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ドラキュティックタイム  作者: 秋山 楓
第9話『マーダー・オン・マーダー』

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第3章 殺意の始まり

 現在、桜枝さくらには小さな悩みがいくつかあった。


 一昨日の昼から天崎の部屋でお手伝い、もとい居候をすることになり、朝食も含めてすでに六回の料理を提供した。にもかかわらず、未だに円の好みが把握できていないのだ。


 日本の神様だから和食が好きなのか? と思い、昨日の昼は焼き魚や煮物などを披露した。結果は想定通り、無表情ながらも美味しそうに箸を進める様子を観測することができた。


 次の夕食は、子供の好きな食べ物上位であろうオムライスを作った。案の定、円はどことなく嬉しそうにオムライスを頬張っていた。


 そして今朝、朝食はいつも弁当に入りきらなかったおかずや夕べの残りだと天崎から聞いていたため、思い切ってサンドイッチにしてみたのだ。すると円は少し驚いていたものの、やっぱり好き嫌いなく完食してくれた。


 その時点で、さくらは少し困ってしまう。


 基本的に円はなんでも食べるのだろう。去年のお盆と年末年始に天崎の実家へ来た時も、出された物は残さず食べていたような気がする。


 果たして円に好き嫌いはあるのか、ないのか。

 それを見極めるためには致し方ない。

 心を鬼にしたさくらは、くわっ! と目を見開いた。


 一度大嫌いと思われる料理を提供して、円の渋い顔を観察する。それを表情変化の指針にしようと考えたのだ。


 今後できるだけ円の苦手な物を避けるために、今日だけはあえて苦手そうな物を出すという矛盾。嫌々料理を口に運ぶ円の顔を想像しながら、さくらは心の中で懺悔の涙を流したのであった。


 というわけで、今日のお昼ご飯はピーマンの肉詰めである。さくらは今、スーパーでお昼の買い物を終え、大量のピーマンと挽肉の入ったビニール袋を携えながら、おののき荘へと帰宅している途中だった。


 二つ目の悩み事は、そのお昼ご飯についてである。


 天崎の学校では、昨日今日と学期初めの実力テストがあったらしい。昨日は昼前に帰ってきて普通に昼食を共にしたのだが、今日も彼の分のお昼を作ってもいいのだろうか?


 弁当を持って行かなかったから午後の授業はないと予想できるが、しかしテスト終わりの解放感は財布の紐を緩くする。友人とどこか外食に行くかもしれない。電話してみるのが一番早いのだろうが、テスト中に携帯を鳴らしてはいけないと思い、さくらは二の足を踏んでしまっていた。


 そして最後の悩みは、自分自身の事だ。


 せっかく一人暮らししている天崎の所で居候しているのだから、彼の手料理を一度は食べてみたい! と思っているのである。しかし天崎にご飯を作らせるとなると、自分がここへ来た意味がなくなってしまうため、なかなか言い出せずにいたのだった。


 ともあれ、どれも今後の生活に支障をきたすような重要な悩みではない。移動中に行う思考整理のようなもの。今はただ一刻も早くおののき荘に帰り、昼食を作るだけ。


 心なしか速くなった足取りで、さくらは国道に跨る歩道橋の階段を上り切った。

 その瞬間――すべての音が消えた。


「……え?」


 呆気に取られた声を漏らし、さくらは思わず立ち止まってしまう。


 考え事に集中しすぎていたからではない。思考を解いても、はっきりと聞こえるのだ。まったくの無音の時に鳴る、キーンという耳鳴りが。


 周囲の状況を探ろうと大きく見回したところで、さくらはさらに驚愕した。


 あらゆる音の発生源は、決して消滅したわけではない。歩道橋の下を行き来している自動車も、街路樹に止まっている鳥の囀りも、青い空を横断する飛行機も、確かにそこに存在し、肌で感じ取ることができている。ただ、さくらがそれらを認識できなくなっただけだ。


 まるで夢の中を歩いているような感覚。自分の意識と周りの環境に齟齬が発生し、混乱したさくらは一時的に身動きが取れなくなっていた。


「いったい、何が……」


 疑問を言葉にしてみても、解答は出ない。しかし変化はあった。

 歩道橋の対岸に、髪の長い青年が一人。


「…………」


 最初からそこに居たのか、それとも階段を上ってきたばかりなのか、それは分からない。たださくらは警戒心を露わにした目つきで、見知らぬ青年を睨みつけた。


 下手をすれば氷点下を下回りかねない気温の中でTシャツ一枚というのは薄着すぎるし、何より足元の室内用スリッパは季節関係なく異常な恰好である。それだけでも近寄りがたい相手だが、それ以上に引き返してでも関わりたくない要素が彼にはあった。


