間 章 とある人魚と『完全なる雑種』の出会い その5
ジョージたちに連れてこられたのは、岩に囲まれた小さな空間だった。
明かりが乏しいため、中をはっきりと把握することはできない。だが牢である以上、密閉された空間なのは間違いなさそうだ。
荒事には慣れているのか、ジョージたちは手慣れた様子で誠三を押し込める。そして入り口を大きな岩で塞ぐと、隙間から哀しげな声を落とした。
「天崎さま。申し訳ありませんが、この中で少しばかりお待ちください」
「待て!」
呼び止めるも、人魚たちは早々に泳ぎ去って行ったようだ。
「くそっ!」
入り口の蓋となった岩を怒り任せに殴りつけるも、ビクともしなかった。
そのまま牢の奥を探ってみる。ここは人工的に作られた空間ではなく、自然物を利用したスペース。どこかに外へ繋がる抜け道があるかもしれないと考えたからだ。
しかし露出した岩肌を手探りで調べていくも、握り拳以上の穴を見つけることはできず。また奥行きもまったくないためか、十分もしないうちに断念してしまった。
行き詰った誠三は動き回ることをやめ、思考に専念し始める。
シオンの安否は心配するだけ無駄だろう。今まで何度もヨミとの交流を咎められているような言い方だった。お仕置きくらいは受けるかもしれないが、やはり今一番案じなければいけないのは自分自身の身だ。
両親の助けを期待するのも難しい。人魚の里に行くと伝えたわけではないし、たとえ親父が人魚になれるとしても、里の場所を知っているとは思えない。
そうなると、自力で脱出するしかないのだが……。
改めて牢の中を見回してみる。
入り口の岩程度なら、破壊できそうな種族にいくつか心当たりがある。しかし他の種族の血統を覚醒させるには、人魚化を一旦解除しなければならない。間違いなく窒息死……いや、その前に水圧で圧し潰されてしまうだろう。
どうにもならなくなったら一か八か試してみるか? なんて自虐的な笑みを浮かべていると……ふと、牢の外に誰かがいる気配を感じ取った。
「天崎さん、ですか?」
「シオンか?」
声を掛けられ、誠三は岩の隙間から外を覗く。
薄暗いながらも、その顔は間違いなくシオンだと断定したのだが、その人物はゆっくりと首を横に振った。
「いえ、私たちはシオンの姉です。貴方はシオンのお友達の天崎さん……ですよね?」
「シオンの姉? ああ、そうだ。俺は天崎だ」
返事をすると、シオンの姉は顔を引っ込めた。
姿は見えずとも、岩の向こうから声だけが届く。
「貴方をここから出します」
「え? ……できるのか?」
二つの意味を含んだ確認だったが、誠三はまず物理的な懸念を抱いた。
入り口を塞ぐ際、確か数人の男性人魚の手で岩を転がしていたはずだ。外にいるシオンの姉だけで、この岩を動かせられるとは思えない。
「たぶん大丈夫だと思います。こちらは私を含めて六人いますので。それに外側にはやや傾斜がありますので、少しでも動けば、あとは自然と転がっていくかと。すみませんが、そちらから押していただけませんか?」
「分かった」
誠三が了承すると、シオンの姉とともに岩を退ける作業が始まった。
外から聞こえる「せーの!」という声に合わせて、全力で押してみる。すると岩が少しだけ動いたような気がした。
「いけそうです! もう一度!」
誠三も手応えを感じていた。脚がないので踏ん張ることは難しいが、外に六人もいればなんとかなりそうだ。
そうして三度ほど試した後、ようやく岩が外側へと傾いた。誠三の体格でもギリギリ通り抜けられそうな隙間ができる。
「ありがとう……って言いたいけど、俺を出してよかったのか?」
牢から脱出した誠三は、姉たちの頭上辺りに視線を向けながらお礼を言った。
