第6章 鬼と鬼との鬼ごっこ
殺人鬼、神上立人は困っていた。
戸塚からおののき荘の住人を殺せという指示を受けたはいいものの、未だに達成できていないのだ。特に誰からという指定もなく、制限された条件は、できるだけ目撃者を出さないようにすることのみ。場合によっては、助っ人もあてがうという。
メインターゲットの割には、前座の狼男や死神よりもひどく簡単な仕事だな。などと高を括っていたのだが、この数日間、不思議とそのチャンスに巡り合わなかった。
尾行をしても決して一人になろうとしないし、多くの住人は部屋から出てくることさえも少なかった。十二年間も紛争地帯で過ごしてきた神上ですら、『こいつら普段どういう生活を送っているんだ?』と、心配になってしまうほどだ。
結局、助っ人の力を借りても自称人魚しか手を出すことができず、また不覚にも殺し損ねてしまった。自分の欠点と目撃者を出さないという条件がなければ殺せていただけに、神上は悔しそうに唇を噛むのだった。
それにしても、何故ここまでチャンスに恵まれないのか。その間の悪さは、まるでこっちの行動が筒抜けになってるんじゃないかと疑ってしまうほど。
四人も殺したから警戒されている?
人魚を襲ったことから、標的がおののき荘の住人だとバレてしまった?
そんなことは百も承知。人を殺すためなら、どんな逆境も乗り越えるのが殺人鬼。標的に警戒されただけで尻尾を巻いて逃げてしまっては、殺人鬼の名が廃る。それは自分自身の存在を否定するようなものだ。
だから神上は強硬手段に出た。
直接おののき荘に赴き、住人を――殺す。
時刻は夜中の九時。寝るには早く、外を出歩くには遅い時間帯。神上は、暗闇の中で静かに佇むおののき荘を見上げていた。
来客を装い、玄関口に出てきた住人の首を裂き、そして逃げる。それだけだ。
神上の足取りに迷いはない。まるでアポなしの友人宅へお邪魔するように、少しだけ遠慮がちな忍び足になりながら、彼は一階の部屋のインターフォンを押した。
部屋の中で人が立ち上がる気配。小走りで玄関までやって来る。
鍵が解かれる音とともに、ゆっくりと扉が開いていく。
その瞬間だった。
ポケットからナイフを取り出した神上は、開きゆく扉の隙間に腕を捻じ込ませた。
相手の首筋に手が届いたのなら、後はナイフを横に引くだけ。一瞬後には、血だまりの中を倒れるターゲットを目にすることができるだろう。その姿を確認したら即退散だ。
頭の中でシミュレートした通り、ナイフを突き出すのと同時に逃げ腰になる神上だったのだが……予定は思わぬところで狂うことになる。
ターゲットの首を狙ったナイフが、扉の向こうでピタッと止まったのだ。
まるで間違えて壁に刺してしまったかのよう。押しても引いてもビクともしない。神上がいくら力を込めようとも、ナイフは決してその位置座標を変えようとはしなかった。
何が起きているのか分からず、神上の顔に焦りが見え始める。
そんな中、開きかけだった扉が徐々に隙間を広げていく。そして扉の裏から現れた光景を目の当たりにし、神上は驚きのあまり目を見開いた。
金髪の女の子が、二本の指でナイフを挟みながら立っていたのだ。しかも何故か、してやったりと言わんばかりに妖しげな笑みを浮かべて。
もちろんナイフを止められたことも、指で摘まんでいるだけで微動だにしないことも驚きなのだが、神上が何よりも目を疑ったのは、その相手だった。
ターゲットが――違う。
「あっれー、おっかしいな。ここって大家さんの部屋ですよね」
「そうですよー」
あくまでも冷静を装う神上に対し、金髪の女の子――リベリア=ホームハルトは、接客業で培った作り笑いを振り撒いた。
「でも大家さんって、けっこうお年を召した方だって聞いてたんですけど」
「その大家さんとは今日だけ部屋を交換しました。殺人犯の貴方が、今夜ここを訪れると予知に出たらしいので」
「予知?」
