第9章 夢、そして現実へ
その暗闇にいるのは、天崎東四郎ただ一人だった。
足場のない、まるで宇宙のような空間。妙な浮遊感が全身を包んでいるためか、歩こうとしても上手く足を踏み出せず、また駆け出そうにも走り方を忘れてしまっていた。
そんなに急いで自分はどこへ行こうとしていたのか。
そもそも何をしていたのか。あるいは何をしようとしていたのか。
何も思い出せない。何も、何も。
無知であることに恐怖を覚え始めた頃、ようやく暗闇が明けた。しかし天崎の目に飛び込んできた光景は、最も視たくない現実だった。
首を裂かれたさくらが、血だまりの中に倒れている。
驚いた天崎は、急いで彼女の元へと駆け寄った。
さくらの身体を抱き起し、傷の具合を確認する。だが生気のない表情と、首の骨が露出するほどぱっくりと開いた喉元を見れば、もう手遅れであることは自然と理解できた。
悔しさのあまり泣き叫ぶ天崎。
続いて隣に現れたのは、大家の死体だった。さくらと同じく首元を裂かれ、すでに事切れている。念のため診てみるも、手の施しようがない惨状だった。
さらに新しい死体は増えていく。
空美、安田、円、高槻。その全員がおののき荘の住人であり、いずれも首を裂かれて床に伏していた。
誰がこんなことを?
考えるまでもない。犯人は神上立人という名の殺人鬼だ。
怒りに満ちた天崎は、殺人鬼の顔を思い浮かべて拳を握る。
だがしかし、正面に現れたのはリベリアだった。
何故ここに彼女が? そう疑問に思うこともなく、笑顔で手を振っているリベリアの元へと歩を進める。
それと同時に、思い出したくもない記憶が引っ張り出された。
リベリアの背後に、トレンチコートの男が浮かび上がる。
その男の右手には、防災用の手斧。
危ない! と叫ぼうとしても、不思議と声は出なかった。
弧を描いて振り下ろされる手斧は、結末を容易に推測させる。
切断されるリベリアの首。また一つ増えた知り合いの死体。
絶望に打ちひしがれた天崎は、その場で膝をついた。
血の涙を流し、目の前で嘲笑う二人の男を睨み上げる。
一人は殺人鬼、神上立人。もう一人は元『調査員』の人間、戸塚秀明。
憎い。こいつらが憎い。自分の大切な人を殺した、こいつらが――。
心の中で生まれたあらん限りの憎しみを奴らにぶつけるも、気づけばもう一人、自分を見下ろす影が増えていた。
あまり馴染みのない顔。しかし絶対に忘れない顔。
神上と戸塚の横に佇んでいたのは、天崎自ら命を摘んだ人魚――ヨミだった。
突然、天崎の右腕が熱を持ち始めた。筋肉が膨張し、人を包めるほど巨大化する。暴走した右腕は、獲物に襲い掛かる肉食獣が如く、ヨミの身体へと喰らいついた。
ぐちゃっと音がして、五指の間からトマトのような赤い液体が滴り落ちる。
瞬く間に元通りになった手の平を呆然と見つめる天崎。その両手は、決して拭い取ることのできない汚れで穢れていた。
この汚れは人を殺した罪の証だ。
そこにいる神上や戸塚と同じように。
同じ? いや違う。自分は殺すつもりなどなかった。あれは事故だ。奴らとは違う。違う、違う。同じじゃない。殺したくて殺したわけじゃない。違う、違う、違う。俺は――人殺しじゃない!
決して落ちることのない汚れの中で溺れたまま、天崎は自分で自分を追い詰め――、
パコッ! という音とともに頭に衝撃が奔り、天崎は夢から覚めたのだった。
目を開けると、最初に視界に入ったのは薄茶色の木目だった。
つづいて自分の額が机の表面と接触していることを理解する。ゆっくり頭を上げることにより、ようやく今の状況を把握することができた。
横に立って自分を見下ろしているのは、丸めた教科書を手にした国語の教師。さらに着席したままこちらを窺うクラスメイトの中には、くすくす笑っている奴もいる。
つまり授業中に居眠りしていたところへ、教師の鉄槌が落ちたというわけだ。
「天崎。顔、洗ってこい」
「……すみません」
寝ぼけた頭で反射的に謝った天崎は、気怠そうに立ち上がった。
その際、クラスメイトの笑い声がさらに大きくなる。あぁ、普段と変わらない幸せそうなクラスだなぁ。などと思いながら、天崎は恥ずかしそうに教室から出て行った。
そんな当たり前の日常に触れたためか、はたまた教師が頭を叩いたせいか。居眠り中、どんな夢を見ていたのか、天崎の記憶からキレイさっぱり消え去ってしまったのだった。
「ずいぶんと寝不足のようだね」
「まあな」
国語の授業が終わるやいなや、安藤がやってきた。次の授業もすぐだし、特に話したい気分でもなかったため、天崎は眠たいことをアピールするように、大げさに欠伸をかました。
「毎夜毎夜、自分を餌にして殺人犯をおびき出そうとしてるんだって?」
「うえっ」
さすがに驚きを隠しきれず、途中で止まった欠伸が変な所に入って噎せてしまう。
殺人犯を探していることは、誰にも言っていないはずなのに……。