シオン同様、彼女たち姉妹は揃いも揃って美人であり、例に漏れず上半身は素っ裸だったからだ。そんな場合ではないとはいえ、マナーとして直視はできそうになかった。
「問題ありません。これは父の意向ですので」
「父の意向? すぐ出すつもりで投獄したのか? 何のために?」
「父にも体面があります。ヨミの力を借りた者を処罰しないわけにはいきません。ですが天崎さんは人間ですし、事情を知らない様子。一度牢に入れた後、こっそり帰ってもらおうという話になったのです」
「体面を気にするってことは、シオンの父親は里の権力者か何かなのか?」
「そんなところです。それで失礼を承知の上でお願いしたいのですが、天崎さんが自力で脱出したことにしていただけませんか?」
「それは構わないんだけど……」
問答無用で牢に押し込めた謝罪と、要求を聞き入れてくれたことへの感謝を示すように、六人の姉たちは深く頭を下げた。
こうまで下手に出られると、理不尽な扱いを受けた怒りも霧散してしまうというもの。
ただ、どうしても気になることがあった。
「ヨミって何をやらかしたんだ? ちょっとしか会話してないけど、邪悪って感じでもなかったし……もしかしてヤバい研究をしてるとか?」
「それは……」
姉たちが急に動揺し始めた。まるで口にするのも憚られている様子だ。
ややあって、先ほどの長女らしき人魚が恐る恐る語り出した。
「十年ほど前でしょうか。里の人魚が数人ほど行方不明になるという事件があったんです」
「行方不明?」
「もちろんヨミは関与を否定しましたし、証拠も出てきませんでした。ですが結局、行方不明になった人魚は未だ発見されておらず……」
そこまで言って、彼女は口を閉ざしてしまった。
推定無罪。しかし火のない所に煙は立たない。だからこそヨミとの交流を禁止することに留め、彼女は今も里のはずれで研究を続けていられるのだろう。
「シオンは幼い頃からヨミの元に通ってるそうなんです。いつかあの子がいなくなってしまうと思うと、心配で心配で……」
顔を伏せて不安を露わにする姉妹たち。
だが、その物言いに誠三は違和感を覚えた。
「ちょっと待て。あんたたち姉妹は、シオンのことを疎んでるんじゃなかったのか?」
「私たちがシオンを……疎んでいる?」
まるで初めて耳にしたことのように、六人の姉妹は困惑しながらお互いの顔を見合わせた。やがて全員一致で訝しげな反応を返す。
「申し訳ありませんが、私たちの中にそのような感情を抱いている姉はいません」
「けど、シオン本人がそう言ってたんだけどな」
「シオンが?」
再び顔を見合わせると、別の姉妹には心当たりがあったようだ。
「シオンは末っ子です。どの姉妹同士よりも、過ごした時間は短い。もしかしたら、それで疎外感を感じてしまったのかもしれません」
また別の姉妹は言う。
「確かにあの子だけ母親が違うこともあり、接し方が分からない時期もありました。しかし疎んでいるとまでは……」
自分を責めるかのように、彼女たちの中には肩を落とす者もいた。
十四歳のシオンもそうだが、姉妹たちもかなり若そうだ。そうそう歳が離れているようには見えない。精神が未熟な子供の時期に、腹違いの妹との触れ合い方が分からないのは、仕方のないことだった。
「なんにせよ、それを聞いて安心したよ。シオンは別に嫌われてるわけじゃないんだな」
「はい。私たちも後ほどシオンと話して、誤解を解いておきます」
そう言って、姉妹たちは再び頭を下げた。
「シオンならびに、私たち姉妹も天崎さんに会えたことには非常に感謝しております。今後もシオンのことをよろしくお願いします」
「ああ、分かった。任せとけ」
