第18章 炎の里 その3
群青を追うため颯爽と飛び出していった天崎だったが、途中で後悔することになった。天崎は獣王の墓の場所を知らない。里の奥ということだけは聞いていたものの、山は広く、また山林や夜闇が視界を遮っているため、広範囲に亘って走査する必要があった。
わずかに残った獣道を見極め、焦りながらも諦めずに走り回る。すると敏感になった嗅覚が匂いを捉え、獣並みの聴覚が人の足音を捕捉した。
その場所へと一直線に向かう。
山の斜面、枯葉を掃いただけのような獣道の途中で、墓石らしき大きな石が横倒しになっていた。その側で佇む群青が、ゆっくりと振り返る。
「追って来るかどうかは五分五分でしたが、こんなに早く追いつかれるのは予想外……」
余裕のある態度はしかし、天崎の姿を見た瞬間に一変した。
驚きのあまり目を剥いた後、訝しむように眉を顰める。そして絶句したまま表情をころころ変え、最終的には頬を引き攣らせながら、声を震わせて訊ねてきた。
「貴方……その姿は、まさか……」
「想像してる通りだよ。玉藻から九尾の力を借りてきた」
「なん……ですと……?」
九つの尾を持った天崎を一通り眺め終えると、群青の顔が絶望の表情へと変わった。その顔はまさに、信じていた神に裏切られた信徒のそれだ。心の拠り所がなくなり、不安定になった足元が今にも崩れ落ちそうになる。
しかし群青は、ぽっかりと空いてしまった失望感を怒りで埋めたようだ。
「ふざけるな! それは貴方のような人間が持っていていい力ではない!」
「そうかもな。でも、これは玉藻にだって必要ないモノだろ」
「それは仕方のなかったこと。九尾の力を後世へ残すためには、誰かが犠牲にならなければならなかった。いえ、犠牲というのも烏滸がましい。玉藻は神の力を宿すに相応しいと選ばれた獣人なのです」
「なんだ、理解してんじゃねえか。生贄に選ばれたんだってな」
陳腐な煽りも、今の群青には効果的のようだ。歯を食いしばりながら、怨嗟のこもった低い声で天崎に問う。
「その力、返すつもりはないんですか?」
「ないね。少なくとも、玉藻に戻すことは絶対にあり得ない」
「そうですか。本来なら貴方を殺すつもりはなかったのですが……仕方がありません。返さないと言うのであれば、殺してでも奪い返すまでです」
言うやいなや、群青は麻袋の遺灰を地面に撒いた。
先ほどと同じく、遺灰はすぐに五体の獣へ姿を変える。襲えという合図もなく、四肢が形成さるのと同時に一斉に飛び掛かってきた。
だが今の天崎には避ける必要もない。腕を振り払うだけで、黒い獣たちは一瞬にして浄化されていく。
たった一匹に苦戦していた数分前とは異なり、圧倒的な力の差を見せつける。これなら何体来ようが関係ないと、天崎は自信たっぷりの笑みで群青を見据えたのだが……彼は慌てるどころか、驚いた様子もなかった。
どうやら今のはただの時間稼ぎだったようだ。結果を見届ける前に、群青は天崎に背を向けて走り出す。
そして墓石の後ろまで移動すると、彼は天崎の方に片手を向けて叫んだ。
「獣王よ、甦れ。その遺灰を以て、仇敵を滅せよ!」
途端、地面に空いた穴から黒い瘴気が這い出てきた。群青が麻袋から撒いた物とは比べ物にならない密度と質量。それがまるで小さな羽虫の大群のように、山林に阻まれた夜空へと昇っていく。
呆気に取られながら見上げていた天崎だったが、徐々に変形していくその黒い瘴気の形には見覚えがあった。
獣の前脚だ。犬とも猫とも区別のつかない前脚が、頭上を覆う。
そして数秒後には、想像していた通りの未来がやってきた。巨大な前脚の肉球に相当する部分が、天崎を圧し潰したのだ。
「ぐっ……」
頭上で両腕を交差させて受け止めたため、圧殺は免れた。
だが衝撃により、足元に底の浅いクレーターができる。おそらく生身のまま受け止めていたら、原形すら留めていなかったであろう威力。たかが遺灰の集合体のはずなのに、その前脚は鉄以上の密度があった。
