないの! うちはちゃんと自分の意思を持ってて、あんたの夢の中に入ってるだけなの! 分かった!? ドゥーユーアンダースタン!?」
「だから、お前こそ何を言って……」
ふと、天崎の脳裏に理解が過った。
否。理解などこれっぽっちもできていないのだが、自分がなんとなく気づき始めていることに気づいた。すなわち目の前にいる小噺の言動が、とても夢とは思えないことに。
「えっ……マジで?」
「マジもマジ、大マジよ。だってあんた、うちがあげたチョコを食べたよね?」
「そりゃ食べたけどさ……」
「それならまず間違いないわね。うちは今、あんたの夢の中に入ってる。例えるならゲームみたいなものよ。あんたがホストで、うちがそこに繋がってる状態。だから夢の内容を左右する主導権は基本的にあんたにあるけど、外部から侵入しているうちには干渉できないはず。分かった?」
「…………」
他人の夢の中に入るなんて、本当にできるのか?
疑わしげに睨みつけるも、小噺の言葉は何故かすんなりと受け入れることができた。おそらくここが夢の中だからだろう。非常に不合理な出来事でも、それが当たり前であるかのように納得してしまうのだ。
ただ小噺の説明を鵜呑みにするとしても、一つ疑問が出てくる。
「ちょっと待った。お前から貰ったチョコなら、円も一緒に食べたはずなんだけど」
「そう。だから現実で眠っていれば、円ちゃんもどこかに居るはずなのよ」
示し合わせた二人が、周囲を探ろうと首を回した――その時だった。
天崎と小噺の間を割って入るように、ゆっくりとお湯が盛り上がり始めた。真っ黒なクラゲのような生き物が水面に向かって浮上し、やがて浴槽から姿を現わす。海坊主よろしくお湯の中から出てきたのは、おかっぱ頭をびしゃびしゃに濡らした円だった。
ただ彼女は完全に顔を出すことはせず、水面を顎の辺りでキープしたまま、半眼で天崎を睨みつけている。
そして小さく一言、天崎に対して死刑宣告を言い放った。
「東四郎。おっぱいさわってた」
「ぐはっ!?」
自分の痴態を円に見られていたことにより、天崎は吐血した。
おののき荘に引っ越してきてから一番ショックを受けたと言っても過言ではない。めちゃくちゃ落ち込んだ天崎は、ゆっくりとターンして浴槽の隅へ移動する。そのまま背中を丸めて、さめざめと泣き出すのだった。
「ふふん。円ちゃんにすら非難されるなんて、哀れなものね。ま、今のが罰ってことであんたの愚行は許してあげるわ。もっとも、今のうちはあんたが勝手に想像して作り出したアバターのようなもの。現実のうちの身体とはまったく関係がないから、見られようが触られようが、別に構わないんだけど……」
と、勝ち誇ったように憐憫の眼差しを向ける小噺が急に止まった。
何かを思い出した彼女はハッと息を呑むと、唇を尖らせて恥ずかしそうに呟いた。
「……そういえばあんた、うちの裸を見たことあったわね」
一度現実で見たものは、夢の中でも再現しやすいということなのだろう。両腕で自分の裸体を隠した小噺もまた、天崎とは反対方向へ移動して背を向けたのだった。
そんな二人の奇妙な行動を見て、真ん中にいる円が不思議そうに首を傾げた。
ただ、ずっとそうしているわけにもいかない。天崎は背を向けたまま小噺に問い掛けた。
「んで、小噺さんよぉ。なんでお前が俺の夢の中にいるんだ? さっさと詳しい説明をしてくれないか?」
「その前にお風呂から出ない? 背中合わせじゃ、話しにくいったらありゃしないわ」
「賛成」
少しだけ気力が戻った天崎は、緩慢な動作で立ち上がった。
だが、それを小噺が止める。
「待って。ここはあんたの夢なんだから、別に自分が移動しないでもいいでしょ?」
「どういう意味だ?」
「適当に念じれば勝手に場所が変わるんじゃないかしら? 想像しやすいように、過去にうちらが集まった場所……例えばあんたの家の居間とかを思い浮かべればいいと思う」
「分かった」
言われた通り、天崎は記憶の中から実家の居間を引っ張り出した。
