間 章 とある九尾と獣人たちの会話
これは天崎が獣人の里を発ってから少し後に起きた出来事である。
先ほどと同様、長岡玉藻は縁側に座ってのんびりと空を見上げていた。だが、むらさきの姿はない。いつの間にか、彼女は玉藻の背後で寝息を立てていた。
やがて一時間ほどのお昼寝を終えたむらさきは、ゆっくりと目を覚ます。しかし、まだ頭がしっかりと働いていないようだ。顔を上げて周りを見回した後、再び大きな枕へと身体を埋めてしまった。
そこで気づく。自分がどこで居眠りをしていたのかを。
「わっ! 玉藻さん、ごめんなさい!」
飛び起きるやいなや、むらさきは開口一番に謝った。
自分が寝ていた場所は玉藻の後ろ。つまり縁側に横たわる彼女の尻尾に身を預け、まるで抱き枕のようにして眠っていたのだ。無意識とはいえ、自分の失礼な行為を反射的に謝ってしまうのも仕方のないことだろう。
少女の起床に気づいた玉藻は、白い歯を見せて笑いかけた。
「おう、おはよう。よく眠れたか?」
「う、うん。玉藻さんの尻尾、ふかふかで気持ち良いから……。じゃなくて、勝手に寝てごめんなさい!」
「いいって、謝んなよ。お前、あの天崎ってガキを夜通し看病してたんだろ? 眠くなって当然さ。あいつの腹に一発ぶちかましたオレが言うのもなんだけど、ありがとな」
「……うん」
お礼の言葉を素直に受け取ったむらさきは、照れ臭そうに頭を掻いた。
そして一度だけ大きな欠伸をかますと、彼女は玉藻の隣へ腰を下ろす。
「というか、お前が人間に懐くなんて珍しいじゃねえか。どういう心境の変化だ?」
「そ、そうかな?」
「見てりゃ分かるよ。たとえ自分の方に負い目があったとしても、普通は夜通しで看病なんかしねえって」
玉藻は楽しそうに……いや、どちらかといえば嬉しそうに口元を綻ばせていた。
対するむらさきは少しだけ口ごもった後、頬を赤く染めて答えた。
「その……あの人を見てると、不思議な感じがするの。あたいにお兄ちゃんがいたら、あんな感じだったのかなぁって」
「里にも一人いるだろ? 天崎と同じくらいのガキが」
「あの人はすごく無口だから……」
「なるほど。面倒見の良いところに惹かれたってわけか。そういやお前、街に出た時のことを嬉々として話してたもんなぁ」
日曜日、里に帰還したむらさきは、その日の出来事をいの一番に玉藻へ伝えていた。
その時の様子を玉藻は思い出す。今まで見たことがないくらい楽しそうに、新しくできた友達やお兄ちゃんとやらのことを語るのだ。もっとも昨日の会議で群青が天崎の名前を口にするまで、むらさきの言う「お兄ちゃん」が誰なのか、玉藻は知る由もなかったが。
「うん、楽しかった」
むらさきもまた誤魔化すことなく、自分の気持ちを素直に認めた。緩んだ表情からは、楽しかった思い出を今まさに懐古しているのが、手に取るように分かるほど。
それだけに、玉藻の不安も募っていく。
「お前、もしかして天崎をあいつの代わりにしてるんじゃないだろうな?」
そう言いながら、玉藻は屋敷の中へと視線を向けた。
あいつというのが誰を指しているのか、その仕草だけでむらさきも理解する。先ほどとは打って変わって表情を曇らせると、玉藻に感情を知られることを拒むように顔を伏せた。
そしてたっぷり十秒ほど無言を貫いた後、むらさきは悲観的な質問を投げかけた。
「やっぱり、人間と仲良くしちゃダメなのかな?」
「ん? いやいや、オレは別にそんなこと言うつもりはねえよ。ただ天崎が住んでるのって、こっからだいぶ遠いだろ? そう頻繁に会える間柄でもねえし、ちょっと心配しただけだよ。つっても、お前ももうお姉さんになる歳だから、たまに会うくらいがちょうどいいのかもな」
「うん。あたい、お姉さんだもん。寂しくないよ」
「調子に乗るな」
そう言って、玉藻はむらさきの頭を軽く小突いた。
二人の笑い声が、家主の失った屋敷を包み込む。
そこで玉藻は、ふと妙な引っ掛かりを覚えた。
「人間と仲良くしちゃダメだって、誰が言ったんだ? お前の両親か?」
「ううん、群青先生」
「群青が?」
訝しげに眉を寄せた玉藻は、群青の顔を思い浮かべた。
何故群青がそんなことを言うのか。いや、奴は他の獣人たちと同調して普通を装ってはいるが、どこか人間を快く思っていない節がある。四つ年上の兄みたいな存在として見ていた玉藻は、昔からそう感じていた。
獣人は獣人だけで生きていくべきだ。
人間の力を借りてはいけない。
このままでは獣人という種の存続が危うくなる。
人間と交友があるたびに、群青はそんなことを口にしていた気がする。里の伝統を守ると言えば聞こえはいいが、要は古い考えに固執しすぎて技術の進歩について行けない頑固おやじのそれだった。もちろん里から出てはいけない玉藻も、外の世界のことは書籍やテレビから得た知識しかないのだが。
しかし狼男が殺されて里の獣人が分断した時、群青が穏健派と聞いて耳を疑った。
殺人犯は間違いなく外部の奴だろう。事実、天崎の話ではそうだったらしい。なら獣人のことを第一に考える立場として、普通は怒り狂うのではないか? 人間に対し、さらに憎悪を抱くんじゃないか?