「……知ってたのかよ」
「半分鎌かけさ。夜に外出していることはさくらさんから聞いてたから、もしかしたらと思ってね」
「あっそ」
咎めるわけじゃないのなら、ほっといてくれ。とでも言いたげに手を払おうとしたのだが、安藤が話しかけてきた意図に気づき、ギリギリで堪えた。
「んで、事件の状況は?」
さっさと本題へ入る。
しかし安藤の反応は芳しくなかった。
「変わりないよ。あれから数日ほど経ってるけど、捜査も進んでないし、新たな被害者も出ていない。警察と『調査員』も頭を抱えてるみたいだ。おそらく顔が割れたから、犯人は身を潜めてるんじゃないかな?」
「そうか」
特に失望することもなく、天崎は無感情のまま頷いた。
ふと、クラスメイトと談笑している月島が視界に入る。伝えなきゃいけないことを思い出して、天崎は彼女に声を掛けた。
「月島、ちょっといいか?」
「えっ、えっ、……な、何かな?」
急な呼び出しに、必要以上にキョドる月島。始業式以来ずっとこの調子なのだが、他の女子との会話中に天崎が割って入ることなど滅多になかったため、戸惑いに拍車が掛かっているのだろう。
友人たちに茶化されながら、月島が小走りでやってくる。
「月島はいつ頃おののき荘に引っ越してくる予定なんだ?」
その質問は想定していなかったのか、天井を見上げて考える月島の口から答えが出るのに少し時間を必要とした。
「うーん……今月か来月くらいにしようかなとは思ってるけど……」
「悪いんだけど、入居を少し先延ばしにすることはできないか?」
「えっ……」
おののき荘に引っ越してくるなというニュアンスで捉えたのかもしれない。月島の声には、驚きと落胆が入り混じっていた。
しかし現時点で月島をおののき荘に入居させるわけにはいかない理由があった。
リベリアが言うには、殺人犯は大家の部屋だと知った上で訪ねてきたらしい。人魚のさくらだけならまだしも、人間の大家までターゲットにされた。つまり奴の狙いが『人外』から『おののき荘の住人』に切り替わったのは明らかだった。
「ちょっとおののき荘全体が絡む面倒ごとに巻き込まれててさ、今引っ越してくるのはお勧めしない。つってもすぐに解決すると思うし、解決したらちゃんと報告する。部屋が埋まらないよう大家のばっちゃんにも言っとくからさ」
嘘は交えなかったが、詳しく説明するのは憚られた。
気の弱い月島のことだ。殺人事件と聞いただけで無駄に怯えてしまうだろう。
「うん、分かった」
意外にもすんなり受け入れてくれて、天崎はホッと安堵した。
用件を伝え終えると、月島は元の女子グループの所へ戻っていく。その背中を見ながら、安藤がポツリと呟いた。
「すぐ解決できるといいね」
他人事のようにぼやく友人の一言に、天崎はムッとしたのだった。
十分の休憩時間は非常に短く、ちょっと話しているうちに終わってしまう。まあ次の授業は移動教室でもないし、教科書の準備は教師が来てからでいいやと、天崎はのんびり欠伸を噛み殺したのだが――、
平穏な日常は、突然の悲鳴とともに脆く崩れ去っていった。
「きゃああああああああ!!!」
「な、なんだ!?」
甲高い金切り声は教室の外から。廊下側ではなく、校庭の方だ。
天崎をはじめとするクラスメイトは、何が起きたのか確認するため窓の方へと詰め寄っていく。それはどのクラスも同じだったようで、左右の教室でも多くの生徒が窓から身を乗り出していた。
叫び声の発生源はどこなのか、天崎は校庭をぐるっと大きく見渡してみる。しかし異変を発見した生徒たちのざわめきは、意外と近場から聞こえてきた。
「えっ、なになに、なんの悲鳴?」「どうした、どうした?」「なに? 自殺?」「誰?」「うわっ、めっちゃ血ぃ出てんじゃん」「うえぇ、見なきゃよかった」「やばいやばいやばい!」
異常事態が発生した現場を、体育で外に出てきた生徒たちが遠巻きに眺めていた。
場所は校舎に隣接する花壇の上。季節がら何も植えられていない土の上に横たわる、見知らぬ男の死体が一つ。指を差している生徒もいるように、おそらくその男は校舎の屋上から落ちてきたのだ。
先ほど耳が拾った、『自殺』という単語が頭を過る。
しかし天崎は瞬時にその可能性を否定した。
常人よりも遥かに視力の良い天崎の目が、地上で仰向けに倒れている男の死体をはっきり映す。喉元がぱっくり裂かれ、頸動脈から流れ出た血液が花壇に朱い花を咲かせているのだ。
ただ単に飛び降りただけでは、あんな傷になるはずがない。
さらに天崎は石神の言葉を思い出した。神上立人と遭遇したのは病院の屋上だった、と。つまり注目すべきは死体のある階下ではない。上だ!
一瞬で判断した天崎は、弾かれるように窓際から飛び退いた。そして未だ階下を見下ろして騒いでいるクラスメイトに背を向け、教室を飛び出していく。
「待て! 天崎!」
制止する安藤の声も無視し、天崎は全速力で屋上を目指したのだった。




