第5章 裏で糸を引く者
おののき荘へ到着すると、一昨日と同じように天崎の部屋の前で座り込んでいるリベリアが目に入った。彼女は二人の姿を発見するやいなや、弾かれるように立ち上がった。
「天崎さん! それに安藤さんも!」
「リベリア? こんな所で何してんだ?」
「そんなことよりも、早く中へ!」
普段は見せないリベリアの慌てた様子が、事態の深刻性を物語っていた。
急いで階段を上り、彼女に促されるまま部屋の中へ入る。六畳一間の自室には、すでに四人の女性が上がり込んでいた。
まず視界に入ったのは、大家と空美と円の背中だ。当のさくらはというと、彼女たちに囲まれるように、壁に背を預けて座っていた。
「あら? 東四郎さん、おかえりなさい」
苦悶の表情を浮かべていたさくらが、無理やり笑顔を作った。
それに伴い、大家と円が天崎の帰宅に気づく。
「おぉ。帰ったかい、東ちゃん」
「…………おか」
怪我をしているのはさくらだけのはずなのに、二人の方がよっぽど気落ちしているように見えた。
「さくらさん……」
痛々しいさくらの容態を目の当たりにして、天崎は憂いに満ちた声を漏らした。
畳の上に投げ出している右脚には薄い板が添え木として当てらており、大量の包帯で固定されている。また、たった今縫い終わったばかりであろう左腕の傷口からは、生々しい血肉が覗いていた。
玄関口で突っ立ったまま、天崎はさくらの変わり果てた姿を見て息を呑む。
すると傷の具合を診ていたらしい空美が、手にしていた針と糸を片付け始めた。
「一応、縫うだけは縫ったよ」
「ありがとうございます」
二人のやり取りから察するに、どうやら治療をしたのは空美だったようだ。
「空美さんって、傷の縫合なんてできたんですか?」
「バカ言え。こんなもん応急処置にもならねえよ。リベリアや円にやらせるわけにはいかねえし、ばっちゃんは歳で目が悪いから細かい作業なんてできねえし、あたしがやる他なかったんだ。ってか、そもそもこんな深い傷、普通は即座に病院へ行くべきなんだけどな」
「なら、なんでこんな所で悠長にしてるんですか! 早く救急車を呼ばないと……」
天崎が必死に訴えかけるも、さくらは首を横に振るだけだった。
「人魚の身体は人間と構造が異なります。精密検査でもされたら大騒ぎになってしまうので、医者に診てもらうわけにはいきません」
「あたしみたいに市民権を得てるわけでもないし、保険証もないしな」
と言って、空美が立ち上がった。
「とにかく傷が治るまで安静にしてな。円のいるこの部屋なら、少なくとも悪化はしないはずだ。しばらくはリベリアが徹夜……徹昼? で警備してくれるらしいから、ここならまず安全だと思う」
「重ねてお礼申し上げます」
「んじゃ」
恭しく頭を下げるさくらの礼を受け取った空美は、力強い足取りで出ていった。
次に大家が提案してくる。
「空美ちゃんはああ言ったけど、少し良くなったら海へ帰った方がいいんじゃないかい? 人魚だからそっちの方が傷が癒えると思うし、危険も遠ざけられるよ」
「お言葉ですが、それはできかねます。あんな危険な輩がうろついていることを知ってしまっては、余計にここを離れられません」
「さくらさん!」
強情なさくらに呆れた天崎は、思わず声を荒げてしまった。
ただ彼女も自分の身を案じてくれていることは分かっているよう。苦笑いを浮かべて、虚勢を張る。
「私は東四郎さんを守るためにこちらへ来たんですよ。このザマで言うのもなんですが」
「でも……」
「そうかい。また何かあったらあたしゃも力になるから、いつでも言っておくれ」
天崎の発言を遮るように言い残した大家は、そのまま部屋から出て行った。
説得は意味がないからやめときなさい、というメッセージなのは理解できた。天崎も十分承知してはいるものの、自分の身を軽視するさくらには一言言ってやらないと気が済まない。とはいえ大家のお節介も蔑ろにはできず、結局天崎は無理やり言葉を呑み込んだのだった。
