第17章 炎の里 その2
玉藻が投げ飛ばされた方角を唖然としたまま眺めていた群青は、里の入り口へ走って行く里長の背中に視線を移した。特に呼び止めることもせず里長を見送ると、彼は苦笑いを浮かべて天崎へと訊ねてくる。
「九尾状態の玉藻を投げ飛ばすとは……彼女はいったい何者ですか?」
「吸血鬼だよ」
「吸血鬼? 文献で見たことがあります。なんでも、人間の血を吸う西洋の怪物だとか」
「…………」
言いたいことはあったが、今は群青に教授するつもりはなかった。
正気を失った獣人たちや九尾化した玉藻のように、まだ何か隠し玉があるかもしれない。それを出される前に、天崎は早々に話題を切り替える。
「群青さんに一つ訊きたい。あんたはなんで正気なんだ?」
「正気、とは?」
「そこで倒れてる人たちみたいに、他の獣人は獣王の遺灰に操られてるんだろ? 声を掛けても言葉が通じなかった。なのに、なんであんたは普通に会話できてるんだ?」
「それを言ったら、里長も正気を保っているではありませんか」
「それは単純に吸い込んだ遺灰の量が少なかっただけだろ。ずっと里にいた里長や、過激派と接触がなくて、すぐに里へ戻ってきたむらさきには効果が薄かった」
誠三の言葉を思い出す。獣王の靄を大量に吸い込んだ者は操られ、そうでない者は力を合わせて戦った、と。
「けど、あんたは違う。正気を失った人たちに指示を出してたし、しかも玉藻には数倍の量の遺灰を吸わせてあるとか言ってたよな? 渦中にいたあんたが、意識を保てる程度の量しか吸っていないとは思えない」
「くくく」
何が可笑しいのか、群青は喉を鳴らすように笑い出した。
「まあ、いいでしょう。教えて差し上げます。わたくしは獣王の意思を……思想を受け入れたのですよ」
「獣王の思想を受け入れた?」
「獣王には、獣人を強制的に従わせる能力がありました。生前ほどの効力はないにしろ、遺灰になった今でも、その能力は残っていたのです。わたくしも不用意に吸い込んでしまい、意識を奪われることを覚悟しましたが、それと同時に知りました。なにも全員が全員、獣王の操り人形になるわけではないのだ、と」
そこまで聞いて、天崎はピンとくる。
「つまり遺灰に宿っていた獣王の思想に賛同した者は意識を奪われない、ってことなのか?」
「その通りです。賢いですね、天崎さんは」
群青が褒め称えるも、天崎は素直にそれを受け取る気にはなれなかった。
簡単にまとめると、獣王の思想に背いた者は意識を奪われ、天崎誠三に復讐するだけの単純な行動を強いられるようになる。逆に受け入れた群青は正気を保ち、他の獣人を指示する立場になった、ということなのだろう。
当然のことながら、疑問が残る。
誠三から『自ら進んで獣王の麾下に入った者もいた』という話は出てこなかったし、今のところ過激派は全員が意識を支配されていたように思える。
そう、群青だけが獣王の思想に賛同しているという証明に他ならないのだ。
「あんただけが賛同してるって、獣王はどんな思想を持ってたんだ? 俺の親父……天崎誠三に復讐することなんじゃないのか?」
「それは単なる恨みの感情です。思想とは生活や社会に対する考え方そのもの。わたくしが里に火を点けた理由も、その一つです」
「なんだと?」
天崎が首を傾げると、群青は燃え盛る里長の屋敷を正面にして、大きく両腕を広げた。炎に照らされた彼の顔は、自分の考えをまったく疑っていないくらい自信に満ち溢れていた。
「その昔、獣王は悪政を敷いていたため民に反旗を翻されました。最終的に九尾の巫女に敗れて封印されることになりましたが……しかし文献を読む限り、わたくしには獣王の政治が悪いものだとは、どうしても思えなかったのです」
「んなわけないだろ。だったら反乱なんて起きやしない」
「そうですね。だからこそ、九尾側の思想が現代まで受け継がれてきたのでしょう」
「?」
少し話が端折られたのか、天崎には繋がりが見えてこなかった。
