第11章 殺(はな)し合い
『神上が屋上から落とした死体は、現在逃走中の指名手配犯だった。なんでも、数年前に強盗殺人をやった奴らしい。ったく、よくもまぁこれほどの極悪人を見つけたものだよ。警察が全力で行方を追っても捕まらなかったからこそ、指名手配されてたってのに。……だから天崎、安心しろ』
「まさかお前も悪人だから殺されて当然だって言うつもりじゃないだろうな?」
『言わないさ。ただ君との関係性は皆無だろうし、無駄に気負う必要はないって言いたかったんだ。彼が殺されたのは君のせいじゃない』
とは言いつつも、電話口から漏れる安藤の声は、天崎に気を遣っている様子は微塵も感じられなかった。いつも通り、淡々と行われる事実報告。しかし今の天崎には、安藤の突き放したその言い方が何よりもありがたかった。
神上が去った後、すぐに警察と救急車が到着した。もちろん授業は中止。数十分の自習を経て、生徒たちには一斉下校の指示が与えられた。
だが天崎はおののき荘へは帰らなかった。
神上が記した時刻は深夜零時過ぎ。また夜間に外出するとさくらに咎められると思った天崎は、その辺で適当に時間を潰す。そして頃合いを見計らって指定の場所へ向かおうとしたところで、安藤から電話が掛かってきたのだ。
『で、本当に神上の誘いに応じるつもりなのかい?』
「当たり前だ。俺が指名されたんだから、俺が行かないわけにはいかないだろ。無視したり誰か連れてったりでもしたら、何されるか分かったもんじゃない。だから警察とか呼ぶなよ?」
『はいはい、勝手にしなよ』
本当なら安藤にも黙っておきたかったのだが、先に紙を拾われてしまったので仕方がない。
その際、彼は警察に伝えようかと提案したものの、天崎は断固として拒否した。約束を破って神上の機嫌を損ねでもしたら、間違いなく死人が出るだろうと判断したからだ。安藤の方もそれは承知のようで、食い下がることなく快諾したのだった。
どのみち神上に人間としての戸籍があった以上、安藤が出しゃばってくることはない。つまり彼が警察に通報しなければ、誰の邪魔も入らない完全な一対一の対面となるだろう。
だからこそ天崎は、自分が殺人鬼と決着をつけなければならないと使命感を抱く。
この選択をしたのは、他でもない自分なのだから。
『それじゃ、健闘を祈る。生きて帰って来いよ、『完全なる雑種』』
「言われなくても分かってるさ、小悪魔」
いつもの軽口を交わし、どちらからともなく通話を切ったのだった。
ぼんやりと月明かりが照らす、田畑に囲まれた農道。季節柄、乾いた土や雑草しか生えていない土地を見渡しながら歩いていると、いつの間にか鬱蒼とした雑木林に入っていた。ということは、もうすぐ目的地だ。
神上が指定した場所は、名も知らぬ小さな神社だった。大まかな地理は把握しているが、足を運ぶのは今日が初めて。こうやって殺人鬼に呼び出されなければ、天崎には一生縁のない場所だっただろう。
そして奴が何故この場所を指定したのか、ここまで歩いてきた天崎は、その真意を見抜いていた。
神社は四方を雑木林で囲まれており、さらにその周りには広大な田畑が広がっている。人の叫び声程度では、誰かの耳に届くことはないだろう。今さら湧いてくる不安を、天崎は拳を握ることで誤魔化した。
やがて寂れた鳥居が見えてくる。地獄の門にも等しいその境を、天崎は一歩跨いだ。
境内にはほとんど何もなかった。鳥居から一直線に伸びる石畳と、それを挟むようにして左右に灯籠が一つずつ。二十メートル先には、本当にご利益があるのか疑ってしまいそうな、山小屋みたいな本殿があるのみだった。
いや、ご利益なんてないんだろうなと、天崎は賽銭箱の上を凝視して思う。もしこの神社に神様がいたのなら、あんな殺人鬼を招いたりはしないだろうから。
ちょうど雲に切れ間が生じ、差し込んだ月明かりが殺人鬼の顔を映し出した。
その殺人鬼――神上立人は、ニヤニヤと笑いながら天崎の来訪を歓迎していた。
「やあ。本当に来てくれたんだね、天崎クン。嬉しいよ」
「俺が来なきゃ、余計な被害者が増えてたんだろ?」
「そういう正義感の強い奴、嫌いじゃないよ」