それどころか群青は、過激派の連中が飛び出していくのを見送るように里に残った。人間には頼らないという考え方なのに、捜査や殺人犯の処遇は人間に任せようという立場を取った。
はっきり言って意味が分からない。里長をはじめとする里の老人たちは、物腰の柔らかい群青の意見によく耳を傾けるものの、今回の件について、玉藻だけは群青のことを気持ち悪いとすら思ってしまった。
昔から一緒にいるはずなのに、群青のことがどんどん分からなくなっていく……。
そんなことを考えていると、突然むらさきが腕にしがみついてきた。
「どうした?」
「犯人、早く捕まるといいね」
話しているうちに、昔のことを思い出してしまったのだろう。顔を伏せたむらさきから、声を押し殺した嗚咽が聞こえてきた。
「……ああ。そうだな」
本心を口にした玉藻は、むらさきの頭を優しく撫でてやるのだった。
そして涙が悲しみの感情を洗い流し終えた頃、玉藻は景気づけに提案した。
「よし、むらさき。プリンでも食べよう。実は天崎への詫びのつもりで今朝から作ってたんだが……まあ、だからたくさんあるぞ」
「……うん、食べる」
赤く充血した目をこすりながら、むらさきは小さく頷いた。
台所へ行こうと立ち上がったところで、玉藻がふと気づく。
「そういや猫又の奴、おっせーな。駅まで行って帰って来るだけの時間は経っただろ」
「そのまま帰っちゃったとか?」
「じゃあ結局何しに来たんだよ。……ああ、事情を聞きに来たとか言ってたっけ? ったく、久々に顔を見せたかと思えばすぐこれだ。長く生きてると、人の気持ちとか分からんくなるのかねぇ」
旧友に対して遠慮のない愚痴を吐くも、玉藻自身も相手の性格はしっかりと把握しているようだ。特に心配した様子もなく、屋敷の奥へと向かう。
と、その時だった。
「まったく。ここに来てはいけないと、あれほど忠告したではありませんか」
聞き慣れた声を耳にして、玉藻とむらさきは振り返った。
見れば、相変わらず地味な袴に身を包んだ群青が、背の低い竹柵を乗り越えようとしているところだった。
「ぐ、群青先生……」
群青の姿を見て、むらさきはビクッと身体を強張らせた。
まるで先生に悪戯がバレた時のような反応だ。いや、むらさきにとっては悪戯をしていたようなものだろう。狼男の家に行ってはいけないと、前々から言い含められていたのだから。
そんな怯えた様子のむらさきを庇い立てするため、玉藻は滑り込むように二人の間に割って入った。
「オレが呼びつけたんだ。むらさきは悪くないよ」
「貴女も貴女ですよ。里で祀られている神が、こんな所で入り浸ってるとは」
「行動範囲を制限されてるオレが、ギリギリ許された場所のはずだが?」
「そうは言っても、九尾の貴女は獣の耳と尻尾を隠すことができません。ここは人間たちの目にも留まる場所。意味もなく廃墟を訪れるのはどうかと思います」
「廃墟だと?」
確かに今、この屋敷の持ち主はいない。しかし玉藻やむらさきが、狼男と過ごした思い出の場所なのだ。自分たちが生きているのに廃墟呼ばわりされるのは、心の底から気に食わなかった。
そう噛みつこうとしたものの、群青がむらさきの方へ視線を移したため、玉藻は怒り出すタイミングを失ってしまう。
「さあ、むらさき君。こちらへ」
「……はい」
しゅんと項垂れたむらさきは、観念して群青の元へと歩いていく。プリンを食べようと提案した玉藻も、彼女の歩みを止めることはできなかった。
群青とむらさきは先生と生徒。指導する側と、される側。その関係において、第三者の玉藻が口出しする権利はない。
故に玉藻は立場を弁え、むらさきが連れて行かれるのを静観していたのだが――、
二人のやり取りが平和的に終わることはなかった。