理解できていないことが顔に出ていたのだろう。群青はさらに説明を続ける。
「獣人は獣人の力だけで生きていくべき。というのが獣王の思想だったのに対し、九尾側は人間と共存の道を歩もうとしていたのです」
それだけ聞くと、確かに今の獣人たちは九尾側の生き方だった。
むらさきや玉藻も言っていたように、大人になった獣人は人間社会に出て行く。さらに里の中を見渡しても、人間の田舎とまったく遜色のない生活をしており、それに対して誰も疑問を抱いていないようだった。
群青を除いては。
「つまり、あんた以外は誰一人として、獣人たちの力だけで生きていこうと思ってる奴はいなかったってわけか」
「残念ながら、そういうことになります」
他の獣人の考え方が理解できないと言わんばかりに、群青は肩を落とした。
むらさきは群青のことを伝統を重んじる人と言っていたが、ここまで片寄った思想の持ち主だったとは……。
そこで天崎は、ふと気づいた。どうして群青が里に火を点けたのかを。
「まさかあんた……人間社会から入ってきた技術が気に入らないから、全部燃やして失くそうと考えたのか?」
心のどこかで否定してほしいと願いつつも、天崎は喉の奥から絞り出すような声で訊ねた。
しかし不敵な笑みを浮かべた群青の口から出たのは、予想通りかつ期待を裏切った回答だった。
「いかにも。今の獣人たちは人間の文化を取り入れすぎました。こうなったからには、もう後戻りはできない。なのでわたくしは一度すべてを焼き、リセットした方が手っ取り早いと判断したのです」
おぞましい考え方に、天崎は背筋を凍らせた。
確かに里長の屋敷を見た限りでは、ほとんど人間の家と変わりがなかった。それこそ獣人独自の文化を探す方が難しいくらいに。
しかし獣王の思想を受け入れているのは、今のところ群青ただ一人だけなのだ。たった一人の考え方のために、里の全員を道連れにするなんて……遺灰を吸って獣王の思想が介入したとはいえ、天崎には到底理解のできない行為だった。
「あんた、なんでそんなに人間が嫌いなんだ?」
「勘違いしないでいただきたい。わたくしは別に人間が嫌いではない。もちろん好きでもありませんが。貴方も人間に生まれたからには、人間らしく生きたいでしょう? わたくしも同じです。人間には人間の、獣人には獣人らしい生き方がある。このまま人間の技術が浸透してしまっては、せっかく今まで育んできた獣人の文化が失われてしまいます。伝統を残すために、これ以上の交流は断つべきなんです」
「それからはどうする? 今の獣人は人間ありきの生活を送ってるんだろ? いきなり交流を断ったら、野垂れ死ぬだけだぞ」
「生活レベルが多少落ちるのは否めません。しかし日用品等は、日本各地に点在している獣人の里や村に頭を下げて譲ってもらえればいいのです。わたくしが着ているこの袴も、獣人独自の技術で作られたんですよ。素晴らしいとは思いませんか?」
演説を終えた群青は、晴れ着を見せびらかすように両手を広げた。
ダメだ。群青の考え方は完全に己の中で完結してしまっている。自分が説得するのは無理そうだと、天崎は心の中で里長やむらさきに謝った。
天崎の内心を知ってか知らずか、群青は得意げな笑みを向ける。
「ご理解いただけたでしょうか?」
「あぁ、分かったよ。あんたがどうしようもなく我が儘なガキだってのはな」
「…………」
一瞬で笑みを消した群青は、敵意を露わにした目つきで天崎を睨みつけた。
ただ仕事柄、子供の戯言をあしらうのは慣れているのだろう。特に憤ることはせず、半ば呆れ気味に嘆息するだけだった。
「まあいいでしょう。これは獣人の問題。部外者には理解できないことでしょうし、どうこう言われる筋合いもありません。ですが邪魔をすると言うのなら、少々痛い目に遭ってもらいますよ」
そう言って、群青は懐から麻袋を取り出した。
袋の口に手を突っ込み、まるで鯉に餌でもやるかのように、黒い粉末状の何かを自分の前へと撒く。