すると風呂場が溶けるように消え去り、一瞬にして背景が居間へと構築される。今年の年末年始同様、三人とも半纏を羽織って炬燵を囲んでいた。
裸でなくなったことにひとまず安心したのか、小噺がホッと一息する。そしてニタニタと嘲るような笑みを浮かべて皮肉ってきた。
「ふぅ。まさか、あんたがお風呂の夢を見てるとは思わなかったわ。さすが性欲旺盛な男子高校生ってところね」
「うるせぇ。誤解しないでほしいけど、別に毎日じゃねえぞ。たまたまだ、たまたま」
「分かってる。うちと円ちゃんが無理やり介入したから、無意識のうちに夢が紐づけられたんでしょうね。あんたの実家の風呂は、うちら三人が初めて顔を合わせた場所だから」
この夢を見始めた時点で小噺と円が介入していることを察知し、三人が初めて集ったのは実家の風呂だったと、無意識下で記憶を掘り起こした。さらに風呂といえば全裸が当たり前という常識により、あのような情景が決定したのである。
自分の下心が小噺の衣服を剥いたわけじゃないと知り、天崎は安堵したのだった。
「で、なんでお前が俺の夢の中にいるんだ? それに円も。お前がくれたチョコと何か関係があるのか?」
「あのチョコの中には妖精の鱗粉が混ぜてあったのよ。それと同じ物を食べたうちと円ちゃんも、鱗粉に導かれて夢の中に入れたってわけ」
「うげぇ。そんなもん混ぜるなよ……」
「言わなかったことは謝るわ。でも毒じゃないから安心して」
確かに毒ではないのかもしれないが、妖精の鱗粉にはあまりいい思い出がない。苦い経験のせいか、天崎は反射的に拒絶反応を起こしたのだった。
「妖精の鱗粉って幻覚を見せるだけじゃなくて、そんなこともできるんだな」
「いいえ、普通はできないわ。幻覚と同じで相手の夢を多少はコントロールできるかもしれないけど、それは眠ってる人の耳元で見せたい内容を囁き続けなきゃいけないし、こうやって夢の中に入って会話したりするのは、まず不可能よ」
「ん? 実際にお前は夢に入って来れたんだろ?」
「そう。正直、うちも半信半疑だった。はっきり言って前例がないから、試してみるまで成功するとは思わなかったの」
「???」
成功するとは思わなかったとは、どういう意味なのか。
天崎が理解できていない表情を露わにすると、小噺は低い声で答えた。
「あんたの夢に介入できたのは、ここが特別な夢……つまり第三者が意図的に作り出した夢だからだと、うちは推測しているわ」
「第三者が意図的に作り出した……夢?」
訳が分からず、天崎はぼんやりと周囲を見回した。
限りなく実物に近づけた絵画のように曖昧な背景だが、ここは間違いなく天崎の実家の居間だった。夢の中だと言われれば納得できるものの、第三者が作り上げたものだとは思えない。家具や小物の配置まで、天崎の記憶と一致しているのだから。
「それは夢の主導権があんたにあるってことね。夢を見せてる誰かさんは、あんたに特定の夢を見せたいわけじゃなくて、夢の中であんたに何かをしたいんだと思う。舞台なんてどこでもいいのよ」
「俺に何かをしたいって……どうして? 誰が、何のために?」
「そんなの、うちが知ってるわけないじゃない」
口元をへの字に曲げた小噺が、険しい顔で腕を組んだ。
それもそうだ。小噺は、天崎の夢に誰かが干渉していることを忠告するために、こうやって夢の中に入ってきただけなのだ。何が起きているのか知るためには、天崎自身が動かなければならない。
その前に、ふと疑問が浮かんだ。
「じゃあ、なんでお前はチョコに妖精の鱗粉なんか混ぜたんだ? 成功するかどうかはともかく、誰かが俺の夢に干渉してるって確信があったから試したわけだろ?」
「それは円ちゃんから依頼があったからよ」
「円から?」
円の方を一瞥すると、彼女は天崎の目を見つめながらこくこくと頷いていた。
「この数日間、あんたが変な夢を見続けてるんだってさ」
「夢?」
必死に思い出そうとするものの、もうほとんど覚えていなかった。
