間 章 とある死神と殺人鬼の会話
わずかな光も存在しない真っ暗な闇の中で、神上立人は膝を抱えていた。
狭く、暗く、息苦しい。質量があると錯覚させられるほどの巨大な闇が、神上の全身を包み込む。まるで蜘蛛の糸に絡めとられたかのように、まったく身動きできなかった。
こうしていると、昔を思い出す。
お前の顔など見たくないと父親に怒鳴られ、押し入れに閉じ込められたことがあった。それも一度だけではない、何度もだ。衣擦れすらもうるさいと襖を蹴られるものだから、身じろぎすらもできずに、悪夢が過ぎるのをじっと待った。
あれから十数年も経つというのに、未だに神上はトラウマを克服できずにいる。密閉された空間の中では、思うように身体を動かすことができない。さらに暗闇が加わると、完全に運動能力が停止してしまうほどだった。
考える時間だけは膨大にあるためか、神上はふと疑問に思う。
そういえば、あの時はどうしたんだっけ? どうやって押し入れから脱出したんだっけ? 父親を殺すまでは生きていたのだから、食事も与えられず、ずっと放置されていたわけではないはずだ。
考えているうちにも、だんだんと記憶が蘇ってきた。
そうだ。少し時間が経つと、唐突に襖が開くんだ。そこで現れるのは見慣れた女性の顔、自分の母親だ。彼女は父親が家に居ない時を見計らって、自分を押し入れから救い出してくれたんだった。だから希望を失わずに待っていられたのだ。
でも、その母親も今はもういない。自分から縁を断ってしまった。
だから――この暗闇から自分を助けてくれる人などいない。いるはずはない。
そう決めつけ、神上は抱えた膝の間に頭を埋めた。
だが、独りの時間はそう長くは続かなかった。
ザクっと音がして、空間が裂かれる。
「えっ?」
驚きの声を漏らした神上は、慌てて顔を上げた。
何もなかったはずの空間に、人一人が通れそうな隙間ができていた。暗闇に慣れてしまった神上の眼は、その隙間から差し込む光に対応できず、眩しそうに目を細める。
すると光の隙間から少年らしき人物が顔を覗かせた。
真っ黒な髪を長く伸ばした、虚ろな瞳の少年だ。
「迎えに来ましたよ、神上さん」
「キミは……」
呆気に取られながらも、神上は少年が差し伸べてきた手を握りしめる。
その瞬間、彼はいつもの調子を取り戻した。
「ギャハハ。どこの誰かと思えば、石神クンじゃないか! 何やってんの?」
「……仕事ですよ」
神上のテンションに惑わされることなく、石神は冷たく答えた。
そして淡々と告げる。
「あなたの肉体にヴラド三世の精神が入り、あなたの魂は追い出されました。下界では魂だけで生きていくことは許されていませんので、あなたは死亡者として扱われます。それは理解していますか?」
「あー、まー、そうだろうねー。ヴラドの爺さんに身体あげちゃったらどうなるかってずっと考えてたけど、やっぱり僕、死んじゃったんだね」
「まったく、あんな奴のために自分の肉体を提供して死んでしまうなんて、あなたは本物のバカ者ですね」
「そう言うなよ。僕にとって、ヴラドの爺さんは親みたいなものだったんだからさ」
神上の言い草からは、後悔している様子がまったく感じられなかった。
ここまで自分の死に無頓着な幽霊も珍しいなと思いながら、石神はため息を吐く。
「本来なら死後四十九日間は下界を自由に行動できる猶予があるんですけど、あなたは死神を殺してしまいましたからね。一旦、今すぐ冥界へ連れていかなければなりません」
「お、冥界か! 楽しみだね!」
「……判決によっては、ひどい拷問が待ち受けているかもしれないんですよ? 分かってるんですか?」
「んなもん今さらさ。別に天国に行けるとは思ってないよ」
「自覚はあったんですね」
「あれだけ人を殺してればねー」
またも深くため息を漏らす石神。普段はほとんど喋らない幽霊ばかりを相手しているものだから、死人とは思えない神上の態度には調子を狂わされていた。
そのまま二人は天へと向かう。
途中、石神が神上に雑談を投げた。
「そういえば、僕はてっきりあなたと戦うものだと思ってましたよ」
「戦うって?」
「ほら、最初に病院の屋上で会った時、僕を殺そうと襲い掛かって来たじゃないですか。でも死神相手では不利と判断して一時撤退。その際、死神との戦いに慣れたら、いずれ僕を狩るとか言ってましたし」
「あー……そんな宣言したこともあったっけか」
ずいぶんと昔のことだとでも言いたげに、神上は空を仰いで懐古を始めた。
すると突然、彼の顔が狂喜に歪む。
「なんなら、今からでも戦おうか?」
「…………」
表情を引き締めた石神が即座に距離を取る。
だが神上の方は、人を小馬鹿にしたような笑い声を上げるだけだった。
「ウソウソ、ジョーダン。意味ないし、今さらそんなことしないさ。それに冥界への案内人がいなくなったら、困るのは僕の方だしね」
「……僕の視界から外れないでくださいね」
「大丈夫だって。そんなことより、僕も死神になれないかな?」
「死神に? なんでまた」
「そりゃ決まってんじゃん」
やれやれと嘆息した神上が、ものすごいスピードで石神へと接近した。逃げようとする素振りを見せるも、呆気なく捕まってしまう。そして強引に石神の肩を引き寄せると、神上は高々と宣言した。
「神々コンビを結成するためだよ!」
「……放してください。そんなコンビは組みません」
「なんでさぁ。別にいいじゃないの。死神の仕事って、滅茶苦茶つまらないんでしょ? だったらバカやって少しでも楽しく行こうぜ!」
「死神ってのは、楽しむ気持ちが生者よりもだいぶ薄いんですよ。それに死神は自殺が死因じゃないとなれません」
「僕はある意味自殺みたいなものだけどな」
「はいはい。勝手に冥界の番人と交渉してください」
「おっしゃ!」
なんだかんだで相性が良いかもしれない二人は、駄弁りながら天へと昇って行く。
その途中、ふと立ち止まった神上が地上を見下ろした。
石神には、彼のその行動の意味が手に取るように分かっていた。現世に未練があるのだ。その表情からして、おそらく親しい誰かに伝えたいことがあるのだろう。なぜなら――石神自身もそうだったから。
「場所が分かってるなら、少しくらいは融通を利かせてあげられますが?」
提案すると、神上は少しだけ間を置いた後、静かに首を横に振った。
「要らないよ。今どう暮らしてるかなんて、別に知りたくもない。あの人は……僕の方から捨てたんだから」
「後悔しても知りませんよ」
「僕は後悔なんてしない。未来に向かって走り続けるだけさ」
「死人が何を言ってんだか」
「だから」
石神の言葉を遮るようにして、神上が唐突に振り返った。
そして再度、無理やり肩を組んでくる。
「神々コンビ組もうぜぇ」
「やりませんってば」
逃げる死神と、勝手に認定した相棒を追う殺人鬼。
異色のコンビは、じゃれ合いながら冥界へと昇って行くのだった。