 長い前髪の隙間から覗いている瞳は刃物のように鋭く、さくらの姿を捉えて離そうとはしない。また吊り上がった口の端は、どことなく微笑んでいるようにも見えた。


 周囲の異常も気にならなくなってしまうほど強烈な人物を前にして、さくらは落胆のため息を吐く。こんな非常識極まりない輩が街中にいるなど、やはり人間社会は怖いな、と。


 即座に思考を切り替えた彼女は、歩道橋の階段を一瞥した。


 選択肢は二つ。警戒を維持したまま気にせずすれ違うか、遠回りになるのを覚悟の上で信号を渡りに行くか。


 相手の姿を確認してから逃げるように引き返すなど、場合によっては失礼にあたるだろう。しかし青年は知り合いでもないし、むしろ敬遠したくなる外見をしているのは向こうの方だ。失礼になろうが構いやしない。


 あと二・三秒ほど観察して、明らかにヤバそうな奴だと判断したら引き返そう。そう心に決めたさくらは、階段へ向けていた注意を青年の方へと戻したのだが――、


 目を逸らしていたほんの一瞬が、明暗を分けた。

 対岸にいたはずの青年が、すでに彼女の目の前まで迫っていたのだ。


「なっ――」


 驚く暇もなかった。

 懐へ飛び込んできた青年の右手に、サバイバルナイフを見る。


「――ッ!?」


 回避は間に合わない。仮に階段の方へ身を投げたとしても、体勢を立て直している間に追撃されるのがオチだ。


 ならば……と、さくらは身体の前で両腕を交差させた。


 視線と刃先の向きからして、青年の狙いはおそらく首。いや、寸前まではさくらの読み通りだったのだろうが、青年はあえてガードした首元に狙いを絞ったのが分かった。


 そして――、

 青年の突進により加速したサバイバルナイフが、さくらの左腕に突き刺さる。


 肉の裂ける音。腕の中に異物が混入する嫌悪感。

 ナイフの刃がレジ袋に触れたのか、買ったばかりのピーマンや挽肉が足元に散乱した。


 だが青年の猛攻は止まらない。ガードした腕ごと首を串刺しにする勢いで、ナイフをさらに押し込んでくる。勢いに負けたさくらは、そのまま欄干に背中を打ち付けた。


 一方、さくらも青年からの攻撃を防ぐだけではなかった。


 欄干に背を預けたまま、右脚を大きく抱え込む。前蹴りの狙いは青年の腹部。もちろん密着しているため蹴り自体の威力は些細なものだろうが、反撃があれば少しは怯んでくれるはず。今は距離を取ることが何よりも重要だった。


 だが足の裏が青年を捉える前に、彼は突如として後方へ吹っ飛んでいった。前蹴りが効いたわけではない。反撃を察知した青年がナイフから手を放し、回避するために自ら後ろへ跳んだのだ。


 まるでバッタのように予備動作なしで距離を開けた青年は、空になった自分の右手と、さくらの腕に刺さっているナイフを交互に見比べた。


「あれ、おっかしいな。思ったより刺さらなかった……」


 不満を垂れるように、青年は率直な疑問を口にした。


 彼の言う通り、サバイバルナイフはさくらの首どころか、ガードした左腕すら貫通していなかった。突き立てられた刀身は、そのほとんどが外部に身を晒している。


 とはいえ痛いことには変わりがない。激痛で息を荒げるさくらは、状況を整理する時間を稼ぐため、彼の独り言に返答した。


「深海に住む人魚は、体内の密度が人間とは異なるんですよ。そんじょそこらの刃物では、傷を付けるのがやっとでしょう」

「えっ。お姉さん、人魚だったの!? すっげぇ、初めて見た! って、魚の尻尾じゃないじゃん! ギャハハ!」

「…………」


 一人でテンションを上げる青年を、さくらは無言で睨みつけた。


 人魚の肉を喰うと不老不死になれる、という荒唐無稽な伝説を信じている阿呆の可能性は消えた。しかし自暴自棄になった通り魔にも見えない。青年の振る舞いは、明らかにさくら個人を標的にしているように思えた。


 いや、そもそもこの青年は人間なのか?