その単語を耳にした神上はピンとくる。予知みたいな超能力があれば、今日だけ部屋を交換して待ち伏せることも確かに可能だ。それに住人たちに忠告して、行く先々で神上との接触を避けることも。
「大家さん、自分のことだとはっきりと未来が視えるみたいなんですよね。他人だと長く一緒にいるほど正確になって、出会ったばかりなら占い程度にしかならないらしいんですが」
だからこそ、さくらに降りかかった災いを回避することができなかった。
他にもいろいろと制限はあるのだが、殺人犯相手にそこまで教えてあげる義理はない。彼女は小悪魔的な微笑を見せた後、本当に悪魔みたいなことを言い放った。
「というわけで、観念して捕まってください。……まあでも、少しくらい痛めつけちゃっても構わないですよね。食べ物の恨みは恐いですよぉ」
瞬間、リベリアの手刀が神上の手首に振り下ろされた。いつかどこかでやったような、簡易的なギロチンだ。
しかし神上の手首が切断されることはなかった。殺気を感じ取った彼は、一瞬の判断でナイフから手を放し、腕を引っ込める。リベリアの手刀は、ギリギリのところで空気を裂いただけで終わった。
「む」
避けられたことに納得いかないのか、リベリアが不満顔を露わにした。
次に彼女は、奪ったナイフを神上に投げ返した。ただナイフの扱いに慣れていないため、ダーツのように刃先を向けて攻撃するなどという器用なマネはできない。ほんの少しだけ隙を作ることができれば、それでよかった。
だが首を横に振っただけで難なく避けられてしまう。しかも瞬きもせず、平然と。
「むむ」
さらに表情を険しくするリベリア。
そのまま彼女は神上の腕を掴もうとする――が、それも軽く手で弾かれてしまった。
「むむむ」
この時点で、さすがのリベリアも相手の異常性に気づく。
手首ギロチンも、ナイフの投てきも、腕を捕らえようとするスピードも、並の速さではないのだ。目にも止まらないどころか、普通の人間には残像しか映らないほど。それをこの殺人鬼は、いとも容易く対応した。
身体能力が常識の域を越えていると聞いていたが、よもやここまでとは……。
軽く捻り潰せる相手ではないと考えを改めたリベリアは、さらに出力を上げようとする。
しかし、その判断はあまりに遅すぎた。
突然、神上が後ろへ跳んだのだ。
「なっ――」
距離を取るためのバックステップなどという生易しいものではない。まるで巨大な磁石が彼の背中を引き付けるように、塀までの約四メートルを予備動作なしの一足で飛び越えたのだ。
そして片足で着地するやいなや、今度は垂直に跳ぶ。塀の上辺りを踏み台にした後、彼は隣の民家の屋根へ到達した。
「金髪の女の子だけは相手にしちゃダメって言われてるから、今日は退こう」
そう呟いて踵を返した神上は、民家の屋根伝いに逃げていった。
暗闇に紛れる殺人犯を、呆然としたまま見送るリベリア。
その時、本来のリベリアの部屋が勢いよく開かれた。中から出てきたのは、息を潜めながら一部始終を見ていた天崎だ。
「リベリア! 殺人犯は……」
「すみません。逃げられましたぁ……」
しょぼんと肩を落として謝るリベリアを見て、天崎は激しく悪態をつく。
「くそっ、だから結界を張っとけって言っただろ!」
「さっきも説明しただろ。閉じ込められるような強力な結界なら入る前にバレる危険性があるし、気づかれないほど脆弱なものなら意味をなさない。そもそもリベリアさんから逃げ切れる輩を拘束する結界なんて、僕の知識にはないよ」
同じ部屋から出てきた安藤は、天崎の怒声を煩わしそうにしながらスマホを操作していた。
「ひとまず犯人の顔写真は撮った。上にいるさくらさんに同一人物か確認してもらって、警察やら『調査員』やらにそれとなく流しておくよ」
「いえ、その必要はありません」
安藤の言葉を遮ったリベリアは、暗闇に染まる隣家の屋根を見上げていた。
「追います」
「リベリア! 待て!」