すると突然、地面に落ちた粉末が蠢き始めた。風に運ばれるにしては不自然に、しかし明らかに意思や目的を持っているかのように、一粒一粒が混じり合っていく。ただ摩訶不思議なその現象も、天崎にとっては体験したばかりの光景だった。
数秒後、群青の足元に悪夢が完成する。
先ほどの公園にて、獣人の口から出てきた黒い獣が毛を逆立てながら天崎を威嚇していた。しかもそれが五体だ。
「その獣は……」
「これは遺灰から作られた獣王の分離体です。小さな獣王そのものだと思ってくれて構いません。とはいえ残滓から作り上げられた人形のようなものなので、理性は皆無なんですがね。もっとも、それだけ狂暴ということなので、ご注意を」
「獣王そのもの、だと?」
どうりで誠三が知らないわけだ。黒い瘴気の獣は獣王の能力などではなく、遺灰から作られた人形だったのだから。
しかし副産物程度だと考えていた黒い獣が、むしろメインだったとは……。
いや、今はそんなことはどうでもいい。
少々痛い目に遭ってもらう? 狂暴だからご注意を、だと? 冗談じゃない。普通に死ぬレベルの猛獣を五体も作っておいて言っていい言い草ではない。やはり群青も、少しは獣王の復讐心に汚染されているのだろう。
案の定、復讐心の塊と言ってもいい黒い獣は、群青の合図を待たずに飛び掛かってきた。
「くそっ!」
初動を見極めた天崎は、大きく真横へ跳んだ。受け身のため前転し、体勢を整えながら振り返る。だが天崎の回避行動はそこで終わりだった。
黒い獣たちが、すぐ目前まで迫っていたのだ。
ダメだ、速すぎる。逃げられる速度じゃない。
少しでも急所を避けられるよう、天崎は身体の正面で両腕を交差させる。だが黒い獣と接触する直前で、防御の姿勢は無意識のうちに拳へと変わった。
天崎は本能的に理解していたのだ。リベリアに傷を舐められたことにより、ほんの少しだけ吸血鬼化しており、今の自分なら黒い獣に対抗できる力があることを。
反射的に繰り出した拳は、見事一体の顔面を捕らえた。リベリアが踏み潰した時と同じように、黒い獣は瘴気となって霧散していく。
残り四体も迎え撃ちたかったが、さすがに間に合わなかった。天崎の皮膚にかすり傷を負わし、背後へと着地する。
ただ追撃はなかった。無音で喉を鳴らしながら、牙を剥いて威嚇するのみ。おそらく仲間がやられたのを見て、警戒しているのだろう。遺灰から作られた人形とはいえ、まるで本物の獣のようだった。
「ほう、今のスピードを対処しますか」
一連の攻防を見ていた群青が、驚きの声を上げた。
そして踵を返す。
「どこへ行く!」
「なに。貴方や吸血鬼のような邪魔者は想定外でしたので、獣王の遺灰を補充しに行くだけですよ。遺灰も消耗品なのでね」
「補充だと?」
「過激派やわたくしが持ち出した遺灰は全部ではないのです。まだ墓には十分に残っているのですよ」
そう言い残し、群青は迷いのない足取りで山の奥の方へと歩いていく。
「待て!」
追いかけようとするも、残存している黒い獣がそれを許さなかった。
天崎が背中を向けるのと同時に、背後から黒い獣が襲い掛かってくる。その気配を察知し、避けることは簡単だ。だが無傷で対応するためには、どうしても足を止めなければならない。そうしている間にも、群青の姿は暗闇の中へと紛れてしまった。
「邪魔すんじゃねえよ!」
咄嗟に出た拳が獣の胴体を貫いた。そいつも例外なく闇の瘴気と化して霧散する。
避けて、殴って消す。その繰り返しだ。
だが三度ほど同じ行動をしたところで、さすがの天崎も気づいた。
黒い獣の数が……増えている。
「――ッ!? そういうことか!」
獣の形を失った遺灰は、十数秒で元の姿に戻ってしまうのだ。加えて気絶している獣人たちの口から新たに瘴気が出てきて、さらに暗闇の向こうからも何体か駆け寄ってくる。おそらく群青が歩きながら遺灰を撒いているのだろう。
