第10章 九尾襲来
安藤の家に向かっている途中で、念には念を入れる意味も込めて、天崎は急ぎ足のままスマホを取り出した。
『おう、東四郎。どうした?』
電話の相手は天崎の父親、天崎誠三だ。オフィス内なのか、背後で電話の鳴る音や複数人の話し声などが聞こえた。
当然のことながら、彼も『完全なる雑種』である。
「仕事中にごめん。親父に訊きたいことがあってさ」
『ん~? なんだ?』
「風邪を引いた時って、頭から動物の耳が生えたりしないよな?」
『…………意味が分からん』
がんばって理解しようと試みる間があった後、当たり前のような回答が返ってきた。その反応ですべて決まったようなものだ。すなわち『完全なる雑種』の認識は改変されていない。
いや……と、天崎の脳裏に違和感が過った。
そもそも今、親父の周りはどうなってるんだ?
「親父の会社さ、インフルエンザは流行ってるのか?」
『流行ってるみたいだぞ。体調が悪くて、昨日から何人か休んでるからな。まあ、俺やお前には関係のない話だろ。がっはっは』
笑い事ではないのだが。
「ちなみに、出勤してる人の中で頭から動物の耳を生やした人はいないか?」
『さっきから動物の耳って、何の話だ? 仕事中にコスプレを寛容するほど自由な会社じゃないぞ』
どういうことだ? たまたま親父の周りだけ耳の生えた人がいないってことか? それとも異変が起きているのは、この街だけ?
考えても分からないため、ひとまず保留にしておく。
「分かった、ありがとう。また電話するかもしんない」
『おう。あ、そうだ。さくらさんから聞いたぞ。新おののき荘に東四郎のクラスメイトの女の子が引っ越してきたんだって? これはチャンス……』
有無を言わさず通話を切ってやった。今はそんなことを話している場合ではない。
歩く足を速めた天崎は、スムーズに安藤へ説明できるよう、今一度状況を整理する。
風邪を引くと獣の特徴が現れるという常識。これは歪められた認識であり、自分たち『完全なる雑種』にとっては異常事態である。事実、昨日まではこんな症状は一切なかった。
そして仮にインフルエンザの影響でないのなら、耳が生えた原因はおそらく獣人だ。殺人犯を追って里から出てきた獣人たちが、何かをした。意図も方法も、今のところ不明だが。
安藤も天使の『認識改変』は知っている。なので、自分の認識の方が歪められているという可能性も考慮に入れて、いろいろと思案してくれると思うのだが……そこは奴を信じるしかなかった。
とにかく、今は安藤の家へ急ぐのみ。
一時的に思考を中断して、足を動かすことに専念する。だが次の瞬間、天崎の考えた計画はすべて無駄に終わってしまった。
突然、空から大きな人影が降ってきたのだ。
「なっ――」
およそ五メートル前方。住宅に挟まれた一方通行の道路で、その人物は天崎の行く手を阻むように降り立った。
どれだけ高い所から落ちてきたのか、着地の際に砂埃が舞い上がる。また、衝撃で足が痺れているのだろう。両足の裏をしっかりと地面に接地し、腰を深く落としたまま、その人物は砂埃が治まるまで微動だにしなかった。
その数秒を以って、天崎は驚きながらも相手の容姿を観察する。
二十代半ばの女性だった。リベリアと同じくらいの身長なのだが、彼女にはない豊満なバストが揺れている。ただ何故か裸足であり、着ている衣服も薄手のワンピース一枚だけという、かなり際どい恰好だった。