おどけた感じの口調が、いちいち天崎を苛立たせた。
身体を預けていた賽銭箱から腰を上げた神上が、ゆっくり歩いて来る。殺人鬼と対峙するという、普通ならホラーゲームでしか体験できないような恐怖に怯むこともなく、天崎は疑問を飛ばした。
「それで、話し合いってなんだ?」
「まずはキミの質問から答えよう。昼間に言ったこと、覚えてるかな?」
場の主導権が握られているようで気に食わなかったものの、天崎としても問答は願ってもないこと。昼間と同じ問い掛けを、簡潔に口にする。
「なんでお前は人を殺すんだ?」
すると立ち止まった神上が得意げに答えた。
「じゃあ天崎クンはどうして学校に行くんだい?」
意味不明な返答だったため、天崎は黙り込む他なかった。
ただ神上の方も返事を期待していたわけではないようだ。両腕を大きく広げて、勝手に語り始める。
「だってそうだろ? 学校とは学業を修めるところ。でも、別に学ばなくたって生きていけるんだよ。僕みたいにね。そりゃ知識の多い方が有利になることは多いけど、生きる上で絶対に必要なものじゃないんだ」
「それは……」
「それが当たり前だから。親に学校へ行けと言われたから。自分が学びたいから。友達と会うのが楽しいから。人によっていろいろあると思う。けど一番の理由は、不安だからなんだ」
「不安?」
「周りと違うことをして、道を踏み外してしまったらどうしようっていう不安さ。将来に対する不安と置き換えてもいいかな。学校へ行くことで、それらの心配事が暫定的に解消されるから、学生は学んでいるのさ」
「……何が言いたい?」
神上の言葉が何一つ理解できないまま、天崎は反射的に続きを促す。
すると高説を垂れていた殺人鬼は、声を押し殺すようにして笑い出した。
「僕が人を殺すのも同じだよ。不安を解消したいんだ。殺人鬼となったこの身は、人を殺すことでしか存在証明ができない。だから僕は自分のために――人を殺す」
神をも恐れぬ傲慢な主張に、天崎は絶句してしまった。
だが次第に意味を噛み砕いていくことで、天崎の怒りを奮起させる原動力となる。
「勉強と殺人が同じな訳ねえだろ! 自分勝手な都合で他人の人生を奪うな!」
「いやいや、自分勝手こそ何よりも優先される理由だと思うよ。誰だって自分が一番かわいいんだから」
「それが通るのは自分の身に危険が迫った時だけだ! 自分か他人、どちらかしか助からないんなら、他人を見捨てるのも仕方がない。でもお前がやってるのは一方的な殺戮だ。正当性なんてあるはずがない!」
「そう、その通りなんだよ! 天崎クンの言ってることは何一つ間違っていない。僕は殺人をしなければ、この身が消えてしまうかもしれない。自分を見失ってしまうかもしれない。自分自身を助けるために、仕方なく人を殺してるんだよ! もちろん、この国の法を犯してることも知ってるよ。だから正当性がないってのも、天崎クンが正しい。けど僕は思うんだ。個人を優先しない法律の方が間違ってるんじゃないかなって」
あぁ、話が通じない。根本的に考え方が違う。
コイツはすでに――別の生き物だ。
説き伏せることを諦めた天崎は、頭を抱えて黙り込む。その仕草を話し合いの終わりと捉えたのか、今度は神上の方から訴えかけてきた。
「ねえ、天崎クン。僕の心の底にある、この感情の正体を教えてくれよ。それを知りたいがために、僕はキミを呼び出したんだから」
「昼にも言ってたよな? 何を言ってるのか、さっぱり分からない」
「ヴラドの爺さんがキミを必要としてるって聞いてから、ずっと心にしこりのようなものがあるんだ。正体不明の感情がお腹の中で渦巻いて、すごく気持ち悪いんだよ。天崎クンとは、今日初めて会ったばかりなのに」
「ヴラド三世が……俺を必要としている?」
「なんか知らないけど、キミは非常に特殊な身体をしてるんだろ? それをヴラドの爺さんが欲しがってるって聞いたよ」
そういう意味でなら、天崎としても既知の事実だった。
元『調査員』である戸塚の言葉を裏付けるように、ヨミは天崎のことを『いずれヴラド公に捧げる大事な肉体』と言っていた。つまりヴラド三世が天崎の身体を乗っ取ろうと企んでいるのは、疑う余地もないだろう。
