第4章 夜襲
天崎がペットショップを出る頃には、西日はすでに住宅の陰に隠れていた。完全に暗くなる前には帰りたいと思い、自然と足が速まる一方で、ちょうど銭湯からの帰り道らしい女性陣とばったり遭遇した。
犬用の餌や容器など、提げていた購入品を指摘されたので、天崎は歩きながら事情を説明する。それに対する反応は二種類。空美とさくらは特に関心がある様子もなく事実として受け入れ、月島とマロンは興味深そうに聞き入っていた。
そして、それらは実際に野良犬と対面したところで顕著に表れた。
前者二人はおののき荘に到着するやいなやさっさと自室へ向かい、後者二人は円やミルミルに混じって野良犬とじゃれ合い始める。どちらにせよ誰も嫌な顔をしていないようなので、天崎は心から安堵したのだった。
その夜、天崎と円とさくら、そして新しくおののき荘の仲間となった月島が、天崎の部屋で一緒に夕食を囲むことになった。歓迎の意味も込めて、さくらが手料理を振る舞いたいと申し出たのだ。
「……とはいっても時間がなかったので、あまり手の込んだ物は作れませんでしたが」
そうは言うものの、食卓には炊き立てのご飯と味噌汁に加え、人数分の焼き魚と野菜炒めなど、普段の料理と遜色ない逸品が並べられていた。
時間がなかった理由は、天崎が野良犬の必要品に囚われすぎていて、今夜の夕食を買い忘れていたためだ。結局あの後もう一度スーパーへ行き、適当に野菜と総菜だけ買って、魚はさくらから貰ったのである。そのため、なんやかんやでいつもより夕食が遅れてしまったのだ。
さらには同じ理由で、今日から一人暮らしを始める彼女は早々に失敗したのだった。
「うぅ。本当に申し訳ないです」
「いいって。気にすんな」
肩を落とす月島を、天崎は優しく宥めた。
当然のことながら、引っ越してきたばかりの月島の部屋の冷蔵庫は空っぽだ。にもかかわらず銭湯から帰ってきた彼女は、疲れもあってか軽く眠ってしまったのである。夕食を共にしているのは、そういう経緯もあってのことだった。
「飯を食い終わったらコンビニにでも行こう。場所は知ってると思うけど、もう暗いから一緒に行くよ」
「あ、うん。お願いします」
約束を交わしたところで、少し遅めの夕食会が始まった。
ただ天崎としては、普段は遠慮なく乗り込んでくる人物がいないことに、どうしても違和感を抱いてしまう。
「そういえばリベリアの奴、今日は飯食いに来ないんだな」
「リベリアさんなら、さっき慌ててどこかへ出掛けてましたよ」
「なるほど」
仮眠した後にバイトへ行くと言っていたことを思い出した。おそらく時間ギリギリまで寝ていたのだろう。次から連れ出す時は予定を聞いてからだなと、天崎は反省するのと同時に心の中でリベリアに謝罪したのだった。
そんなことを考えながら味噌汁を啜っていると、不意に月島と眼が合った。彼女は少し不満そうに口を尖らせて、上目遣いで訊ねてくる。
「えっと……天崎さんって、いつもリベリアさんとご飯食べてるの……かな?」
「毎日じゃないけどな。けっこう頻繁に来るぞ。あいつ料理できないし。それに飯を食わせるのと引き換えに、ちょくちょく漫画を借りてるんだ。一度部屋の中を見せてもらえよ。あいつの部屋、ほとんど漫画で埋まってるから」
「そ、そうなんだ」
気が合う友人を紹介するような調子の天崎に他意はなく、それを読み取った月島は複雑な表情を露わにした。不満と安堵、そして月島自身も自覚していない感情が、胸の内に渦巻いているような顔だ。
急に黙り込んでしまったことを怪訝に思ったのか、天崎は首を傾げる。ただ月島本人からの言葉はなく、代わりにさくらの呆れたため息が飛んできた。
「まったく、東四郎さんは変なところで鈍いんですから」
「どういう意味ですか? っていうか、何でニヤついてるんですか?」
そわそわし始める月島の様子も変だが、それを横目で窺いながらニヤニヤと微笑むさくらはさらに気色悪かった。
もちろん天崎は月島の気持ちを知っている。けどまさか、リベリアを部屋に上げて一緒に食事をしているだけで嫉妬心を抱かれるとは、露ほども思わなかった。
「ところで東四郎さん。あの拾ってきた野良犬に名前は付けないのですか?」
今までの話の流れをぶった切って、さくらが訊ねてきた。
ただその質問は円にクリティカルヒットしたようで、わざわざ食事の手を止めて天崎の方へ期待の眼差しを向けてくる。
また面倒な話題を振ってくれたなぁと、天崎は困り顔で答えた。
「里親が見つかった時に引き渡すのが名残惜しくなるから、できれば付けない方がいい……って大家のばっちゃんが言ってました」
「なるほど」
今度は円が不満そうに唇を尖らせたが、天崎は無視した。
「確かに、私も昔飼ってた魚に名前を付けたことがあったんですが、いざ食べる時には躊躇してしまいましたからね」
「それとは話の次元が違うと思いますが……」
「まあでも普通に食べるより美味しかったので、それから魚を食べる際は常に名前を付けるようにしてます」
「狂気!?」
ニヤニヤと笑っているので冗談だとは思うが、その発想がすでにサイコパスだった。