元より関係を絶つつもりはない。シオンが困っていたら、必ず力になってやる。
心の内で、そう決心した誠三だったのだが――、
ふと、胸騒ぎを覚えた。
十年前に人魚が行方不明になった事件。
犯人と疑われたヨミ。
姉たちから疎まれていると誤解していたシオン。
……何か嫌な予感がする。
「どうかしましたか?」
「いや……俺はこのまま帰った方がいいんだよな?」
「ええ、そうしてくれると助かります。海面に出るだけなら、浮上するだけで迷うことなく辿り着けるはずです」
「分かった、ありがとう」
お礼を言って姉妹たちと別れた誠三は、ひとまず海面を目標に泳ぎ始めた。
その途中、思い立ったかのように方向転換する。
向かうは人魚の里のはずれ。ヨミの家がある方向。
自分が拘束された後、もし謹慎などしていなければ、そこにいる可能性が高い。
「頼むから、何事もないでくれよ」
取り越し苦労であることを願い、誠三はヨミの家を目指した。
誠三が牢からの脱出を試みている頃。
涙を流したシオンは、ヨミの家へと逃げ込んでいた。
「おやおや。シオンちゃん、どうしたんだい? 可愛い顔が台無しだよ」
「うっ、うっ、天崎さんが、天崎さんが……」
「そういえば、天崎の坊やが見当たらないねぇ」
ヨミが指摘すると、シオンはさらに大きな声を上げて喚きだした。
人の脚に変化するようになったとはいえ、彼女はまだ十四歳。自分の感情を完全にコントロールできないくらいには子供なのだ。
「泣いてるだけじゃ分からないよ。ま、それで気が済むならいいけどね。誰かに迷惑になるわけでもないし」
そして、それを理解しているヨミはシオンを邪険に扱うようなことはせず、ただただ少女の慟哭を聞き入れるばかりだった。
やがて声を上げることに疲れたのか、シオンの号泣が嗚咽へと変わる。
未だ喉を震わせながらも、彼女はヨミと別れてからの出来事を少しずつ話し始めた。
「なるほどねぇ。私の力を借りたことがバレて、天崎の坊やが牢へ連れて行かれた、と。いやホントごめんねぇ、私のせいで……」
「そんな! ヨミさんのせいではありません!」
「そうは言っても、変な研究をしているのは事実だからねぇ」
申し訳なさそうに頭を掻いたヨミは、自分の家を見回した。
空洞となった岩の中ではあるが、シオンの家と比べてかなり狭く、小物が溢れて雑多としている。それらは人間が海に捨てたゴミや、ヨミ自身が地上で購入した研究材料だった。
「でも天崎の坊やはシオンちゃんを庇ってくれたんだろ? 感謝しなきゃね」
「……はい」
友達くらい自由に選ばせてやれ。引き離される前、誠三は自分のために怒ってくれた。
それが嬉しくて、ついつい口元が緩んでしまう。
「……これからどうしよう」
だが、それはもう過ぎ去った出来事。未来のことを憂いたシオンの口から不安が漏れる。
「これからって? まあ、あんたにできるのは親父に直談判することくらいかねぇ。ヨミと関わったことは謝罪します。天崎の坊やを牢から出してくださいってさ」
「それはそうなのですが……私が心配しているのは、もっと先のことです」
「もっと先?」
ヨミが怪訝そうに問い返すと、シオンは露骨に視線を泳がせた。感情に流された自分の心情が、自然と吐露されてしまったことに動揺しているようだ。
とはいえ、ヨミに対するシオンの信頼は篤い。
想いをせき止めようとはせず、彼女はそのまま不安を打ち明けた。
「お姉様たちは私を煙たがっているようですし、お父様も私のことを快く思っていないみたいですし……あの家に戻っても、肩身が狭くて……」
「確かにねぇ」
自分の家に帰りたくない。思春期ならば、多くの少女が抱く感情だろう。
