第10章 殺人鬼からの招待状
屋上の扉を開けると、冬季特有の乾いた風が天崎の頬を撫でた。
急な温度変化のせいで涙が浮かびそうになるも、瞼を閉じるのは一瞬に留める。どこから神上が襲ってきても対応できるよう警戒しながら、天崎は慎重に屋上へと足を踏み入れた。
視界に入るのは、転落防止用のフェンスと塗装の剥げたベンチのみ。授業が始まったばかりなので生徒の姿がないのは当然だが、死体を落としたであろう人物も見当たらない。他に隠れられそうな場所もないはずなのだが……。
まさか入れ違いだったか? そう頭の中を過った、その時だった。
禍々しい気配が、天崎の背後に降り立つ――、
「やあ」
耳元で囁かれた殺意により、天崎の生存本能が爆発した。
まるで競泳のスタートでも切るかのよう。驚異的な反射神経で前方のコンクリートへ飛び込んだ天崎は、そのまま全身を捻って一回転する。そして安全圏まで距離を取ると、すぐに立ち上がって背後の人物と相対した。
半袖のTシャツ一枚に、大きめのカーゴパンツ。屋外だというのに、足元は室内用のスリッパのみ。そして何より特徴的なのが、乱雑に伸ばした前髪の隙間から覗く、肉食獣のような鋭い眼光だ。
間違いない。こいつが三人の人外と一人の人間を殺し、さらにさくらに重傷を負わせた殺人鬼――神上立人だ。
憎むべき相手を前に、天崎は拳を強く握りしめる。
しかしヤケクソになって殴りかかるには、まだ情報が足りなかった。
おそらく奴は扉の上に隠れていたのだろう。だが何故すぐに逃げなかった? どうして背後を取った瞬間に殺さなかった? そもそも何のために屋上から死体を落としたのだ?
次々と浮かんでくる疑問が、感情の暴走に歯止めをかける。
するとニヤニヤと細く微笑んでいた神上が口を開いた。
「キミが天崎クンだね?」
「そういうお前は、神上立人で間違いないんだよな?」
質問には答えず、天崎は低い声で問い返す。
ただ神上としては、その返答は想定していなかったようだ。
「あれ、バレたのって顔だけだったよね? まさか名前まで知られてるとは思わなかったな」
それは石神から提供された情報だったが、わざわざ教えてやる義理はない。
また名前を手掛かりに、安藤は神上の素性まで辿り着いていた。
神上立人という人物は、事件性があったかどうかは別として、わずか三歳で自分の父親を殺害しているらしい。さらに六歳の頃に失踪し、それからの足取りは完全に不明だった。
この殺人鬼がどのような人生を歩んできたのか、天崎は知る由もない。
だからこそ最初に対面した際に投げかける言葉は、すでに決まっていた。
「お前はどうして人を殺すんだ?」
高鳴る鼓動を無理やり抑え込むように、天崎は静かに問いかける。
しかし神上は茶化すような笑みを浮かべながら、人差し指を口の前に立てた。
「おっと、その話はまた今度。今は時間がないからさ」
「?」
そのまま指の先を屋上の外へ向ける。地上の方から生徒たちの騒ぎ声が聞こえてきた。
警察や救急車が駆けつけている様子はないが、もう五分もしないうちにそれらも到着するだろう。そして死体が上から落ちてきたのであれば、警察は屋上も調べに来るはず。確かに時間はない。
「お前、さっきの人は……」
「みんなの意識を下に集めるために落としたんだよ。天崎クンなら僕の元へ来てくれると思ってね」
「なっ……」
相手の言葉が一ミリたりとも理解できず、天崎は絶句した。
自分を呼び寄せるためだけに人を殺した、だって? 確実に伝わるかも分からないのに? そんなことで一人の命を?