そのままぺちゃんこにする勢いで、獣の前脚はさらに力を籠める。しかし天崎も負けてはいない。受けていた前脚を横へ弾くのと同時に、自らも逆側へと跳び退いた。
勢い余った前脚は、轟音を立てて大きな足跡を残す。
その隙に、天崎は前方へと視線を向けた。
群青は遺灰を身に纏いながら宙に浮いていた。そこで天崎は気づく。大量の遺灰が巨大な獣の上半身を形作り、群青はその脳に相当する部分に入っているのだ。
「後悔しても、もう遅いですよ」
そう宣言すると、もう一本の前脚が天崎の横から襲ってきた。
音も気配もなく、また特急列車にも匹敵するスピードだったため、避ける選択肢を奪われてしまう。
咄嗟に腕を使ってガードする天崎。数十センチの足跡を作ったが、なんとか吹っ飛ばされずに耐え凌いだ。
だが追撃は即座にやってくる。反対側から、逆の脚が同じように迫ってきていた。
まるで両手で叩き潰される蚊になった気分の天崎は、瞬時の判断で真上へ跳んだ。二階建ての民家なら軽々しく飛び越えられそうな跳躍をしたところで、巨大な前脚同士が衝突する。その衝撃により、周囲の山林が突風でも受けたかのように揺れた。
あんな重い一撃、何度も耐えられるものじゃない。
背筋をゾッと震わせたのも束の間、空中に逃げたのは悪手であることに気づいた。
目の前に、口を大きく開けた化け物の顔が。
「くそっ!」
悪態をつくも、天崎は為す術なく呑み込まれてしまった。
しかし、それ自体は焦るほどの攻撃でもなかった。自然落下に身を任せ、巨大な獣の下顎を突き破って口内から脱出する。ただ厄介なのは、実物の獣なら致命傷にも値する負傷でも、流動体である遺灰では、すぐに傷口が塞がってしまうことだ。
地面へ落下する間、天崎は考える。
獣王の遺灰と九尾の力は相反するモノ。ぶつかり合うごとに、お互いが相殺されていく。実際に天崎も、先ほどから徐々に九尾の力が減っていることに気づいていた。
当然、向こうも同じくらい浄化されていることだろう。だが、いったい遺灰はどれくらいの総量があるのだ? いくら何でも無限ではないはずだが……。
天崎の勝利条件は、群青を無力化させること。しかし肝心の群青は、遺灰を纏って手が出せない状態。彼と接触するためには、ほとんどの遺灰を浄化させなければならないだろう。それまでに九尾の力は足りるだろうか?
二つの前脚を警戒しながら、天崎は地面に着地する。
その瞬間、ふくらはぎに激痛が走った。
「痛って!」
見れば、小さな黒い獣が噛みついていた。振り解き、すぐに浄化させる。
そうだ。敵は巨大な一体だけではない。体積が減ることを厭わなければ、分離体をけしかけることも可能なのだ。
小さい奴に注意を奪われていると、群青が間髪入れずに追い打ちをかけてきた。両方の前脚で、躍起になって天崎を踏み潰そうとする。まるでモグラ叩きだ。
一撃一撃が災害のような威力を持つものの、動作が遅いせいで避けることは容易。両前脚の動きを見極め、巨大な獣の懐へと潜り込む。
だが胴体から小さな獣が何体も生み出されるため、それらの対処に手間取っているうちに、再び前脚に攻撃されてしまう。その繰り返しだった。
マズい、このままではジリ貧だ。
そうこうしている間にも、徐々に息が上がってきた。やはり九尾の力を手に入れたばかりなので、いまいち使い方が分からない。無限に湧いてくる雑魚一体一体を浄化させるのにも、常に全力を出してしまう。
このまま力の削り合いになれば、容量の差で負けてしまうだろう。
いったい、どうすれば……。
天崎に焦りが見え始めた、その時だった。
『力の使い方を教えてやろうか?』
自分の体内から、何かが語りかけてきた。
声ではない。また、はっきりとそう聞こえたわけでもない。ただ明らかに自分のものではない意識が、喉の奥底から浸透してくる。
天崎はこの感覚を知っていた。この感覚は……。
動きを止めた天崎の元へ、群青の無慈悲な一撃が迫る。最初に天崎を踏み潰した時と同様、前脚を高々と掲げ、最大限の加速度をもって蹂躙する。
天崎は動かない。避ける素振りも見せない。防ぐタイミングも失った。
