間 章 とある猫又と元『調査員』の会話
六畳ほどの和室の真ん中で、トレンチコートを羽織った男が音もなく佇んでいた。
ただし、そこは普通の和室ではない。真夜中だというのに電灯は点いておらず、体重を支える畳は底が抜け落ちそうなほど腐り果てており、籠った空気は妙にカビ臭い。住人が退居してから年単位の時間が経過しているのは明らかだった。
そんな廃墟の中で、トレンチコートの男――戸塚秀明は静かに待つ。
いったい、どれだけ待ちぼうけを食らっていただろう。手持無沙汰になるほどではないものの、部屋に充満する埃やカビで喉を傷めるには十分な時間だったようだ。不用意に息を吸い込んだ戸塚は、盛大に咳き込んでしまうのだった。
「は~あ。疲れた疲れた、儂は疲れたぞい」
するとそこへ、待ち人らしき声が戸塚の耳に入った。
咳き込んだことにより涙を溜めた戸塚は、ようやく来たかと言わんばかりの恨みがましげな視線を暗闇へ向ける。タンスの上では、尾が二つに分かれた黒猫が我が物顔で座っていた。
「まったく、待ちわびたよ。長く生きてると、時間の感覚が鈍くなるのかな?」
「たわけ。時計もないのに、正確な時間を知れるわけないじゃろ」
「……確かに」
この口論は分が悪いと悟った戸塚は、さりげなく自分の腕時計に視線を落とした。
「ともあれ認識の改変、ご苦労様。助かったよ」
「こんなことは今回限りにしてほしいにゃあ。儂が歴史の改竄に乗り気じゃないのは、お主も知っとるじゃろ?」
「そうは言っても、今回は君に頼るほかなかったんだ。ごめんよ。ちなみに、どんな方法で改変を施したんだい?」
「そこは天使の『認識改変』を使わせてもらった。アレは便利じゃからのぉ」
「『認識改変』? いくら君でも、全世界に影響を及ぼすのは難しいんじゃ?」
「いやいや。当然、『種の根源』を通してじゃよ。外側では広大な範囲でも、内側なら庭みたいなものじゃからの。朝飯前じゃ」
「ふーん。やっぱり興味が尽きないね、『種の根源』は」
未知の世界に少年心をくすぐられたのか、戸塚は年甲斐もなく瞳を輝かせた。
そんな相方とは対照的に、猫又は気怠そうにタンスの上で伏せる。
「というか、『インフルエンザに罹ったら動物の特徴が現れる』なんてアホみたいな常識の改変は本当に必要じゃったか? 何百年か前にも同じようなことがあったんじゃろ? その時はどうしたんじゃ?」
「その時代は、まだメディアが発達してなかったからね。一部の地域で獣の耳の生えた人々が現れても世界中に知れ渡ることはなかったし、単なる物の怪に取り憑かれたものとして処理できたみたいだ。でも今はネットがあるだろ? たった一枚の写真が全世界に広まってしまう。そうなれば大騒ぎだ。真偽を確かめるために世界中が注目し、いずれは獣人の存在が白日の下に晒されるだろう」
「ふむ。なんか、嫌な時代になったのう」
「ホントにさ」
昔は良かった。とでも言いたげに、戸塚と猫又はしみじみと声を合わせた。
「いや、そもそもじゃ。そもそもの話、なんで人外を公にしてはいかんのじゃ?」
「簡単なことさ。人外は脅威なんだよ、人間にとってはね。個人間程度の交友ならまだしも、人間と人外が共存することは絶対にあり得ない」
「脅威? そうかのう」
「君が思っている以上に、人間の個体能力は貧弱なんだ。その上で生態系の頂点としての驕りもあるから、自分たちを脅かす存在は集団で排除しようとする」
「まるで見てきたような言い草じゃな。でも、それは人間の習性みたいなものじゃろ?」
「というより防衛本能かな。特に現代では人間の数が爆発的に増えてきてるし、さらに殺戮兵器も発達しすぎた。犠牲を厭わなければ、あの吸血鬼ですら歯が立たないほどだ。けど、それでは困るんだよ。もし絶滅なんてされたら、『種の根源』に至れる可能性が低くなってしまうからね」
「なるほど。だからお主は人外を保護するために、数百年も前に『調査員』なる組織を立ち上げたわけじゃな?」
「設立当初は違う名称だったけどね」
話を聞き終えた猫又は、大いに納得したと言わんばかりに何度も頷いた。
「そんなお主に悲報じゃ。改変できるのは知的生命体の記憶と認識だけで、写真や映像などの機械類はどうにもならんぞ。どうするつもりじゃ?」
「まず認識を元に戻すのはマストだ。この状態のままだと、インフルエンザに罹ってるのに獣化しないっていう逆転現象が起こってしまうからね。記憶媒体については……じゃあ、こうしよう。『認識阻害』を使って、メディアに映った獣の特徴を認識できなくする、とか。できるかい?」
「できなくもないが……また面倒な注文じゃのう」
「ごめんってば。これで最後だからさ」
不機嫌を露わにする猫又に、戸塚は低姿勢で頼み込む。
ふと何か思いついたように、猫又の尻尾が唐突に逆立った。
「今思ったんじゃがの、それでいいなら、最初から獣の特徴を認識できなくするだけでよかったんじゃないかや? わざわざ『インフルエンザに罹ると動物の特徴が現れる』なんて回りくどいことをせずとも」
「………………………………………………………………」
そう指摘するやいなや、戸塚が完全に動きを止めた。
こやつ、まさか何も考えていなかったんじゃ? と疑わしげに目を細める猫又に対し、戸塚は無言で視線を逸らす。背中に冷や汗でも浮かべているような顔だった。
「まったく、無駄な仕事をさせおって」
「悪かった。僕も焦ってたんだよ。まさか獣人が遺灰を撒くなんて暴挙に出るとは思わなかったからさ」
呆れ気味に嫌味を吐く猫又の圧に負け、戸塚は両手を上げて降参の意を示した。
「ちなみに奴の様子はどうなんじゃ? 『種の根源』に儂がいることに勘づいて、慌てふためいとらんか?」
「いや、肉体を得てくれたおかげで、他と同じように認識が改変されてるみたいだよ。守護霊の月島裕子と同様、現象の吸血鬼のままだったら、天使の『認識改変』も効果はなかった。だから時期的には助かったよ」
「そうかい」
興味がなさそうに鼻を鳴らした猫又は、天井に開いた穴へ向けてぴょんと跳躍した。そして天井裏へ身を滑らせると、顔だけを覗かせる。
「改めて釘を刺しておくが、協力したのは今回だけじゃからな。これ以上、儂に頼るなよ」
「分かってるよ。ありがとね」
「ふん」
労いの言葉を受け取ると、猫又はさっさと顔を引っ込める。耳を澄ませば、遠ざかっていく小さな足音が天井裏から聞こえた。
猫又の気配が完全になくなったところで、戸塚はふと疑問を抱いた。
「ところで、なんで猫の姿だったんだろう?」
廃墟に一人残された戸塚は、ただただ首を捻るばかりだった。