しかしシオンには同年代の友達がいない。自分の抱く感情が普遍的なものなのか、それとも特別なものなのか、判断ができない。
故にヨミは常識を捻じ曲げる。自分の都合のいいように。
真摯に耳を傾けていたヨミの顔が歪んだ瞬間だった。
「つまりシオンのお嬢さんは、いっそ人間に生まれたかったと言うんだね?」
「え?」
考えてもいなかった指摘を受け、シオンは呆気に取られた。
ただヨミの言葉を咀嚼していくうちに、自分の想いが傾いていくのを実感する。
「もしかしたら、その通りなのかもしれません。私は人間に生まれたかった。人間として生まれたのなら、今ごろお母様と一緒に……」
あったかもしれない、もう一つの未来。そちらを想像し、望んでしまうほど、シオンは今の環境に追い詰められていた。
その心の隙に、ヨミは躊躇いもなく踏み込んでくる。
「なら私がシオンちゃんの願いを叶えてあげようじゃないか」
そう言って、彼女は岩の隙間から小瓶を取り出した。
「この瓶の中にはね、人間になれる薬が入ってるんだ」
「人間になれる、薬? そんな物が……」
「さっき天崎の坊やにした説明は聞いていたかい? 人間を人魚にする都合のいい薬なんて存在しない。あれは『完全なる雑種』の中にある人魚の血統を刺激させて、無理やり覚醒させる薬だった」
「…………?」
「逆に言えば、人魚を人間にする薬も存在しない。けどね、シオンのお嬢さん。あんたなら人間になることができるんだ」
「何故、私なら……?」
「あんたが人魚と人間のハーフだからさ」
これ見よがしに小瓶を掲げたヨミが顔を近づけてくる。
シオンはただ、狂気に満ちたヨミの瞳を覗き込むのみ。
「それを飲めば……私は人間になれるのですか?」
「ああ、そうとも。でも先に言っておくよ。『完全なる雑種』の坊やと違って、あんたは一度人間になってしまったら、二度と人魚に戻ることはできない。残念ながらね」
「人魚には……戻れない……」
ヨミの言葉に絶句しつつも、シオンの手は薬が入っている小瓶へと伸びる。
しかしヨミは素直に渡そうとせず、小瓶を自分の背中に隠した。
「おっと。この薬を渡すためには、こちらの条件を呑んでもらわないとね」
「条件、ですか?」
「そう。シオンのお嬢さん、あんたが人間になったら天崎の坊やと結ばれなさい」
「結ばれる?」
「恋仲になり、最後には夫婦になれと言っているのさ。別に今すぐの話じゃない。数年後には結婚し、子供を産み、幸せな家庭を築け。それができなければ……」
ヨミが笑みを消す。
その顔は、怒っているようにも見えた。
「あんたの残りの人生をもらう」
「残りの人生を……」
「私が直接頂くわけじゃないさ。必然的にそうなるってことだよ。考えてもみな。人魚という種族と故郷を捨て、知りもしない人間の世界を一人で生きていくのはとても悲惨だ。右も左も分からず、どこかで野垂れ死ぬのがオチだろうね」
「…………」
シオンは想像していた。父も姉も従者もなく、そして慕っていた友人にも見捨てられ、未知の世界で途方に暮れる自分の姿を。
誠三と夫婦になれなければ――待つのは悲惨な運命だ。
無言のままじっくり考えていると、ヨミはシオンの内心を見透かしたように訊ねてきた。
「それとも、天崎の坊やと夫婦になるのは嫌かい?」
「いえ、そんなことは……」
否定の言葉は、喉の奥からすんなり出てきた。
やはりそうだ。誠三と夫婦になることはイヤではないし、むしろそうなりたいと願うくらいには、シオンの心は彼の方へと傾いていた。もっと言えば、誠三に捨てられるくらいなら自ら命を絶つ覚悟すらできている。
けど彼の気持ちを考えず、自分一人で結論を出してしまってもいいのだろうか?