確実に潰せる。諦めたように俯く天崎を見下ろしながら、群青はそう確信したのだが……、
「なっ――!?」
一瞬の出来事に、群青は絶句した。
何か特殊なエネルギーにより、前脚が弾き飛ばされたのだ。否、先ほどのように真横へ受け流されたわけではない。勢い余って地面を踏むこともなく、前脚が急激に軽くなる。
確認のために遺灰の獣と神経を同期させたところで、群青はさらに驚愕した。前脚は先端から大きく消失してしまっていたのだ。
「いったい、何が……」
唖然とした群青は、本来前脚が踏むはずだった場所を見て言葉を失った。
そこに居たのは、九つの尾から青い炎を放っている天崎だった。
たった今まで乱していた息は静かに整えられ、鋭い目つきで遺灰の獣を睨み上げる。尻尾以外は特に外見的な変化はないはずだが、群青の感情を逆撫でさせるには十分だったようだ。
冷静さを失った群青が、即座に逆の脚で追撃する。
「貴方のような人間がっ――!!」
憎悪さえも孕んだ渾身の一撃だが、呆気なく不発に終わってしまった。
天崎の身体に触れる寸前、前脚が一瞬にして浄化されたのだ。まるで視えないバリアが周りを覆い、獣王の遺灰を拒絶するかのように。いや、群青にはわずかに視えていた。青い炎を放つ九つの尾が、目にも止まらぬ速さで防御している瞬間を。
あまりにも神々しい姿に、群青は今の状況も忘れて見惚れてしまう。
しかし、その感情が浮かんだのも刹那の出来事。すぐに我に返った群青は、両方の前脚を修復させるやいなや、再び目の前の怨敵を強襲する……はずだったのだが、それが叶うことはなかった。
天崎が跳ぶ。まるで瞬間移動でもしたかのように、瞬く間に遺灰の獣の頭上まで。そして群青が収まる脳天を目がけて、拳を振り下ろした。
頭部をごっそりと抉られる遺灰の獣。同時に、遺灰に護られていた群青の姿が露わになる。修復させる暇を与えるつもりのない天崎は、群青の胸ぐらを掴んで強引に遺灰の外へと引っ張り出した。
そのまま群青を地面に向けて放り投げ、自らは抜け殻となった獣王の遺灰と対面する。
天崎が口から青い炎を吐き出した。引火した場所から遺灰が浄化されていき、やがて炎は巨大な獣を丸々包み込む。
その結末を見届けることなく、天崎は地面へ叩きつけられた群青の側に降り立った。仰向けのまま苦痛の表情を浮かべている群青の顔の上で、大きく拳を振り上げる。
「死ね」
煩わしい羽虫でも叩き潰すかのように、感情のない鉄槌が落ちる。
――その直前だった。
何を思ったのか、天崎が急に自分の腕に噛みついたのだ。
そして肉を噛み千切る勢いで歯を食いしばるのと同時に、野生動物の断末魔じみた雄叫びを上げた。
「ぐがああああああああああああ!!!」
山の向こう側にも轟きそうな咆哮の後、天崎は唐突に喉を引き攣らせた。
腕から吸い上げた己の血を地面へ吐き出すと、緊張の糸が切れたように尻もちをつく。その顔に今までの凛々しさは欠片も残っていない。まるで全力でフルマラソンを完走した直後のように、天崎は肩で息をしていた。
その一部始終を、群青は驚きの眼で見つめていた。
「あ、貴方は何をしているのですか!」
「……悪い、……暴走した」
「暴走?」
「俺が九尾の力の使い方を理解してないから、痺れを切らした山の神が無理やり出てきたんだよ。んで、一時的に身体が乗っ取られた」
思い出すのは元旦の出来事。ヨミの策略により、天崎の血統が暴走した。
その経験のおかげで、事前に心構えができていたのだ。強大な力を手に入れた後は、また自分で制御ができなくなるんじゃないか、と。
結果、群青を殺さずに済んだことで、天崎はホッと胸を撫で下ろした。
「山の神……」
神妙な面持ちで呟いた群青が、起き上がろうと身じろぎする。しかし思ったよりも強く背中を打ち付けたのか、苦悶の表情を浮かべた後、再び仰向けに寝転んでしまった。
その様子を確認してから、天崎は周りを見回した。
「どうやら獣王の遺灰はほとんど浄化されたみたいだな」
「……そのようですね」
目を閉じて応える群青に、天崎は違和感を抱く。