群青が、手元まで来たむらさきの頬を平手で引っ叩いたのだ。パシッ! と弾けるような音が響くのとともに、勢い余ったむらさきは地面へ倒れてしまう。
その光景を目の当たりにした玉藻の尻尾がいきり立った。
「群青! てめえ、むらさきに何しやがる!」
「何って、躾ですよ。無断で里の外に出る悪い生徒に、お仕置きをしただけです」
「だからって殴ることはねえだろ!」
「そうですか? 悪い事をした子供には体罰が必要です。まあ、行き過ぎるのはわたくしも良くはないと思いますが」
そう言いながら、群青は片脚を後ろへ引いた。
むらさきを蹴るつもりだ。咄嗟に判断した玉藻は、群青へ飛び掛かった。
「やめろ!」
群青の肩を突き飛ばそうとするも、玉藻の両腕は呆気なく捕まってしまう。さらに掴まれている手首から、ミシッと嫌な音がした。
「ぐあっ!」
あまりの痛みに悲鳴を上げながらも、玉藻は二つの意味で驚いていた。
群青にこんな力があったか? 仮にあったとして、自分やむらさきに容赦なく暴力を振るうような奴だったか?
一瞬のうちに、様々な疑問が頭の中を駆け巡る。
すると群青の後ろから四人の中年男性が現れた。彼らは玉藻の周りを囲むと、無理やり彼女の両腕を締め上げて拘束する。
「連れて行け」
手を放した群青が、無表情のまま静かに命令を下した。
玉藻自身、彼の他に里の獣人がいることには気づいていた。おそらく里へ戻ることを拒否された時、無理やり連れて帰るための保険だったのだろう。それ自体は何も不思議ではない。
だが何かがおかしい。
なんで年齢も立場も上の奴らが群青に従っている? なんで誰もむらさきへの体罰を非難しない? しかも全員、目が虚ろだ。いったい、何がどうなっている?
「オレをどこへ連れて行くつもりなんだ?」
「神は神の在るべき場所へ。里の中へ戻るだけですよ」
なら反抗するだけ無駄というもの。
玉藻は拘束されている両腕の力を抜いた。
「分かった。素直に従えばいいんだろ? けど、これ以上むらさきには手を出すなよ」
「もちろんです。我が生徒を無意味に痛めつけるわけにもいきませんので」
どの口が……と、玉藻は踵を返す群青を睨みつけた。
「た、玉藻さん!」
「むらさき君。君もさっさと里へ戻ってくるように」
肩越しに振り返った群青はそれだけを言い残すと、男たちとともに去っていった。
あまりにも突発的な出来事に放心したむらさきは、ただただ呆然と彼らの背中を見送ることしかできなかった。
しかし人間よりも鋭い彼女の嗅覚が変な臭いを察知し、すぐに我に返る。
異臭の発生源は屋敷の中からだった。この臭いは知っている。木が燃える臭いだ。
「えっ、な、なんで……」
気づいた時には、もう遅かった。
屋敷の至る所から、火の手が上がっていたのだ。
徐々に大きくなっていく赤い炎と黒い煙を、むらさきは為すすべなく眺めるばかり。そこで奇跡的に思い至った。群青と一緒に来たはずの大人たちは、何故か途中からしか姿を見せなかった。つまり、彼らが屋敷に火をつけていたのだ。
いや、もうそんなことはどうでもいい。
このままでは思い出の家が焼けてしまう!
「い、嫌だ!」
叫び声を上げたむらさきは、無我夢中で屋敷の中へ飛び込んだ。
それほど時間が経っていないためか、今から消し止められれば、大部分は原形を残すことができるだろう。しかし複数ヶ所から上がっている火種を、子供一人の力でどうにかできるはずもなかった。
消防車を呼ばなきゃ。そう判断し、電話へ駆け寄る。
そこで、ふと一枚の紙が目に留まった。それはこの前の土曜日、天崎に夜襲を掛けた時にもらった、彼の電話番号だった。
未熟なむらさきの思考が、消防車から頼れる兄のような存在へと変わる。
あの人ならなんとかしてくれると希望を持って、むらさきは番号を押した。
「お兄ちゃん! 助けて!」