だがしかし、それと神上が抱えている苦悩を結びつけるのは難しい。
何故、天崎が狙われることが、神上の感情を揺さぶるのか。
「俺を憎んでるってことなのか?」
「うーん……似てるけど、ちょっと違うかなぁ。言った通り、天崎クンとは今日会ったばかりだから憎む理由なんてないんだよね。でも憎む理由がないからこそ憎みたい、みたいな?」
「意味が……」
「分からないのは僕も同じさ。だから……」
刹那――神上の姿が消えた。否、ほとんど瞬間移動のような素早さで、天崎との間合いを一気に詰めたのだ。
天崎も警戒してはいたのだが、あまりの速さに接近を許してしまう。
そして――、
「ちょっとストレス発散のサンドバッグになってくれよ。そうすれば感情の正体が判るかもしれないし、心のしこりが解消するかもしれない」
狂気の笑みを露わにした神上が間近に迫ってくる。
同時に、いつの間にか手にしていたアーミーナイフが天崎の顔面を突いた。
「くっ――」
反射的に顔を背けると、ナイフの刃は頬の肉をわずかに抉り取っていった。
一歩引きながら、天崎は理解する。今の一撃、決して自分の運動能力で回避できたわけではなかった。神上がわざと直撃を外したのだ。もし彼に殺意があれば、天崎が避けるか否かに関わらず、顔面を串刺しにされていただろう。
分析している間にも、神上の追撃がやって来る。
二の腕、太腿、脇腹、幾度となく繰り出される斬撃を防ごうとするも、刃物に対抗できる手段がない。また神上はお互いの腕が届く間合いをピッタリとキープしているため、距離を取ることも叶わず、天崎は身体の傷を増やしていくばかり。
ただ、どの傷も致命傷には遠く及ばなかった。肉が裂け、わずかに血が溢れる程度。もしかしたら、すべての傷の深さが一致してるんじゃないかと邪推してしまうほど、痛みが均等に分散されているようだった。
「殺しはしないさ! ヴラドの爺さんを失望させたくないからね! でも……」
大きく振り払ったアーミーナイフが天崎の顎を裂いた。
飛び散った血液の間から、神上が嗤う。
「天崎クンが生きてるだけで苛立つのは、何でだろうね?」
「くそがっ!」
大振りの隙をつき、天崎は神上の顔を狙って拳を放った。しかし直線的な攻撃を受け流すことなど、殺人鬼にとっては屁でもない。回避するカウンターで、天崎の腕に赤い線を引く。
神上に殺すつもりがないことは、最初から分かっていた。ヴラド三世が裏にいる以上、天崎の肉体を粗雑に扱うことなどできないだろうし、本気で殺すつもりなら屋上で会った時にやっているはず。
それを逆手にとって、警戒されないよう準備らしい準備をしてこなかったのが完全に裏目に出てしまった。まさかヴラド三世の指示じゃなく、ただの私怨だったとは。
「天崎クーーン。反撃したけりゃしてもいいんだよ? ほら、ほら、ほら! ギャハハ」
攻撃の合間合間に手を出しているのだが、神上はそれを反撃と認識していなかったようだ。だが、それも仕方のないこと。まるで煙でも相手にしているかのように、天崎の拳は一度も神上を捉えていないのだから。
その一方的な攻防が始まってから、どれくらいの時間が経過しただろう。蝶のように舞い、蜂のように刺す神上の動きはまったく衰えることなく、天崎の身体を刻み続ける。その数は五十……いや、百にも達し、全身に走る痛みが天崎の感覚を麻痺させ始めていた。
ただ、それと同時に天崎は自身の身体に起こっている異変に気づく。
「……?」
神上の動きが次第に緩やかになってきているのだ。
ナイフの速度が低下し、どのような軌跡を辿るのか、初動で予測ができるほど。また天崎へ詰め寄る足さばきも、先ほどとは打って変わってスローモーションのようになっていた。
まさか舐められている? いや、手を抜いてはいるのだろう。肝心なのは、最初の一撃から勢いが変わったようには見えないこと。
ならば逆だ。神上が速度を落としているんじゃない。天崎の動体視力が向上し、奴の動きに目が慣れ始めているのだ。
血統を覚醒させようとしたわけでもないのに、何故?