気づけば無数の獣に囲まれていた。
まずは自分の身の安全を優先した天崎は、群青を追う足を一旦止めて、周りの獣の対処に集中する。背後から飛び掛かってくる奴は感覚で避け、正面の攻撃は拳で応戦。細かい切り傷は徐々に増えていくものの、深手になりそうな一撃は何とか躱して耐え凌ぐ。
しかし、それも長くは続かなかった。
数の暴力により、ついに天崎が押され始めたのだ。無限に再生する化け物が、己の負傷も厭わず物量に任せて潮の如く押し寄せる。
このままでは……マズい。
斬撃一本だった獣たちは、天崎を内部から攻略する戦法へ切り替えた。すなわち穴という穴から体内に侵入し、獣王の意思によって意識を奪おうとしているのだ。
それに気づいた天崎は口や鼻を塞ぎながら、足元から這い上がってくる獣を蹴散らす。だがもう遅い。増えに増え続けた遺灰の獣が天崎の身体を乗っ取るのは、時間の問題だった。
「くそっ……うっ!」
悪態をつくために開いたわずかな口の隙間から、大量の遺灰が流れ込んできた。このままでは呼吸もままならない。窒息するか獣王の遺灰に意識を奪われるか、選択肢は二つに一つ。
絶望的な状況に追い込まれながらも、天崎は黒い獣たちに抗い続ける。
そして息が詰まり始め、天崎の意思とは関係なく肺の中の空気が絞り出されそうになった――まさにその時だ。
天崎の周りで、突如として旋風が起こった。
風に呑まれた黒い獣は一瞬にして吹き飛ばされ、塵となって消滅する。
突然の出来事に驚くも、体勢を立て直すのが先だ。その場に両膝をついた天崎は、慌てて呼吸を整える。そして旋風の発生源を確認するため、顔を上げたのだが――、
「た、玉藻!?」
「おう。大丈夫か?」
驚きの声を上げた天崎は、必死に周囲を見回した。
ここに玉藻が居るということは……。
「リベリアは!?」
「ぶっ殺した」
「なっ――」
「嘘だよ。あのままだとオレの方が殺されそうだったから、両腕両脚の骨を折って逃げてきたんだ。ったく、なんなんだあの化け物は! 九尾状態のオレと互角以上に張り合うなんざ普通じゃねえ!」
確かに玉藻は満身創痍だった。
腕や顔には生々しい青痣ができており、九本あった尻尾は二本まで減っていた。おそらく残った力を振り絞ってリベリアから逃げてきたのだろう。その証拠に、玉藻は立っているのがやっとという感じで息も絶え絶えだった。
そこで、ふと気づいた。玉藻と普通に会話ができている。
「玉藻、正気に戻ったんだな」
「ああ、あの女のおかげだ。全力で戦わざるを得ない状況のせいで、九尾の力をフルで稼働できてな。思ったよりも早く体内の遺灰を浄化できたってわけだ」
一息ついた玉藻は、天崎の周囲に視線を移した。
「んで、今の黒い化け物どもは何だったんだ?」
「俺も詳しくは知らないけど、どうやら獣王そのものらしい。群青さんが遺灰を撒いたら、獣の形になって襲ってきやがったんだ」
そういえば玉藻が蹴散らした瘴気が再び獣の形に戻る様子はない。彼女も言った通り、獣王と対になる九尾の力で攻撃したため、完全に浄化されてしまったのだろう。
「その群青はどこへ行った?」
「獣王の墓だ。遺灰の補充をするつもりらしい」
「なら早く追わねえとな」
「待て」
ただちに向かおうとする玉藻を、天崎は静かに呼び止める。
一応は立ち止まってくれたものの、振り返った彼女の顔は怪訝に満ちていた。
「なんだよ」
「玉藻。お前、死にに行くつもりじゃねえだろうな?」
「…………」
天崎の真意を見極めるように目を細める玉藻。
少しだけ間を置いた後、彼女は血の混じった唾液とともに疑問を吐き捨てた。
「どうしてそう思う?」
「そんなボロボロの身体で何ができるんだ? 群青さんは五尾までなら抑えられるって言ってたし、今は獣王の遺灰を使いこなしてる。返り討ちに遭うのは明らかだろ」
「群青はオレを神と崇めてるんだ。捕まりはするかもしれねえが、殺されやしねえよ」
……本当にそうだろうか?