 歩道橋の端から端まで三十メートルはあるだろう。その距離を一瞬で詰める脚力。さらに、さくらの反撃に対して瞬時に回避できる運動神経。とても人間の動きとは思えなかった。


 そして何よりも問題なのが、周囲の音が消えたのと同時に彼が現れたことだ。まさか無関係ではあるまい。つまり白昼堂々刃物を振るっても騒ぎにならないよう、あの青年が何かしらの処置を施した可能性も十分考えられる。そちらも警戒しなくては。


 自問している間にも、だいぶ痛みに慣れてきた。深呼吸をして息を整えたさくらは、左腕に刺さったナイフをゆっくり引き抜き、足元へ投げ捨てた。


「もしかしてあなた、最近世間を騒がせている殺人犯ですか?」

「え? どうだろ。たぶんそうだよー。っていうか人間は一人しか殺してないのに、そんなに騒ぎになってるの?」


 間違いない。今『人間は』と言った。こいつがリベリアの言っていた、人間一人と人外三人を殺した殺人犯だ。


 どうして人を殺すのか。何故自分を狙うのか。

 この状況を打破するための策を巡らせながら、さくらは言葉を投げた。


「いくつか質問があります」

「答えてあげたいのは山々だけど、こっちは時間がないんだよね。だからお姉さん、悪いけど早く死んで」


 ニカッと無邪気な笑みを見せた、その瞬間だった。


 カーゴパンツのポケットに両手を突っ込んだ青年が、アーミーナイフをさくらの方へと放り投げた。ゆっくりと放物線を描きながら宙を舞う二本のナイフ。怪我を恐れなければ、掴み取ることは容易だ。しかし何故、武器を手放すような真似を?


 疑問が浮かぶのと同時に、それが罠であることに気づく。

 注意を青年の方へ戻したさくらの目の前には、ダーツのように無回転で迫り来る三本目の先端があった。


「うっ――」


 反射的に顔を背けたため、首の薄皮一枚を裂かれた程度で済んだ。


 だが彼の追撃は止まらない。自分が放り投げたナイフに追い付いた青年は、両手でそれらをキャッチして、再びさくらへと襲い掛かる。


 とはいえ今度はさくらの方も無策ではなかった。


 最悪の場合、満足に動かせない左腕を盾にして右手だけで応戦する。そう覚悟を決めた彼女は、エプロンの裏から木製のトンファーを取り出した。


「うえぇ!? なんか妙にエプロンが弛んでると思ってたら、そんな物……」


 驚いた青年が、慣性を無視してピタッと静止した。


 しかし、そこはすでにさくらの間合い。振り払ったトンファーが青年のナイフを弾く。勢いに負けて手放されたナイフは、回転しながら歩道橋の下へと落ちていった。


 つづいて逆側の手を狙うものの、こちらは不意打ちではなかったためか、ナイフを投棄させるまでには至らなかった。


 それからはさくらの独壇場だ。


 一歩踏み込むごとに、力強い一撃が青年を襲う。トンファーの方がリーチが長いため、青年は後方に退くか、小さなアーミーナイフを駆使して受け流すことしかできない。完全に防戦一方だった。


「ちょ、ちょっと待ってよお姉さん」

「先に仕掛けてきたのはそちらでしょう。あなたはここで捕えます」


 明確にした己の決意により、さくらの身体能力はさらに向上する。

 そして幾度かの打ち合いの後、ついに青年のナイフを弾き飛ばした。


「あっ!」


 声を上げた青年は、歩道橋の外に投げ出されたナイフへと意識を逸らした。


 このチャンスをさくらは逃さない。兜を割る勢いで、無防備になった青年の脳天へトンファーを振り下ろす。


 だが渾身の一撃は空振りに終わった。青年が真横に跳んだのだ。


 こんな幅の狭い歩道橋の上では、左右の回避などほぼ無意味。欄干に逃げ場を奪われた青年へ追い打ちをかけるべく、さくらはすぐさま体勢を立て直したのだが……どうやら認識が甘かったようだ。


 さくらが視線を向けた時点で、青年はすでに歩道橋の外にいた。

 手すりにぶら下がっているわけではない。完全にその身を宙へ投げ出しているのだ。


 回避行動としては合理的だ。欄干に退路を奪われたのだから、その上を跳び越せばいい。落ちて怪我をする高さでもないし、トンファーで頭をかち割られるよりはマシだろう。


 ただ落ちるのは簡単とはいえ、再び上ってくるのは難しい。地面へ降りたのなら、道路脇の階段を使用する以外に他はない。


 仕切り直すのか? それとも、そのまま逃げる気か?


 どちらにせよ青年の動向を確認しなければならない。そう判断したさくらは、弾かれるように下を覗き込んだのだが……自分の認識がさらに甘かったことを、さくらは知ることとなる。


 道路へ飛び降りたはずの青年は、欄干よりも上にいたのだ。


「え?」


 逆光になった青年の姿を見上げながら、さくらの頭の中に混乱が満ちる。

 空を飛べる種族だったのか? 翼もないのに?