次に目が移ったのは、銀色に輝く、その頭だ。
腰まで届くほどの銀髪の上には、例の如く獣の耳が生えている。しかし天崎は、この女性が風邪を引いた人間ではないと直感していた。おそらく彼女は本物の獣人だ。
そう感じたのも、纏っている雰囲気が他の人とまったく違ったからだ。
自分よりも小柄な女性を大きな人影と誤認してしまったのは、彼女の背後にある尻尾のせいだった。狐のようなフサフサな尻尾は三本も生えており、地上二メートルほどの高さまで逆立っている。それはまるで背後を守る壁のようでもあった。
そして天崎が何よりも危機感を抱いたのは、俯きがちにこちらを睨みつけている、女性の目つきだった。真っ赤に光る瞳には敵意が宿っており、指一本でも動かせば即座に襲ってきそうな気迫を孕んでいる。いや、足の痺れが解けるのと同時に、彼女は間違いなく飛び掛かってくるだろう。
だが天崎は動けなかった。あまりにも想定外な状況に頭がついていかず、せっかくの逃げる猶予を無駄に費やしてしまう。
残念ながら時間切れだ。
謎の女性が雄叫びを上げた。
「天崎いいいいいいいいぃぃぃぃぃ!!!!」
咆哮が闘争の合図だったかのように、牙を剥いた女性が地面を蹴った。
鋭利に尖った五本の爪を振り上げて、凄まじい勢いで突進してくる。狙いは頭。天崎の命を一撃で葬り去れるスピードを以て、女性の片腕が薙ぎ払われた。
声を掛ける余裕もなく、天崎は咄嗟に回避行動を取る。転がるように真横へ跳ぶと、耳元で「ブンッ!」と、まるで鈍器を振り回したような低い音がした。
あの細腕のどこにそんな力が? そんな疑問を抱くのと同時に、横に回避したのは失策だったことに気づく。ここは住宅街。背後を民家の塀に阻まれてしまったのだ。
天崎の動きを眼で追った女性が追撃に移る。開いた指を拳に変え、大きく振りかぶった。
興奮のあまり天崎を屠ることしか考えていないのか、攻撃が非常に短絡的だ。戦い慣れてる人間なら容易に避けられる大きな隙であり、『完全なる雑種』の天崎にとってはカウンターも狙えるほどの緩慢な動作だった。
しかし彼女の正体や目的が分からない以上、無暗に反撃するわけにはいかない。
相手の拳をギリギリで避ける。耳元で風を切る音。つづいて爆発にも似た衝撃を背中で感じたことで、天崎の顔からサッと血の気が引いた。まるで重機が衝突したかのように、コンクリートの塀が粉々に崩れ落ちたからだ。
「――ッ!?」
吸血鬼の腕力を想起させる一撃に、天崎は思わず身を震わせた。
だが、それで待ってくれるような相手じゃないことは明白。攻撃が外れたことを悔しがる様子もなく、女性は血走った目を天崎の方へ向けた。
彼女はすぐさま身体を反転させると、再び天崎の頭を目がけて腕を振った。当然、天崎は難なく避けるのだが……代わりに犠牲となった電柱が半分抉れたのを見て、泣きそうになる。今のも普通に即死する一撃だった。
こいつはガチでヤバい奴だ。死に物狂いで距離を取った天崎は、改めて獣の女性と対峙すると、熱くなった頭で必死に状況分析を始めた。
コンクリートを素手で破壊するような化け物と、真っ向から戦いたくない。ここは逃げるが勝ち……と言いたいところだが、彼女は「天崎」と叫んでいた。理由はどうあれ、自分が狙われているのであれば、無暗に逃げ回るのは周りの被害を大きくするだけだろう。
ならば、ここで取り押さえるのがベストな選択か?