何か夢を見ていたことは間違いない。だが夢の内容はすでに記憶の底へと沈んでしまい、引き上げることは到底できそうになかった。
悪夢だったような気もするし、とても幸せを感じていたような気もする。そして、それらすべての夢に円が登場していたことと、夢を見た翌日は少なからず覚えていたという記憶だけはあった。
「円ちゃんが言うには、数日前から誰かがあんたの夢に干渉してきてるらしいの。その都度円ちゃんが夢に侵入して追っ払ってたんだけど、その誰かさんの正体は掴めないまま。だからうちに相談してきたってわけよ」
「そうだったのか……」
天崎は知らず知らずのうちに円に助けられ、さらには小噺のような『専門家』にまで手を回してくれたのだ。感謝の意味も込めて隣にいる円の頭を優しく撫でると、彼女は誇らしげに鼻を鳴らした。
「でも、誰がそんなことを?」
「それはうちにも分からない。あんたも見当くらいつかないの?」
「いや……」
悪意を持って自分に突っかかってくる人物は、一人だけ心当たりがある。
ヴラド三世だ。奴なら天崎の身体を奪うために、あの手この手で攻撃を仕掛けてきても不思議ではない。
ただヴラド三世の件がなくとも、天崎が人外を引き付けやすい体質なのは事実。現時点で奴の仕業と決めつけるのは早計だった。
「……今の段階じゃ、何とも言えないな」
「そう。なら本人に会いに行きましょう」
「会いに行く?」
話の先が見えず、天崎は首を傾げた。
すると小噺が得意げに説明してくる。
「妖精の鱗粉と同じで、夢を継続的に見させるためには、眠っている本人の側にいなければならないはずよ。でもあんたの部屋に入れば、間違いなく円ちゃんが気づくでしょう。つまり夢を見せている誰かさんは遠隔で干渉しているはずなんだけど、こんなはっきりとした夢を作るなんて、まず不可能だと思う」
「ってことは、夢を作り出した本人も俺の夢の中にいるってことか!」
「そういうこと」
深く頷いた小噺が立ち上がった。
「で、何か思い当たることはない?」
「思い当たることって言われてもな」
「夢ってのは大抵記憶に準じるものだから、基本的に知らない人は出てこない。夢の中で実体を保つためには、あんたの知り合いに化けてる可能性が高いわ」
「知り合い、か」
「それに夢の主導権はあんたにあるようだし、うちら以外の人物が出てきたとしても、消えろと念じれば素直に消えるはず。つまり消えないのが夢を見せてる誰かさんね」
「なるほどな」
小噺や円と実家の風呂に入っていたということは、この夢は今年の年末年始の記憶に準じているのだろう。その時に会った人物といえば、父親と母親はもちろんだが……。
「……分かった」
「早っ。なによ、心当たりあるんじゃない」
「いや、ただの勘だ。確信があるわけじゃない」
そう、ただの直感だ。自分の身を隠そうとしている人物が、わざわざターゲットの両親に化けるとは思えない。となると、帰省時に印象に残っている人物は一人だけだ。
「ま、心当たりのある人物を総当たりで会っていけば、いずれは遭遇するはずよ。この夢を継続させたいなら、夢を見せてる誰かさんも離れるわけにはいかないだろうし。思い当たる所に行って、一人一人確かめていきましょう」
「そうだな。ちょっと場所を変えるぞ」
そう言って目を閉じた天崎は、とある風景を強く念じ始めた。
すると居間だった背景は溶けるように消失し、代わりに屋外へと移る。
地面を覆いつくすほどの枯葉の絨毯に、乱立する針葉樹。そこは天崎の実家の裏山だった。
「……いた」
目を凝らすと、寂れた色彩の山中に、一つだけ人工的な紺色が浮かび上がる。
ワンピース型の割烹着を着た女性が、棒立ちのまま天崎たちを睨みつけていた。
「ねえ、アレって……」
「ああ。ウミヘビを使ってお前を気絶させた人魚の魔女だ」
不安げに問う小噺に、天崎は女性から目を離さずに答えた。
ふと、自分の身体が震えていることに気づいた。まるで蛇に睨まれた蛙のように、全身が恐怖に蝕まれている。
どうして震えている? どうして怯えている?