何故か清々しい顔をしていたからだ。
「あんた、何でそんなにやり切った感を出してるんだ?」
「いえ。貴方の中に山の神が居るのなら、九尾の力の在り処として、これほど相応しい場所はないかと思いまして」
「…………」
大きく息を吐いて力を抜く群青から、天崎は目を逸らした。
たぶん獣人の巫女に九尾の力を与えた山の神と、天崎の遺伝子にある山の神は別物だ。たまたま関わった神の遺伝子が自分の中に存在するなど、そんな偶然ありはしない。おそらく似たような力を持ったどこかの山の神が、出しゃばっただけなんだと思う。
だから在り処として相応しいかどうかは判断しかねたのだが……そこは黙っておいた。
「じゃあ、もう変なことは考えたりしないんだな?」
「わたくしは自分の考え方を変だと思ったことはありませんし、今さら考えを改めるつもりもありません。里を焼いたことは少し強引だったと反省はしますが、まったく後悔はしておりませんね。ですが……九尾の力を玉藻に戻すのは諦めます」
「あんたな……」
ようやく息の整ってきた天崎は、盛大にため息を吐いた。
そこで、ふと気になることができた。
「そういえば、なんであんたはそこまで里の伝統に拘ってるんだ? そりゃ譲れない部分もあるだろうけど、人間との共存も悪いことばかりじゃないと思うぞ」
「それは先ほども話した通り、獣人は獣人らしく生きていくべきだと、わたくしは考えているからです。圧倒的に便利な人間の技術を受け入れ続けては、その伝統も将来的に失われてしまう可能性が出てきますので」
「いや、そうじゃなくてさ。そう考えるようになった理由だよ。なんか理由があって、伝統を守らなきゃいけないって思うようになったんだろ? 人間を毛嫌いしてるとかだったら分かるんだけど、あんた、別に人間は嫌いじゃないとか言ってたしな」
「それは……」
ここまで流暢に話していた群青が、言葉を詰まらせた。
それは当然の疑問だった。伝統を大切にするのは立派なことだし、それを守ろうとする考え方も共感できる。しかし群青だけなのだ。群青だけが、人間との交流を断つという極端な思想を抱いたのだ。
獣人が迫害され虐げられてきた歴史などがあれば、それも理解できるのだが……群青がその考えに至る経緯が、天崎にはまったく見えてこなかった。
少しの間の後、群青はふと思い出したように答えた。
「……幼い頃、一時期わたくしは同じ夢を繰り返し見ていました」
「夢?」
「何か大きな存在が夢に出てきて、わたくしに言うのです。人間と共存してはいけない。人間の力を借りてはいけない、と。まるで暗示をかけられるように、毎日毎日耳元で囁かれるような夢を見ていました」
「それって……もしかして獣王だったんじゃ?」
「そうかもしれませんね。記憶は曖昧ですが、確か獣王の封印が解かれた騒動よりも前の出来事だったと思います」
ならば疑う余地はない。方法までは分からないが、自らの復活を予期した獣王は、忠実な部下を作り上げるために群青の夢に出てきて洗脳したのだ。
そして結果的に、獣王の悲願は違う形で叶った。
獣王の遺灰を吸って正気を失った獣人たちの司令塔として、群青は活躍した。つまり群青は幼い頃から獣王の傀儡だった、と言っても過言ではない。
だが、それを面と向かって伝えるのは憚られた。
お前の思想は赤の他人から無理やり根付けられたものだ。などと言ったところで、何も解決にはならないだろうから。
「それで、天崎さんはわたくしを殺さないのですか?」
まるで世間話でもするかのように、群青が不意に訊ねてくる。
さすがに意図を図りきれず、天崎は訝しげに眉を寄せた。
「何を言ってんだ? 殺さねえよ」
「わたくしは貴方を殺そうとしていたのですよ?」
「俺は別にあんたを憎んでるわけじゃないからな。それに、むらさきと約束したんだ。群青さんも助けるって」
「まったく貴方という人は……ほんの数日前に出会った子供のために命を張るなど、とんだお人よしですね」
「よく言われるよ」
そう言って、天崎は肩を竦めたのだった。