その葛藤が、決断への最後の一歩に歯止めをかけていた。
すると態度を一変させたヨミが、砕けた感じで言う。
「難しく考える必要はないさ。女はね、少しくらい我が儘な方が可愛いもんだよ」
「でも……」
「そうかい。じゃあ私も女だから、ちょっとだけ我が儘を言わせてもらおうかね。あんたが今ここで飲むつもりがないのなら、こんな薬さっさと捨ててしまうよ」
「えっ!?」
それは困ると言いたげに、シオンは顔を上げた。
「ちょっと待ってください!」
咄嗟に引き止めるも、次の言葉は出てこなかった。
シオンは自分の胸に手を当て、考える。
人魚のまま今の生活を続けるか。人間になって誠三と一緒に暮らすか。
迫られた二択には、どちらも不安が伴うだろう。
だからこそ彼女は、希望に溢れる方を選び取った。
「その薬、飲みます。飲ませてください」
「……ああ、いいよ」
小瓶を受け取ったシオンは、側面から中を覗き込んだ。
ここは海底。薬が海水と混じる前に、蓋を開けたら素早く飲み込まなければならない。
今さら余計なことは考えるな。そう自分に言い聞かせ、シオンは薬を一気に呷った。
「うっ……」
液体が喉を通過した瞬間、全身に異常な痛みが奔った。つづいて発熱。血液が沸騰するような感覚に耐えられず、意識が朦朧としてくる。
そうして彼女は声も上げられないまま、ゆっくりと意識を失っていった。
「シオン!」
その時、ヨミの家に飛び込んでくる影が一つ。
ぐったりと力なく浮いているシオンを、誠三は抱きかかえた。
「来たね、天崎の坊や。グッドタイミングだよ」
「なんとなく誘導されてた感覚があったから、迷わず来れたけど……いや、そんなことはどうでもいい。なんでシオンは気を失ってるんだ!?」
「この娘は人間として生きていくことを選択したのさ。だから人間になれる薬を与えた。それだけの話だよ」
「シオンが、人間に?」
見れば、シオンの下半身が徐々に変化していることに気づいた。魚類の鱗がゆっくりと海水に溶け、泡になって消えていく。
「そんな薬……」
「そう、存在するはずはない。でもシオンのお嬢さんは現に人間になろうとしている。それは何故か? この娘が飲んだのはね、人魚の遺伝子を破壊する薬なのさ」
「……?」
「この娘、人間と人魚のハーフなんだろ? なら人魚の遺伝子を取り除けば、純粋な人間になれるって寸法さ」
「なっ――!?」
誠三の脳裏に、先ほど姉妹たちと交わした会話が蘇る。
人魚が行方不明になる事件の犯人は、やはりヨミだった。
彼女は誘拐した人魚を使って、遺伝子を破壊する人体実験を行っていたのだ。純粋な人魚なら遺体も泡になって、証拠も残らない。おそらく陸に上がった際、純粋な人間に飲ませて変化がないことも確認しているのだろう。
では、何のために?
目的を問おうとすると、先にヨミが口を開いた。
「彼女はあんたを信頼してるんだよ、天崎の坊や。それこそ自分の父や姉たちよりもね。だからこそ人間になる道を選んだ。責任を取っておやりよ」
「責任って……」
ヨミに対する怒りとシオンに向ける困惑が混じり合い、誠三は言葉を失ってしまう。
しかし長々と状況を整理している場合ではなかった。
「なんでもいいけど、その娘を早く地上へ連れて行きな。じゃないと死ぬよ」
「は? なんで……」
「当り前さ。ここは海底だよ。息なんてできないし、その前に人間だったら水圧で圧し潰されるからね。猶予は一時間弱ってところかな」
「くそっ!」
悪態をついた誠三は、シオンを抱えて即座に飛び出した。
海面へ向かって無我夢中で泳いでいく。
「シオンのお嬢さんを頼んだよ、天崎の坊や」
わずかに耳に届いたヨミの声は、我欲に満ちているようだった。
彼女を断罪する時間はない。今はシオンの安否を心配するのみ。
行きとは違って上を目指すだけなので、ものの十分もしないうちに海面へ辿り着くことができた。しかし冬の海は冷たい。窒息や圧死の恐れはなくなったものの、このまま人間になっては凍え死んでしまうだろう。
「待ってろよ、シオン。すぐに岸へ連れてってやるからな」
先ほどよりも泡の量が多くなっている。ヨミの目算も当てにはならない。