浮かんだ疑問はしかし、熟考するまでには至らなかった。
ナイフを振った神上が、楽しそうに言う。
「僕の殺人を止めたきゃ、僕を殺してもいいんだよ。天崎クン!」
天崎にとって、その言葉は禁句だった。
人の命をおもちゃ程度にしか見做せない神上に対し、心の底からブチギレる。
「だったら望み通り殺してやる!」
眼前に迫るアーミーナイフの先端へ、開いた右手を差し出した。
手の平に激痛が走るのと同時に、アーミーナイフの刃が手の甲から生えてくる。自分の身体に穴が開く不快感に嘔吐しそうになりながらも、柄を握る神上の手を捕らえるため、力強く五指を閉じた。
「なっ――」
珍しく怯んだ神上は、寸でのところでアーミーナイフから手を放した。
ただ天崎が自分の攻撃速度に対応してきたことや、右手を犠牲にしたことを驚いているわけではないようだ。
じっと睨みつける天崎の目が、真っ赤に充血している。
「え、なになに? 天崎クン、ブチギレ中? ギャハハ」
天崎の手から逃れ、間合いから外れたところで神上が笑い声を上げた。
対する天崎には言葉がない。動揺もなければ、息遣いが荒くなっているわけでもない。ただただ無感情な瞳で神上を見据えながら、ゆっくりと右手のナイフを引き抜いていく。それを地面へ捨てると、穴の開いた手の平から大量の血液が滴り落ちた。
だが不思議なことに、それらが地面に届くことはなかった。
まるで雪国の屋根が氷柱を作るかのよう。天崎の血液は体外へ出た瞬間から凝固していく。最終的に、深い傷を負った天崎の右手には、血液で作られた刃渡り十五センチほどの赤い刃が握られていた。
「すごい! 天崎クンには、そんな能力があったんだ! もしかしたら僕にもできるかも?」
何を思ったのか、神上は新たに取り出したナイフで自分の左手を貫いた。
止めどなく流れる殺人鬼の赤い血液。天崎に起こった現象と同じく、即座に凝固を始め、やがて手持ちのナイフよりも長く太い物へと成長していった。
「できた」
己の血でできたナイフを得意げに見せびらかす神上。
その瞬間、示し合わせたわけでもないのに、二人は同時に飛びかかった。瞬く間に距離を詰め、お互いのナイフが衝突する。
激しい斬撃の応酬。
火花の代わりに、ナイフから剥がれた血の欠片が飛び散っていく。
欠けた刃は体内から流れる血液により、幾度となく再生を繰り返した。
「楽しい! 楽しいよ天崎クン! ギャハ、ギャハ、ギャハハハ!!」
血のナイフを滅茶苦茶に振り回しながら、神上は大口を開けて笑い叫んだ。
絶え間なく放たれる攻撃を軽くいなしつつも、天崎は自分の身体に起こった変化を冷静に分析する。
動体視力、運動能力、反射神経。いずれも、この神社を訪れた時とは比べ物にならないほど向上している。その原因はおそらく、神上と接触したことにより、天崎の中の『殺人鬼』という種族が覚醒したからだろう。奴と同じような血が流れているのは不本意だが、劣勢を覆すほどの能力を手に入れられたことには、感謝するしかなかった。
また殺人鬼の特性はそれだけでないことも、天崎は気づいていた。
身体能力自体は吸血鬼に大きく劣るものの、殺人鬼は殺意の上において、あらゆる物理法則を無視することができる。
屋上から飛び降りて無傷で着地できたのも、その一つだ。地面と衝突する寸前に全身を捻ることにより、落下速度を一時的に相殺したのである。
そして今の攻防でも、その鱗片を実感していた。
薙ぎ払われた神上の斬撃を、天崎は垂直跳びによって躱す。そこから空気を踏み台として、さらに跳躍した。
星空を背に高く跳び上がった天崎は、空中で一回転し、神上の脳天を目がけて踵を落とす。
しかし神上は紙一重で真横に避け、着地を狙ってカウンターを仕掛けてくる。天崎は神上の動作を目で追わないまま、迫り来るナイフを弾き返した。
死神に触れられるという特殊な体質もさることながら、物理法則をも無視できる能力は、殺人鬼という種族の異常性を如実に表していた。
「ってか、なーんで天崎クンはいきなりパワーアップしたの? ……ま、いっか。僕もパワーアップしちゃお」
傷一つ付けられなくなったことに焦れたのか、神上は天崎から距離を取った。そして左手に収まる血のナイフで右手を貫く。
二本目の刃だ。
「二刀流。行くよ」
神上の猛攻が始まった。