群青が崇めているのは玉藻ではなく、玉藻が持つ神の力だ。場合によっては、彼女を殺して他の誰かに力を移すとかやりかねない。
それに獣王は昔、九尾の狐に封印された身。滅ぼした天崎誠三と同様、計り知れないほどの恨みを抱いているに違いない。さっきまでは正気を保っていた群青も、いつ獣王の遺灰によって意思を侵されるか分からないのだ。
何とも言えない天崎の表情から内心を察したのか、玉藻が鼻で笑った。
「心配してくれんのはありがたいけど、九尾は獣王を倒すためだけに存在してんだ。つまり無駄だと思ってたこの力が、ようやく役立てるんだよ。この機を逃すわけにはいかねえ」
無意味だった自分の人生がやっと報われる。天崎にはそう聞こえた。
だが、それで納得できるわけがない。
「いいや、ダメだ。玉藻を助けるって、むらさきと約束したからな」
「無理だな。いくらむらさきの頼みでも、どうにもならないこともある」
真正面から睨み合う二人。
先に根負けしたのは玉藻だった。肩を落として、本音を吐く。
「オレは生まれてからずっと里に縛られて生きてきた。おそらく死ぬまでそうなんだろう。だから、もうこんなつまらねえ命は必要ない。むらさきが暮らせる場所を守れて死ねるんなら、オレはそれでいい」
「ふざけるな! それでむらさきが喜ぶと思うのか!?」
「じゃあ、どうしろつーんだよ! お前が群青を止めるのか!? たかが遺灰の人形でひーこら言ってた、お前がか!?」
「……あぁ。俺がやる」
静かに頷いた天崎が、近くに落ちていた草刈り鎌を拾い上げた。
その刃を自らの手の平に当てると、勢い良く切り裂く。
「なっ……何やってんだ!?」
「背負った物が重いっつーんなら、俺が変わりに引き受けてやるって言ってんだよ!」
高らかに宣言した天崎は、大量に出血した手で玉藻の腕を強引に掴んだ。その際、リベリアとの戦闘でできたであろう傷口を意図的に狙う。血肉の露わになったお互いの傷が、まるで接吻でもするかのように触れ合った。
「何をする!」
「先代玉藻とお前は血縁関係じゃなかったんだろ? だったら俺に九尾の力を移すこともできるはず!」
「バカを言え! 力の継承は獣人にしかできない!」
「俺は獣人の血も流れてる『完全なる雑種』だ!」
指の跡が残るほど力強く握りしめた――その瞬間だった。
傷口を通して、玉藻から何か温かいモノが流れ込んできた。具体的な正体までは分からないものの、おそらくコレが九尾の力なのだろう。ただ一つ言えるのは、ソレは気を抜くと意識が飛んでしまいそうなほど強烈なエネルギーを持っているということだ。
「ぐっ……」
流れ込むエネルギーが一定量を越えた瞬間、猛烈な気怠さが天崎を襲った。
それはパンパンに膨れ上がった風船に、さらに空気を入れるようなもの。腹一杯に食事をした後、さらにデザートを食べるようなもの。無理をすれば破裂し、逆流してしまう。
しかし天崎は玉藻の腕を放さなかった。
まだだ。まだ足りない。まだ全部ではない!