 それとも地面に降り立った後、再び跳躍してきた?


 いや、仮に四メートル以上の垂直跳びが可能な身体能力であっても、そんな時間はなかったはずだ。青年が飛び降りてからさくらが覗き込むまで、二秒程度しか経っていない。


 刹那の間に駆け巡る思考は、一つの結論を導き出した。

 まさか――、


「空中で……ジャンプを!?」


 信じられないが、それしか考えられない。歩道橋から飛び出した青年は、何もない空中を蹴って跳躍したのだ。


 いったいどうやって? 原理は? 物理的に可能?


 目の前で起こった現実を受け入れるのに時間が掛かったためか、青年の次の行動に対する反応が遅れてしまった。


 空中で全身を捻った青年は、さくらの頭をがっしりと両手で掴んだ。そのまま側転をする要領で、両脚のつま先を上空へ向ける。最終的にピタッと静止することで、さくらの頭の上で倒立する体勢になった。


 あまりにアクロバティックな動きに翻弄されたさくらは、青年が視界から消えるまで身動きが取れなかった。だが寸でのところで本能が警鐘を鳴らす。


 このままでは首を捩じり切られる!

 そう察した瞬間、さくらは自らの下半身を崩した。


 両脚が地面に固定されていなければ、捩じる力も多少は落ちるというもの。あとは回転の方向に合わせて受け身を取ることにより、即死を回避する。


 想定した通り、歩道橋の床へ這いつくばったところで首を攣ったような痛みが襲った。さくらの反応が早かったのに加え、青年は未だ人魚の筋力を甘く見ているのだろう。骨が折れるどころか、むち打ち程度の軽傷に収まった。


 しかし、どちらにせよさくらが劣勢であることには変わりがない。


 バランスを崩した彼女は、その場で尻もちをつく。早く体勢を整えなくては……と思う頃には、もう遅い。さくらの頭から飛び降り、器用に着地した青年が、彼女を見下ろす形で立っていた。


「くっ――」


 いつの間にか握られていたナイフを見て、さくらは慌てて首をガードする。


 だが予想していた痛みは、まったく別の場所からやってきた。青年がさくらの膝を思いきり踏みつけたのだ。


 バキッという鈍い音がして、右脚が曲がってはいけない方向へと歪む。


「ああああああぁぁぁぁ!!!!」

「うるさいな。でも、これでもうお姉さんは逃げられない」


 微笑んだ殺人鬼がナイフを振り上げた。


 トンファーで応戦? それとも命乞いでもする? どちらにせよ、あまり現実的ではない。おそらく時間稼ぎにもならないだろう。


 結局さくらが取った手段は、目を閉じて両手を前に伸ばすだけだった。

 しかし――、


「はい、到着。よくできました~」

「とうちゃく~」


 今まさに一人の命が奪われようとしている状況の中、間の抜けた声が二つ。


 見れば、主婦らしき女性と三歳くらいの女の子が、手を繋いで歩道橋の階段を上ってきたところだった。


「だ、だめ……」


 背筋に悪寒が走ったさくらは、無意識に呟いていた。


 青年の標的は自分なのだろうが、目撃者にも容赦はしないだろう。彼はすでに四人も殺しているのだから。


 こっちへ来てはいけない。早く危険を報せなければ。


 自分の身を省みず、さくらは大きく息を吸ったのだが……ふと気づいた。青年の動きが止まっている。それどころか親子の方を見て、驚愕の表情を露わにしていた。


「えっ、そんな。なんで……」


 彼が何に目を奪われていたのか、さくらには分からない。


 だが、これはチャンスだ。わずかに残った力を振り絞り、さくらは怪我を負っていない右腕でトンファーを振った。


 もちろん青年には掠りもしない。まるで頭の後ろに目でも付いているかのように、軽々と回避する。そしてやや離れた位置で着地すると、彼は再びさくらを見下ろした。


「運がいいね、お姉さん。ま、最初に殺せなかった時点で僕の負けみたいなもんだったし、しゃーない」


 生か死かの極限状態に陥っているさくらには、青年の言葉を紐解くことはできなかった。

 何故ナイフを隠すのか。どうして殺害行為を止めたのか。


 すると青年は唐突に踵を返した。潔く諦めたのかと思いきや、その顔はどこか後ろ髪を引かれているようでもある。自分の狙った獲物が生きていることに、まったく納得していないかのように。


 そして親子が上ってきた方とは逆側の階段へ向かうと、そのまま何事もなかったように地上へ下りていった。


 ナイフで刺された左腕と、へし折られた右脚。過去に経験したことのない激痛に顔を歪めながら、さくらは彼の背中を睨みつけることしかできなかった。

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