スピード自体は今までと大差ないものの、単純に注視しなければならない攻撃が二倍に増えたことで、天崎の反撃する機会が完全に失ってしまう。
二刀流こそが本領と言わんばかりに、絶え間なく斬撃を繰り出す神上。
一方、防ぐことに精一杯の天崎は、苦い顔を浮かべて後退していくばかり。
「くそっ……」
こちらも血の刃を増やすか? そう自分自身で提案するも、どうしても一歩踏み出せない理由があった。
身体能力が上がっているとはいえ、自分は神上ほどナイフの扱いに慣れていない。単純に武器を増やしたところで、戦況が好転するとは思えなかった。
また当然のこととして、血の刃を作ることのデメリットも存在するわけだが……。
などと逡巡していると、天崎と神上、お互いがまったく予想していなかった不測の事態により、形勢は一気に逆転する。
交差された二本の刃が天崎の首を狙う。迫り来るそれらを少し強めに弾いた瞬間――神上の刃は、いとも簡単に根元から折れてしまった。
「あ……あれ?」
呆気に取られながら、神上は空中を舞う自分の刃を目で追った。
血の刃を増やすことは、決してパワーアップなどではなかった。必要となる血液量が倍になる分、強度が脆くなってしまう諸刃の剣だったのだ。失態を犯した神上はもちろん、その事実は天崎も知らなかった。
さらに言うまでもなく、刃の再生も一本の時と比べて格段に遅くなる。
思いがけず訪れたこのチャンスを天崎は逃さない。
武器を失い、無防備になった神上の肩へと自らの刃を突き刺した。
「ぐっ……」
顔を歪めた神上が、たたらを踏んだ。
隙と見た天崎は容赦なく追い討ちをかける。
がら空きとなった鳩尾へ前蹴りを食らわせることで、神上は背面へと倒れ込んだ。
だが、そこは殺人鬼。異常な体幹を以て、崩れた体勢を無理やり立て直そうとする。もちろん天崎がそれを許すはずはない。
仕切りなおされる寸前で飛び掛かった天崎は、そのまま神上を石畳の上へ押し付ける。
今日の昼間、屋上での一幕とは完全に立場が逆となった。
「終わりだ」
低い声で宣言した天崎が、血の刃を振り上げた。
この刃をコイツの首に突き立てれば、それで終わり。もう誰も犠牲になることはない。これ以上被害者を出さないためにも、神上立人はここで殺さなければならない。
そう自分に言い聞かせ、天崎は血の刃を振り下ろそうとしたのだが――、
まるで金縛りにでもあったかのように、右腕がピタッと停止した。
できない。できるはずがない。殺せるはずがない!
たとえ相手が極悪人であろうと、人を殺すことは悪なのだから。
「なんだ。殺んないのかよ」
「――ッ!?」
顔面を覆う前髪の隙間から、無機質な瞳が天崎を射抜いた。
すると何の予備動作もなく神上が飛び起きる。馬乗りになっていた天崎を脇へ放り出すと、立ち上がる反動を利用して回し蹴りを放った。
咄嗟のことで防御も間に合わず、神上の踵がもろに脇腹へ入る。あまりの衝撃に石畳の上を転がった天崎は、たまらず胃液を吐き出した。
「ヴラドの爺さんが気にかけてるって言うから、すっごい人だと思ってたんけど……なーんか拍子抜けだなぁ。人も殺せないなんて」
ゆっくりと歩いてくる神上の姿を、天崎はえずきながら睨み上げた。
奴は完全に体勢を整えているようだ。両手の刃もすでに再生し、刺された肩が枷になっている様子もない。その上で、根っからの殺人鬼は、天崎に失望と殺意を向ける。
「あんまり特別な肉体って感じでもなかったし……よし、決めた! この人は、ここで殺しちゃおう。天崎クンは想像以上に期待外れだったから処分しましたって、ヴラドの爺さんには伝えておくよ」
身勝手な裁決を下した神上は、この時、天崎に対する殺意を初めて明確にした。
そして今度こそ息の根を止めるべく、改めて血の刃を握り直したのだが――、
その瞬間、冷気の漂う夜空から、一陣の風が降り注いだ。
「えっ? な、なんだ!?」
驚き戸惑う神上が天を仰ぐ。
しかし突風の正体は、すでに神上の視線の先にはいなかった。
まるで天崎を庇うように二人の間に割って入ったその物体は、砂埃を舞い上げながら、ゆっくりと石畳の上へ着地する。
コウモリのような漆黒の翼。月明かりを反射して輝く金色のショートヘア。
その吸血鬼――リベリア=ホームハルトは、スリット状に割れた瞳孔を見開き、己の大切な人を奪わんとする殺人鬼を静かに睨みつけていた。