答えは明白だ。自分の手で殺した相手が、今まさにこちらを睨みつけているのだから。
動けと、自分の身体に対して意識的に命じてみる。だが錆び付いたロボットのように、軋みながらしか稼働してくれない。それだけ天崎は、本能的にヨミの存在を拒絶していた。
夢が覚める前に、あの女の元へ辿り着かなければ。
恐怖と焦燥により、額に汗が浮かび始めた――その時だった。
血の気が失せて感覚の乏しくなった右手が、急に温かい感触に包まれた。見れば、円が天崎の手を握りながら力強い眼差しで見上げていた。
その瞬間、天崎の震えがピタッと止まった。
「心配すんな。俺は大丈夫だから」
円のおかげで、笑みを浮かべられるくらいには平静を取り戻すことができた。
そう、ヨミは一ヶ月も前に死んだのだ。二度と天崎の前に現れることはないし、これが夢であることも分かっている。恐れることは……何もない。
再びヨミを見据えた天崎は、彼女の存在を消去しようと強く念じてみる。
消えない。やはりアレは偽物……誰かが化けた姿だ。
そう確信した天崎は、未だにこちらを睨みつけている女性に向かって呼びかけた。
「おい、あんたは何者だ!?」
問いに対し、女性は不機嫌を隠そうともせず呟くだけだった。
「まったく。素直に眠っていれば幸せになれたのに」
「何だと?」
返答の意味が分からず、天崎が眉を寄せた、その瞬間――、
足元が唐突に崩壊を始めた。
「なっ――!?」
落とし穴どころの話ではない。枯葉で覆われた地面が一瞬にして消滅したのだ。
足場を失った三人は、漆黒の奈落へ落ちていく。その途中で天崎は円の身体を抱き寄せた。
「天崎、落ち着いて! たぶんあの女が夢を切断しただけだから、現実のうちらに実害はないと思う!」
すぐ隣で一緒に落ちていく小噺が叫んだ。
だが他人に落ち着けという割には、彼女の表情は苦虫を噛み潰したように歪んでいた。
「でも……この終わり方はマズいかもしれない!」
「マズいって、何が!?」
「唐突に夢が終わるから、もしかしたら起きた後に何も覚えてないかも!」
それは天崎自身も体験したことがあった。
普段でも大半の夢は記憶に残らないし、衝撃的な内容であっても一日や二日も経てば完全に忘れてしまう。特にアラームなんかによって夢の途中で目覚めた時は、起きた直後でも何一つ覚えていないことが多かった。
「ちっ。せっかく犯人を見つけたっていうのに!」
「天崎! ちょっと手を出して!」
「手?」
そう言われて、天崎は円を抱えていない方の手を小噺へ伸ばす。
すると彼女は何を思ったのか、その小指を本来曲がってはいけない方向へと躊躇なく折り曲げた。
「痛っ――!!?」
「これで少しは覚えていられ……」
言い切る前に、小噺は闇の中へと呑み込まれてしまう。
同時に、天崎の意識もプツンと途切れたのだった。