自宅から出発した時刻を思い出し、人魚の里に滞在していた体感時間を加えた誠三は、太陽の位置を確認する。そして大まかな方角に見当をつけた後、一目散に泳ぎ出した。
およそ三十分の遠泳を経て、ようやく陸が見え始める。
誠三の感覚が冴えていたのか、運良く自宅付近の海岸に到着した。
「よかった、息はあるみたいだ……ぐわっ!?」
砂の上に寝かせたシオンの容体を確認するのと同時に、誠三の脚に激痛が奔った。
陸へ上がったことにより、人魚化が徐々に解けているのだ。誠三にとっては初めての変化のため、痛みが伴っているのだろう。シオンも最初はこんな感じだったのかなと、場違いなことを思ってしまった。
激痛に悶絶しながら、そのまま人の脚に戻るまでじっと待つ。
その時、砂を踏む足音が耳に入った。
「ジョ、ジョージさん?」
頭を傾けて確認する。トランクを手にしたジョージが近づいてきた。
彼は誠三の……いや、シオンの姿を見るなり驚きを示したようだった。
「お待ちしておりました、天崎さん。ですが、どうしてシオンお嬢様がここに?」
「……それはこっちのセリフなんだけど」
今一度ジョージの姿を眺めてみる。
誠三を牢に入れてから、そう時間は経っていないはず。にもかかわらず外行きの服装に着替えて待っていたということは、あの後すぐに地上を目指したわけだ。
今の一言で疑問を察したのか、ジョージが簡単な説明をくれた。
「大方の話はシオンお嬢様のお姉様方から聞いているかと思います。私は天崎さんのご両親に事情の説明とお詫びをするため、地上へ先回りしていたのですが……」
ジョージの視線が再びシオンの方へと向いた。
元々はヨミの力を借りた罪で誠三を投獄し、すぐに裏で解放するシナリオだった。お詫びというのも、しばらく人魚の里に来ないでほしいという忠告の意味合いもあったかもしれない。
だからジョージは目を丸くしているのだ。想定していたシナリオでは、誠三が気を失ったシオンを連れてくる予定などなかったはずだから。
「実は……」
誤魔化しても仕方がない。誠三は自分が見聞きしたことを詳しく伝えた。
「……なんと! あの魔女の薬を飲んで、シオンお嬢様が人間に……!?」
顔面蒼白になったジョージが、ふらっと揺らいだ。
シオンの下半身は、すでに人間の脚へと変化を終えている。だが大量の泡がこびり付いているのを見れば、異常があるのは明らかだった。
「どうすればいい?」
「…………」
誠三がアドバイスを求めると、ジョージは黙り込んだまま下唇を噛んだ。
真剣に悩み、大きく葛藤した後、彼は答えを出す。
「……ひとまずシオンお嬢様を連れて逃げた方がいいでしょう。できるだけ内陸の方へ」
「逃げるって、なんで?」
「主様の立場になって考えてみれば、その後の動きは明白です。天崎さんはヨミと手を組み、娘を人間にして強引に地上へ連れ去っていった罪人。許すわけがありません。なんとしてでも捕らえるべく、おそらく兵を送り込むことでしょう。最悪、処刑されるかもしれません」
「だったら逃げないで、きちんと話し合えば……」
「ダメです。主様は『ヨミの力を借りただけの人間を牢に入れなければならない立場』であることをご理解ください」
「…………」
受け入れたくはないが、ジョージの説明には説得力があった。
どのような事情があれど、ヨミが薬を与え、人間になったシオンを誠三が地上へ連れ去ったのは十全たる事実。何かしらの落とし前がない限り、他の者に示しがつかないだろう。おそらくシオンが説得したとしても、それは変わらない。
ならばジョージの言う通り、逃げるか……もしくは戦うか。
「立場上、私は主様に真実を報告しなければなりません。しかし時間は稼げます。その間に、できるだけ遠くに逃げてください」
「……分かった」
戦うといっても、相手はシオンの家族なのだ。これ以上、彼女を悲しませるわけにはいかなかった。
ジョージの提案を受け入れた誠三は、持ってきてもらった服に着替える。そしてシオンを抱えて防潮堤の方へと歩き出したのだが……ふと、疑問に思った。
「なあ、ジョージさん。なんであんたは味方してくれるんだ?」
「……街の案内を終えて帰ってきたお嬢様の顔が、今まで一度も見たことがないほど幸せに満ちていたからです」
「……そっか」