慌てて呼び止める天崎の声にも耳を貸さず、リベリアは夜の空へと飛び立った。
彼女が急いている理由は、殺人犯を捕えられなかった負い目があるからに他ならない。躊躇いなくナイフを向けてくる狂気。扉越しの相手の首を正確に狙う腕前。あれほどの危険人物、決して逃してはならなかった。
だからこそリベリアは自分自身に憤りを感じてしまう。満足に責務を果たせなかった自分のせいで、おののき荘の人たちを再び危険に晒すことになるのだから。
街を一望できるほどの高度に達したリベリアは、神上が逃げていった方角へ目を凝らす。すると、ものすごいスピードで移動している人影を発見した。
「もうあんな遠くに……」
全力で駆ければさほど不思議ではない距離なのだが、神上は未だ民家の屋根伝いに逃走しているのだ。パルクールとしては驚異的な速さだった。
「どこへ向かっているかは知りませんが、私から逃げられると思ってるんですか?」
得意げに呟き、前傾姿勢になるリベリア。
そこで、ふと気づいた。指先から変な匂いが漂っている。
「これは……」
爪にこびり付いていたのは、人の皮膚と少量の血液だった。
すぐに思い至る。殺人犯との攻防は完全に不発だと思っていたが、違った。ほんの少しだけ爪先が掠っていたようだ。
「これはラッキーですね。どこかに隠れられても困るので、頂いておきましょう」
リベリアは血液による索敵ができる。範囲は狭く、相手が出血していないと意味はないが、殺人犯を追跡している現状、まったくないよりはマシだ。
そんなわけで爪に付いている血痕を舌で舐め取ったのだが……。
「んん!?」
驚きのあまり、彼女は目を白黒させた。
例えるなら、麦茶と間違えて麺つゆを飲んでしまったような反応だ。麺つゆ自体も美味しく飲めるはずなのだが、脳がすでに麦茶と認識しているため、妙な味わいになってしまう。リベリアの舌は、まさに同じことが起こっていた。
殺人犯が人間だと思い込んでいたからこそ、その血の味に驚愕したのだ。人間の他に、何かまったく別の物が混じっているような気がしたから。
アレは本当に――人間なのか?
分からない。分からないが、警戒レベルを引き上げるに値する要素ではあった。
神上の上空に到達したリベリアは、拳を握るのと同時に急降下を始める。そのまま彼の頭頂部を殴りつけた。
「おっと」
しかしリベリアの鉄槌は紙一重で躱される。
拳が頭に触れる寸前、彼は真横へ跳んだ。全身を独楽のように捻った後、アクロバティックなバク転を披露しながら距離を取る。
足を止める神上と、屋根の上へ静かに降り立つリベリア。
殺人鬼と吸血鬼が対峙する。
「やっぱ教えられた通り、周りに被害が出るようなことはできないんだね」
相手の弱味を見極めた神上は、ニヤッと口元を歪めた。
彼の言う通りだ。出会い頭の攻防からしても、神上の運動神経が普通の人間よりも桁違いに優れていることは明白。もし命中できるスピードで殴っていたら間違いなく殺していたし、足元の民家もただじゃ済まなかっただろう。
結局リベリアは、彼が回避できるレベルまで威力を落とせざる得なかったのだ。
もちろん彼の指摘にいちいち返事をしてやる筋合いはない。
「教えられたって、誰にですか?」
「言うわけないじゃん」
途端、神上が背を向けた。再び逃げる気だ。
待て! と叫ぼうとする猶予もなく、彼は隣の民家へ跳び移って行く。仕方なくその背中を追うも、リベリアは未だ彼の処遇を決めかねていた。
理想なのは、抵抗できない程度に痛めつけて生け捕りにすることだ。だが一連のやり取りを経験したリベリアには、それが可能だとは思えなかった。自分ほどではないにしろ、あの殺人犯もかなり争い事に慣れている。力づくで取り押さえることも、ましてや出頭するよう説き伏せることも難しいだろう。
ならば手っ取り早く殺してしまうか、少なくとも逃げられないように両脚を切断してしまおうか。相手は四人も殺し、さくらに重傷を負わせた極悪人なのだから……。