今は殺人鬼であることを差し引いても、神上立人が本当に自分と同じ人間だったのか、天崎には分からなかった。
「ふっ……ふざけるな!」
「わっ。怒った怒った、ギャハハハ。でも安心しなよ。あの人間は元々悪人さ。死んでも誰も悲しまない、社会のゴミだよ」
「そういう問題じゃない! 相手が悪人だったとしても、殺していい理由になるはずがない! お前が命の価値を計るな!」
そうでなければ天崎が抱える苦悩など無意味に等しいだろう。
ヨミは敵だ。自分にとっては、両親の人生を弄んだ極悪人と言っても過言ではない。けど、だからといって死んでもいいとは……自分の行いが正しいとは決して思わなかった。
故に天崎は神上立人を全否定する。
人を殺した罪が法で裁けないのなら、償う方法は一つ。
事故だったからと正当化せず、己の罪を自覚し、背負い続けること。それこそが償うための罰だと信じ、天崎は日々自分を戒めてきた。
にもかかわらず、この男は朝の挨拶でもするように人を殺す。そこに罪悪感の欠片もなく、淡々と。
許せない。許せるはずがない。
あまりに価値観が違いすぎる殺人鬼に向け、天崎はあらん限りの敵意を放った。
それに対し、神上は相変わらず人を小馬鹿にしたような笑みを張りつけて言葉を返す。
「それも含めて、キミとゆっくり殺し合いたい」
「話し合い?」
「そう、殺し合い」
満足げに頷いた神上は、くしゃくしゃに丸めた紙を天崎の足元へ放り投げた。
「そこに時間と場所が書いてあるから、必ず来てよ。来てくれなきゃ、被害者がさらに増えると思ってね」
「脅迫のつもりか?」
お前の思い通りにはさせないとでも言うように吐き捨てた天崎は、その意思を行動で示すため、ゆっくりと右腕を上げた。
「場所を移す必要はない。お前はここで捕まえる」
右手の人差し指に牙を立て、開戦を宣言する。
「『吸血の――』」
だがしかし、噛みついた歯が皮膚を破ることはなかった。
天崎の脳裏に、つい二週間ほど前に体験したトラウマが蘇る。暴走した悪魔の右腕がヨミの身体を握り潰す、あのトラウマが。
そして、その一瞬の躊躇いが神上の付け入る隙となった。
予備動作もなしに驚異的なスピードで距離を詰めた神上は、その勢いに乗ったまま天崎の肩を突き飛ばした。心の迷いが反応を鈍くしたためか、天崎は受け身も取れず転倒してしまう。
背中を強かに打ち付けた後、即座に起き上がろうとするも、それも叶わず。馬乗りになった神上に両肩を押さえ込まれてしまった。
すぐ真上に殺人鬼の顔が迫る。
すだれのような前髪の奥で爛々と輝く瞳が、天崎の眼球を射抜いた。
「ねえ、天崎クン。この感情の正体を教えてくれよ」
「くそっ!」
寝転んだ状態から無理やり膝蹴りを食らわせようとする。だが天崎の行動を予期していたかのように、神上は軽々と飛び退いた。そのままバックステップでフェンスの方へと移動していく。
「じゃ、待ってるよ」
まるで親友と遊ぶ約束でもするかのよう。
気安く笑いかけた神上は、フェンスを一気に飛び越えた。
「待ちやがれ!」
「お前が待て、天崎!」
呼び止めたのは安藤の声だ。見れば、ちょうど屋上へ到着したばかりの安藤が扉のすぐ側にいた。
何を待つ必要があるのかと、天崎は安藤を睨みつける。同時に、彼の言う『待て』の意味を理解した。
無我夢中でフェンスへ駆け寄った自分は、この後どうしていただろう。さすがに飛び降りてまで追いかけるようなことはしなかったと思うが……安藤が呼び止めなければ本当に留まれていたかは、あまり自信がなかった。
鼻の頭に皺を寄せた天崎は、金網を力強く握りしめて地上に視線を向ける。無傷で着地し、全力で逃走していく神上の後ろ姿を、今は睨みつけることしかできなかった。