代わりに吐き出されたのは、安否を気遣う無難な言葉だ。
「それで、さくらさんは大丈夫なんですか?」
「えぇ、もちろんです。見ての通り命に別状はありません。少しお時間を頂ければ、すぐにでも治りますよ」
強がっているのは明らかだった。
額には汗が滲んでおり、冗談を言うわけでもないのに作り笑いを見せる。やせ我慢をしている証拠にしかならない。
さくらの健気な姿を見て、天崎は拳を強く握りしめた。
何故、彼女がこんな目に遭わなければならないのか。どうしてこんな非人道的な行為を軽々しくできるのか。顔も知らない犯人を思い浮かべ、天崎は行き場のない怒りに震え始めた。
すると頃合いを見計らっていた安藤が部屋の中へ入ってくる。
「よろしければ、何があったか詳しく話してくれませんか?」
「おい、安藤」
安藤の不躾な要求に、天崎は声を低くして窘めた。
事件の詳細は聞かねばならない。しかしさくらは被害に遭ったばかりなのだ。もう少し休んでもらってからでもいいのでは? という意味での叱責だったが、安藤も引き下がろうとはしなかった。
ただ、さくらは別の単語に興味を示したようだ。
「む。あなたが東四郎さんのお友達の安藤さんですか? うちの弟がいつもお世話になっています」
「弟?」
君、一人っ子じゃなかったっけ? と、安藤が怪訝な視線を向けてくる。
「俺が物心つく前からお手伝いに来てくれてるから、弟みたいに扱われてるんだよ」
そう簡単に説明した天崎は、友達に母親を見られた思春期の男児のような、バツが悪い顔を露わにしたのだった。
「安藤さんのことは東四郎さんから伺っております。なんでも人間社会を調査するために魔界から来た悪魔なのだと。ならば、お話しする他ありませんね」
「君なぁ……」
咎めるのと同時に、呆れたような声を漏らす安藤。天崎も勝手に吹聴したことに関しては自分に非があると思っているので、特に反論はしなかった。
結局、さくらを休ませるタイミングは完全に逸してしまったようだ。
二人のやり取りを見守っていた彼女は、先ほどの出来事を静かに語り始めた。
「襲われたのは買い物からの帰宅途中で、場所は歩道橋の上でした。あぁ、ちなみに買った物はすべて紛失してしまいましたので、今日のお昼ご飯はありません」
「どうでもいいですよ」
真っ先に昼飯の心配をするなんて、少しは調子を戻したのかな? と、天崎は苦笑いを浮かべた。
「相手は一人。東四郎さんよりも一つか二つくらい年上の青年でしたね。髪が長くて、この気温の中、何故か半袖のシャツ一枚で出歩いていました」
犯人の特徴を聞いた天崎と安藤が顔を見合わせた。
「目撃者の証言と一致するね。少なくとも四件目とは同一犯だと思う」
「ええ。連続殺人犯かと質問したら本人も肯定しましたし、人間『は』一人しか殺していないとも仄めかしていました」
人外が殺された三件については、一般には報道されていないはず。それを知っているとなれば、『調査員』や警察関係者くらいのもの。
つまり一連の事件は同一犯による犯行であり、さくらを襲ったのがその連続殺人犯だと、天崎と安藤は確信した。
「相手は人間でしたか?」
すかさず安藤が尋ねるも、あまり期待しているとは思えない口調だった。
見た目が人型でも、人間じゃない種族はたくさんいる。目の前のさくらが良い例だ。二本の脚に変化した人魚はどこをどう見ても人間であり、それこそ解剖でもしなければ判別できないだろう。それに吸血鬼や天使みたいに翼などの特徴があったら、先に言うはず。
案の定、さくらは困ったように眉を寄せた。
「人間だったとは思いますが……すみません。人間と人魚以外の種族をあまり見たことがないので、確証があるわけではないです。ただ、身体能力がちょっと人間の域を超えていたように思えました」
「身体能力が?」
目を閉じたさくらは、襲われた時の様子を大まかに回想する。