そう思いつつ、天崎は自分の人差し指を口元へ持っていく。しかし、それを噛むにはまだ勇気が足りなかった。
そうこうしているうちにも、バーサーカーと化している女性が迫ってくる。やはり軌跡は直線的。避けるのは容易い。
とはいえ、ただ回避するだけでは同じことを繰り返すだけだ。このままでは、ここら一帯が破壊し尽くされてしまうだろう。
せめて、もう少し広い場所へ行くことができれば……。
女性の攻撃を受け流しながら、天崎は頭の中で地図を思い浮かべる。
と、その時だった。女性が現れた時と同じように、何者かが空から降ってきた。
下駄を鳴らして着地した袴姿の男が、二人の間に割って入る。そして獣の女性と取っ組み合うと、彼は肩越しに天崎の方へと振り返った。
「天崎さん! 逃げてください!」
「群青さん!?」
闖入者は群青だった。ただ一昨日会った時とは微妙に顔立ちが違う。目元が黒ずんでおり、頭からは狸のような丸い耳が生えていた。
女性を力づくで抑えつけながら、群青は天崎に向けて叫んだ。
「彼女は獣人の里に住んでいる九尾の狐です! 理由は分かりませんが、貴方個人を狙っているようです! 九尾は興奮するたびに尻尾が増え、その都度力が増していきます! わたくしが抑えられるのは五尾まで! 今のうちに早く逃げてください!」
そう言っている間にも、気づけば九尾の尻尾が四本になっていた。拮抗状態だった力比べが崩れて、徐々に群青が押され始める。
彼の言う通り、獣人の里のことは獣人に任せて、天崎は逃げた方がいいのかもしれない。だが尻尾が増える度に力が増すというのも事実らしい。獲物を目の前で逃したことで、彼女がさらに激昂しないとも限らない。
今のうちにと言うのであれば、彼女を無力化することこそ今のうちだ。
「群青さん! フォロー頼んだ!」
「何をっ……」
逃げる様子のない天崎と、荒れ狂う九尾の女性との板挟みになり、群青の顔が目に見えて焦り始める。しかし天崎は彼の要望を無視し、腰を低く落とした。そして自分の身体の中へと意識を集中させる。
準備時間は不十分。だが天崎は、群青を見て思い出した。自分の頭には今、獣の耳が生えている。すなわち、体内にある獣人の遺伝子が濃くなっていると言っても過言ではないだろう。
ここは親父に倣って、扉を開けるイメージをしてみる。
いつもはポケットの奥深くに眠っている鍵が、今は手の中にある。あとは鍵穴に差して回すだけだ。
「『獣王の怪』」
思った通り、変化はすぐにやってきた。
骨格が獣のそれへと変わり、体毛が一気に濃くなっていく。口元にはマズルが現れ、四本に減った指の爪はナイフのように鋭く尖り始めた。
獣人の血統が全身を駆け巡る感覚。
吸血鬼アラン=ホームハルトと戦った時以来だ。天崎は久しぶりに半身を獣の姿へと変貌させた。
だがしかし――天崎は見誤っていた。
あの時と違い、今回の敵対者には理性がないことを。
「――ッ!?」
「なっ……」
異常を察知した九尾と群青が、取っ組み合いながらも天崎の方へ注意を逸らした。
ただ驚くのも当然のこと。インフルエンザの影響を受けているとはいえ、普通の人間だと思っていた少年が、いきなり獣の姿に変わり果てたのだから。
「しまっ……!?」
そして天崎にとっては不運なことに、先に我に返ったのは九尾の方だった。
呆気に取られている群青の腕を振り解いた九尾の女性は、ものすごいスピードで天崎の懐へと潜り込んでくる。
「えっ?」
自分の中に向けていた意識を目の前に戻すも、もう遅い。
血が滲むほど力強く握りしめた九尾の拳が、天崎の腹部へとめり込んだ。
「あがッ――!!」
肺の中の空気が強制的に吐き出される感覚。下腹部に鈍い痛みが走るのと同時に、猛烈な吐き気が襲う。まるで上半身と下半身が分離してしまったかのよう。瞬時にして手と足の先端から体温が失われていった。
死にも匹敵する衝撃を受けたせいか、天崎の生存本能は一時的に痛覚の遮断を選択したようだ。身体の機能を一つずつ停止させたのだが――結局、最終的には意識をも手放してしまったのだった。