力みすぎたせいか、赤く染まった顔から鼻血が垂れる。この身が砕けようとも、九尾の力をすべて移動させるまでは決して諦めないと誓った天崎だったが……残念ながら、身体の方が持たなかったようだ。
限界を超える寸前、手の平に高圧電流を流したような痛みが走った。
「くそっ……」
腕を弾かれた天崎は、その場で片膝をついた。額に大量の汗を浮かべ、呼吸を荒げながら、激痛のせいで感覚のなくなった手の平を凝視する。まるで内側から破裂したように、皮膚が捲れていた。
「全部は……無理だったな……」
怪我よりも、九尾の力をすべて受け取れなかったことに悪態をついた。
対する玉藻は、信じられないと言った眼差しで、唖然としたまま天崎を見つめるばかり。無理やり力を奪われたせいか、尻尾は元の一本に戻っていた。
「お、お前……」
何か言おうとするものの、どんな言葉を吐けばいいのか戸惑っている様子。
その間にも、天崎は周囲の暗がりへと呼びかけた。
「リベリア! いるか!?」
「はーい、今そっちへ向かっていますぅ」
「怪我の具合はどうだ!?」
「両腕両脚が骨折してて、全治三十分くらいでーす」
哀しげな声で受け答えをしながら、ゆっくりとした低空飛行でリベリアが現れた。
「けっこう派手にやられたみたいだな」
「うぅ、面目ないです。なんでか、いつもより力が出なくて……」
それを聞いて、天崎は理解した。
獣王の遺灰は獣人を強化し、それ以外の種族を弱体化させるもの。ベースが人間の『完全なる雑種』である天崎は、獣人の力を得ればそれだけ身体能力が増すが、すでに最強に近い吸血鬼が獣人の力を借りたところで、足を引っ張るだけなのだろう。
「にしても天崎さん、ずいぶんと様変わりしましたね」
「ん、そうか?」
今一度自分の姿を見回してみて、天崎はようやく気づいた。
頭の上に獣の耳……は最初からだが、心なしか体毛が濃くなったような気がする。
その中で何より顕著に変わったのは、背後で壁のように聳え立つ九つの尾だろう。尻尾が生えたことでズボンが破れていないか慌てて確認してみたが、どうやら大丈夫のようだ。腰の辺りから生える九つの尾は、まるで炎のように根元が接触していないのである。
獣人の血統を覚醒させた時とはまた一味違う変化に、天崎自身も驚きを隠せなかった。
「あぁ。ちょっと玉藻から九尾の力を借りてな」
「はえー、そんなことができるんですか」
「たまたまだよ」
実際、賭けのようなものだった。
九尾の力を取り込むこと自体は可能だと確信していた。けど、まさか傷口を合わせただけでここまで上手くいくとは……。
あれだけ豪語した手前、もし失敗したら一生ものの恥だったなと、天崎は今さらながらに羞恥心を抱いたのだった。
「リベリア。悪いけど、玉藻とここらに転がってる獣人たちを里の外まで避難させてやってくれないか?」
「えー……私、怪我人なんですけど」
「頼むよ。お前しか頼れる奴がいないんだ」
「……分かりましたよ」
不貞腐れてはいたものの、リベリアの頭の耳は忙しなく動いていた。
天崎が今から何をしようとしているのか、リベリアは訊ねない。それを信頼の証と受け取った天崎は、群青を追うため踵を返す。
すると、ようやく我に返った玉藻が弱々しく呼び止めた。
「ま、待て。天崎……」
「お前はゆっくり休んでればいいさ。あとは俺に任せろ」
それだけ言い残すと、天崎は里の奥へと駆けていった。