一瞬して距離を詰める脚力。ナイフの扱い。空中でのジャンプ。どれを取っても、さくらの中の人間像からはかけ離れていた。
「ナイフ捌きはともかく、人間を超えた身体能力、か。まあそれくらいはないと、狼男を殺害するなんてできないんだろうけど……普通の人間にそんなことが可能なのか?」
顔を伏せた安藤が、独り言のように呟いた。
犯人は人間か、それとも別の種族なのか。深く考え込む彼へ追い打ちをかけるように、さくらがさらなる情報を追加する。
「そういえば歩道橋を上がった瞬間、周りの物が一切認識できなくなりましたね」
「……どういう意味ですか?」
「言葉通りですよ。車も鳥も飛行機も、確かにそこに存在しているはずなのに、目には映らなくなって、音も聞こえなくなりました。青年が立ち去った後は、すぐ元通りになったのですが……」
「まさか歩道橋に結界が張られていたのか? 殺害現場を誰かに目撃されないように?」
無力な人間を演じる自分がよく結界術を使うため、安藤はすぐにピンと来たようだ。
しかし実体験したさくらの反応は今一つだった。
「結界、ですか。実は東四郎さんの住んでる街を少し見て回ろうと、毎回違う道を選んでスーパーに通っていたのですが……結界とは、そんな短時間で作れるものなんですか?」
「それはつまり、歩道橋を渡ろうとしたのは気まぐれだったと?」
「はい。行きとはまったく異なる帰路で、初めて通る道でもありました」
「なら不可能です。歩道橋の階段を上ってる間に結界を作るだなんて。あらかじめ準備をしておいて、標的が現れたら発動するってことならできると思いますが……」
そこで安藤は、別の可能性に行き当たった。
「もしかしたらトラップだったのかもしれない。逃げ場のない歩道橋に結界を張って、誰でもいいから通りかかった人外に襲い掛かる、とか」
「いえ、それはないと思います。相手は私が人魚だと知らなかったようですし、どちらかと言えば私個人を狙っているようでもありましたので」
「え、そうなんですか?」
その返答は完全に想定外だったのか、安藤は素で驚きの声を上げた。
さらに自分の頭の中にある情報を整理するかのように、虚空に視線を漂わせる。
「矛盾、してないか?」
「矛盾? どういうことだ?」
「つまり――」
天崎が問い返すと、安藤は言葉を選びながら、ゆっくりと答えた。
「突発的だと思しき四件目を除くと、立て続けに人外が殺害されている。だから僕は、犯人は種族を見分ける技術でも心得ているものだと思ってた。けどさくらさんが言うには、そいつは人魚だと知らずに襲い掛かった。明らかに矛盾してるだろ」
「リベリアみたいに人間と人外の区別だけできるとか?」
「ああ、そうか。その可能性もあったか。とはいえ、彼女個人が狙われていたって感覚も無視はできない」
そう言って、安藤はさくらの方を窺った。
「一つ確認します。さくらさんは最近この街に来たんですよね?」
「はい。一昨日おののき荘に到着したばかりです。過去に訪れたことは一度もありません」
「ってことは、私怨による犯行の可能性も薄い」
にもかかわらず彼女を狙う理由。
現時点で手元にある状況証拠を総合した結果、安藤はとある結論を出した。
「天崎。この一連の事件、裏で糸を引いてる奴がいるぞ」
「裏で糸を? いったい誰が……」
「それは分からない。ただ可能性として浮かんだのが……」
声を低くした安藤が、その名を口にした。
「ヴラド三世だ」
「……はあ?」
予想していなかっただけに、天崎の口からは素っ頓狂な声が漏れた。
裏に誰かいるというのは、殺人犯に情報を与えた者がいるという意味でなら理解できる。しかし何故ここでヴラド三世が出てくるのか。天崎には、安藤が導き出した結論への道筋が見えてこなかった。
「奴が部下に命令して人外を殺させてるって言うのか? 何のために?」
「動機なんて見当もつかないよ。けど、一つだけ根拠がある。歩道橋に張られていた結界らしきもの。君も、意図的に特殊な空間を作れる種族を知ってるだろ?」