そして、そんなさくらの癖を知らない月島は、「えっ、飼ってた魚って普通に食べるものなの?」とでも言いたげに天崎を見つめてくる。さらに反対側では、ちゃぶ台に並べられた焼き魚たちを見つめる円が、恐れ戦いたように震えていた。
なんか地獄絵図になりそうだったので、天崎は早々に話題を変える。
「にしても、よくもまあ月島も一人暮らしを決意したよな。よりにもよってこんな時期に」
「こんな時期って?」
そんなに変な時期だったかなと首を傾げる月島には、自覚が足りないようだった。
仕方がないので、天崎は非情な現実を突きつけてやる。
「ほら、俺ら来年から受験生じゃんか。自炊しながらの受験勉強は大変だって、俺の親父も言ってたぞ」
「ふわぁ!?」
奇声を上げて箸を置いた月島が、慌てて両耳を塞いだ。どうやら受験のことは完全に頭から抜け落ちていた……もとい意識的に情報をシャットアウトしていたようだ。
予想通りの反応に、天崎は呆れて肩を落とした。
「そんなことだろうと思った。ま、勉強で裕子を頼るのは難しいだろうから、俺もできる限り協力するよ。自分の成績に影響ない範囲でな」
「うぅ、お願いします……」
終始ニヤニヤしているさくらの前でこんな約束をするのは、またからかわれるネタになるだろうなと思いつつも、月島のためには背に腹は代えられない。受験勉強だろうが、さくらの冷やかしだろうがドンと来いと、腹をくくる天崎だった。
夕食会が終わり、天崎と月島は約束通りコンビニへ向かった。とはいっても、買った物は明日の朝食だけだ。その他の必需品はまた明日中に揃えるということで、二人はすぐおののき荘に帰宅した。
庭先で丸まっている野良犬に一声掛け、二人は各々の部屋へ。それから天崎は普段通りの時間を過ごし、日付が変わる前には床に就いていた。
徐々に薄れていく意識の中で、天崎は明日以降のことを考える。
天気予報によると、しばらく晴天が続くらしい。だが雨が降った場合のことも考えておかないと。犬小屋を買うにしても、すぐに里親が見つかったら無駄になるし……。
ああそれと、明日から少し早く起きて散歩に連れて行かなければ。あの犬種って、どれくらい歩かせればいいんだ? 持ち物は糞を入れるための袋とスコップだけでいいんだよな? あとは犬を飼ってる友人に聞いてみるか。
微睡みを帯びた思考は、やがて支離滅裂なものになっていく。
そして廃墟探索の疲れもあってか、天崎の意識はすぐに眠りの中へと落ちていった――
――はずだったのだが、彼は即座に完全覚醒することとなる。
布団に潜っていた天崎の耳に、「パンッ!」と何かが弾けたような音が届いたのだ。
「なんだ!?」
驚いた天崎は、慌てて上体を起こした。
それと同時に押し入れの襖がサッと開く。円の姿は輪郭でしか捉えられないが、ただならぬ雰囲気なのは手に取るように分かった。
「東四郎!」
円が叫んだのだ。それだけで異常事態であることを認識する。
すると今度は玄関の扉が開け放たれた。バンッ! という衝撃音を耳にするやいなや、勢いよく飛び掛かってくる獣のようなシルエットが目に入る。
体格は円と同じくらいだろう。頭の上に獣の耳を携え、跳躍の際には大きな尻尾が揺れる。いつかどこかの異世界で遭遇した狼のモンスターよりは小ぶりだが、こちらの命を狩り取ろうとする迫力は引けを取らなかった。
しかし今は状況がまるで違っていた。室内は薄暗く、ほとんど眠りかけていたこともあり、アクションを起こすのが遅すぎたのだ。
振り上げられた獣の爪が、天崎の顔面を容赦なく裂いた。
「痛ッ――!?」
目の横から頬にかけて激痛が走った。だが、その痛みで天崎は完全に目を覚ます。
掛け布団を横へ放り投げた天崎は、座っている状態から無理やり後方へ跳んだ。とはいえ、ここは狭い室内。退路は壁に阻まれる。
「逃がさないんだから!」
円のものではない、少女の声。混乱の最中、その声が天崎の反応をさらに鈍らせた。
隙ができたのをいいことに、獣のシルエットは勢いよく天崎の肩に噛みついた。
「痛ってぇ!」
たまらず声が漏れる。だが痛みを訴えたところで獣が容赦してくれるはずもない。肩に刺さる牙が、さらに深く食い込んでいく。
「は、な、せ!」
噛まれている方とは逆の手で獣を引き剥がそうとする。
そこで気づいた。侵入者は服を着ている? それどころか腕や首筋に体毛がない。この感触は間違いなく人の皮膚だ。
痛みのせいで思考が麻痺しているため、天崎は現状の分析を一旦諦めることにした。こいつは誰なのか、何が目的で襲ってきたのか、一切の疑問を放棄し、侵入者を引き剥がすことに専念する。
しかし事態の収束は意外にもすぐにやってきた。
「むらさき君。先走ってはいけないと、あれほど言ったじゃないですか」
知らない男の声が聞こえたのと同時に、獣の牙があっさり抜けたのだ。
すると部屋の蛍光灯が灯った。円がスイッチを点けてくれたことだけは理解できたものの、天崎は目の前の状況を何一つ飲み込むことができなかった。
和装姿の男が、獣の耳と尻尾の生えた少女の首根っこを片手で掴み上げて、部屋の真ん中で堂々と立っていたのだから。