しかしリベリアは首を横に振り、その考えを即座に放棄した。
それは絶対にダメだ。悪人だから殺しても良いというのは、道理が通らない。
先ほどの手首へのギロチンだって、決して切断しようとしたわけではない。あくまでも骨折させる程度に威力を抑えたのだ。そのせいで逃げられてしまったのは、リベリアの認識が甘かったと言わざるを得ないが。
とにかく、殺人犯はなんとしてでも生かして捕える。天崎との約束だ。
飛行速度を速めたリベリアは、一瞬にして神上の真横へ並んだ。空中に浮いたまま身体を回転させ、彼の脇腹に渾身の回し蹴りをお見舞いする。だが神上は、中段に迫るリベリアの脚を難なく飛び越えた。
「むむむむ」
反撃することもなく、神上は一目散に逃げていく。
つづいてリベリアは地面に降りて小石を拾った。それを大リーガー顔負けの剛速球で投げつけたのだが……背中に目でも付いているのか、身体の軸を横へずらしただけで、軽々と避けられてしまった。
「むむむむむ」
ここまで手応えがないと、苛立ちを通り越して困り果ててしまう。
一旦仕切り直すため、リベリアは再び空へと飛翔した。
「これは本当に骨が折れそうですね……」
自然と浮かんだ苦い顔から、愚痴が漏れるほどだ。
だが相手の体力も決して無尽蔵ではないだろう。いずれどこかで休むはずだ。今はとりあえず、奴を見失わないようにするのが重要。
上空からの監視に徹していると、ふと神上の進行方向に気づいた。連なる民家の明かりが途切れ、代わりに列を成す自動車のヘッドライトが暗闇に瞬いている。彼は住宅街から離れて、幹線道路へと足を踏み入れようとしているのだ。
これはチャンスとばかりに、リベリアは再び地上付近まで高度を下げた。民家を壊すのはダメだが、道路に穴を空けるくらいなら許されるはずだ……ということにしておく。何事もタダでは済まないものですからねと、彼女は自己弁護とともに心の中でいろんな人に謝ったのだった。
想定通り、民家の屋根から降りた神上は、そのまま幹線道路に沿って走り始める。その軌跡を辿るようにして、リベリアもまた地面すれすれの低空飛行で彼の背中を追った。
ただ風圧で自動車が横転してしまうのを恐れたためか、彼女は自分が思っている以上にスピードを出せずにいた。驚異的な速度で駆ける神上とはつかず離れずの距離を保ちながら、捕縛の機を探るばかり。
もう少し開けた場所に出ないものか……などとじれったく思っていると、彼は正面に現れた坂道を登り始めた。
「ここは……」
頭をフル回転させ、この地域の地図と先ほど上空から見た景色を照らし合わせる。この上り坂は線路に跨る陸橋だ。
「まさか」
リベリアの悪い予感は的中した。
先に陸橋の頂上に到達した神上が、唐突に立ち止まった。そして電車が通りかかるタイミングを見計らって、橋の下へ飛び降りたのだ。
慌てて欄干から乗り出すリベリア。電車の屋根へと見事に着地した神上は、得意げな笑みを浮かべながら高速で離れていく。
「なんかドヤ顔してますけど、私電車より速く飛べますからね!?」
神上の笑みを挑発と受け取ったリベリアは、急いで欄干に足を掛ける。しかし即座に彼の意図に気づき、慌てて踏みとどまった。
違う。彼の笑顔は、電車なら逃げられると安心して浮かべたものではない。
今はまだ午後九時台。電車の中には多くの乗客が乗っているだろう。次の駅でも、それなりの数の人々が電車の到着を待っているはずだ。
もし大勢の人が行き交う駅の中に、あの殺人鬼が紛れ込んでしまったら?
奴は無差別に人間を殺しまくるだろう。たとえリベリアが殺すつもりで捕らえたとしても、その前に何人かは確実に死ぬ。
つまりあの笑みは、『乗客を人質に取った。これ以上追ってくるな』という彼からのメッセージなのだ。
無関係な人間を巻き込むことなどできない心優しき吸血鬼は、悔しそうに唇を噛みながら、闇の彼方へ消える殺人鬼を睨みつけることしかできなかった。