「…………あ」
思い至るのと同時に、天崎は円を一瞥した。
隅で静かに話を聞いていた彼女もまた、力強く頷く。
「天使の亜空間か」
去年のクリスマス、公園で遊んでいた円とミルミルは、自らを大堕天使と自称するカラエルなる人物と遭遇した。円が言うには、カラエルはヴラド三世のやろうとしていることに興味を示しているという。なら、そいつが手を貸していても不思議ではない。
「いや、亜空間というよりは『認識阻害』の方だな」
「なんでそう思うんだ?」
「目撃者が出ることを恐れて、途中で逃げ出したからだよ。亜空間なら外からの邪魔者を排除できるだろうし、そのまま殺害するまで閉じ込めておけばいい。そういう意味では、なんで亜空間じゃなかったのかって疑問は残るけど……おっと、失礼しました」
「いえ、お気遣いなく」
思えば、殺されそうになった本人が目の前にいるのだ。少しデリカシーがなかったかなと安藤は反省するも、さくらは特に気にした様子はなかった。
「ただ、一つ気になることがありまして……」
そう言って、彼女は天崎の方を見やった。
「東四郎さん。ヴラド三世とは?」
「えっと……」
そこで天崎は、この場でヴラド三世の名を出すことの意味にようやく気づいた。
さくらは知らないのだ。現在、天崎が抱えている厄介事を。
良い言い訳が思い浮かばず、先に名前を出した安藤を責めるように無言で睨みつける。だが安藤の方も心外だと言わんばかりに肩を竦めてみせた。
「君を守るためにここへ来たって言うもんだから、てっきり話してるものだと思ったんだよ」
まあ聞かれてしまったものは仕方がない。適当に誤魔化したところで、さくらは納得してくれないだろう。なんせ被害に遭った当事者なのだから。
観念した天崎は、さて何から話そうかと、思考を巡らせたのだが――、
「邪魔するよ、天崎ちゃん」
ノックの音と共に現れた闖入者によって、会話は中断された。
家主の許可を待つことなく入ってきたのは、一階に住むぼさぼさ頭の住人、安田清志だ。彼は天崎や安藤と挨拶を交わすと、憂いを帯びた表情をさくらに向けた。
「桜枝さん、大丈夫かい?」
「えぇ。有沢さんに治療していただきましたので、順調に快復すると思います」
「そうかい」
あまりに深刻そうな顔をする安田を見て、天崎は違和感を覚えた。
さくらを心配しているのは間違いない。しかし普段の軽薄な振る舞いからは想像もできないような怒りが、彼の表情から感じ取れたのだ。
「清志さん、どうかしましたか?」
「悪いとは思ってたけど、リベリアちゃんと一緒に外で聞き耳を立ててたんだよね。それで話を聞く限り、どうやら河合のおやっさん……河童を殺したのは、桜枝さんを襲った奴と同一人物だそうじゃないか」
途端、安田の顔が憎しみに歪んだ。
「許せねえよ。おやっさんには、小さな頃から百鬼夜行とかでお世話になってたんだ。なんで罪もないおやっさんが殺されなきゃならなかったんだ」
「でも、復讐とかは……」
「考えちゃいないさ。返り討ちに遭うのが関の山だし。俺はただ、妖怪のみんなに注意するよう声を掛けるだけだよ」
そう宣言すると、安田はさっさと踵を返した。
彼が去った後、重い沈黙が部屋の中に降りる。
「じゃあ僕は、さくらさんが襲われたっていう歩道橋を見てくるよ」
「俺も行く」
沈黙を割った安藤に便乗しようと、天崎も立ち上がる。しかし腰を浮かすのと同時に、右脚を骨折しているとは思えないほど俊敏な動きで、さくらが天崎の制服を掴んだ。
「ダメですよ。東四郎さんには、私の包帯を巻くというお仕事が残っていますので」
「…………」
確かに、さくらの左腕は傷口が露出している。空美は縫うだけ縫って、そのまま帰ってしまったのだ。まるで続きはお前がやれと言わんばかりに。
「ヴラド三世という名の人物について、ゆっくりとお話ししましょう」
さくらの浮かべる笑顔が怖くて、天崎は逆らうことができなかった。