思えば、自分とシオンの交友を直に見ていたのはジョージだけなのだ。普段の生活の様子と比べて、思うところがあったのだろう。
するとジョージが深々と頭を下げた。
「お嬢様を、よろしくお願いします」
「ああ、任せとけ」
力強く頷いた誠三は、駆け足で自宅へと向かった。
ものの二分足らずで到着。玄関の戸を開け放つやいなや、大声で叫ぶ。
「父さん! 母さん! いるか!?」
「おや、もう帰ってきたのかね。事情ならジョージさんから聞いてるよ」
そう言いながら玄関へ出てきた母親は、やはりシオンを見て目を丸くした。
「シオンちゃん? なんでここに? 気を失っているのかい?」
「話は後だ! 今すぐ逃げるぞ!」
「いいや、後じゃねえ。今すぐ話せ、あんぽんたん」
廊下で仁王立ちをする誠三の父は、シオンさえいなければ今にも拳骨を落としてきそうな形相で睨み下ろしていた。
幾度となく叱られたトラウマが蘇り、身を硬直させる誠三。
ただそのおかげで、だいぶ落ち着きを取り戻すことができた。
「ああ、悪い。詳しく説明する」
居間に上がってシオンを寝かせた誠三は、すぐに事情を話し始めた。
とはいえ大まかな成り行きはジョージから聞いているはず。誠三が伝えたのは、ヨミの薬を飲んだシオンが人間になったこと。そのため人魚の里から兵が派遣されるかもしれないことだけだ。
「なんでぇ、そんなことか」
「そんなことって……」
危機感のない父の言い草に、誠三は拍子抜けしてしまった。
「そりゃジョージさんの予想が当たるとは限らないけどさ。念のため身を隠した方がいいって!」
「逃げるのは賛成だな。でもそれはお前とシオンちゃんの二人だけだ。俺たちゃこの家から動かねえ」
「なんでだよ! 最悪、殺されるかもしれないんだぞ!」
「バカヤロウ! おめぇ、天崎家の当主が家を捨ててどこに逃げるってんだ! そうじゃなくても、海の男が魚に背を向けるわけにはいかねえよ!」
「だったら俺も残る!」
「じゃあシオンちゃんはどうするんだい?」
誠三が決心を固めると、母親が横から口を挟んできた。
「歯向かうにしろ話し合うにしろ、シオンちゃんにとってはあまり良い光景じゃないよ。自分のせいでそうなってるんだからさ」
「でも……」
「誠三。親ってのはな、子供のケツを拭くためにいるんだぜ。後始末は俺たちに任せて、お前は無事に生きててくれりゃあいいんだよ。……って言いたいところだけどな、子供には子供にしかできないこともある」
「そうだよ。シオンちゃんを守れるのは、あんただけなんだから」
「俺が……」
呟いた誠三は、安らかに寝息を立てているシオンの顔を一瞥した。
彼女は自分を信頼して人間になる道を選んだのだ。そんな相手に裏切られ、見捨てられたらどうなるか……考えることすら憚られた。
「……分かった。後のことは、頼む」
誠三が深々と頭を下げると、両親は強く頷いた。
「おうよ。任せとけ! こちとら何度も修羅場くぐり抜けてんだ。今さらヘマなんてしねえから安心しな」
「それじゃあ、私は遠江さんに電話しとこうかね」
そう言いながら立ち上がった両親は、いつもと変わらない振る舞いで居間から出て行った。きっとあの夫婦は、世界最後の日であろうと普段通りの生活を送ることだろう。
取り残された居間の中に、耳鳴りするほどの静寂が落ちる。
大きく深呼吸をして意思を固めた誠三は、シオンの頬を軽く叩きながら呼びかけた。
「シオン、シオン。聞こえるか?」
すると彼女の瞼がぴくぴくと痙攣を始める。
薄っすらと見開かれた瞳は焦点が合っていないものの、寄り添っているのが誰なのかはすぐに分かったようだ。
「天崎……さん? ここは……?」
「俺の家だよ。けど今から急いで出発しなきゃいけない。辛いとは思うけど……起きられそうか?」
「どこへ……行くんですか?」
「おののき荘だよ」
「おののき……荘?」
「俺が下宿してるアパートさ。少しの間、そこで暮らすことになるかもしれない」
「それは……一緒に?」
「あぁ。もちろん一緒さ」
頷くと、シオンの目尻に涙が浮かんだ。
「はい。一緒に……行きます。どこへでも、ついて行きます」
泣きじゃくるシオンを力強く抱きしめた誠三は、この未熟な娘を何としてでも護り抜いてやると、心に誓ったのだった。




