第4章 お約束
普段通りに起床するような感覚で、天崎は意識を取り戻した。
どこか懐かしい感じのする天井が視界に映る。つづいて徐々に回復していく嗅覚が、布団や部屋の匂いを嗅ぎ取り、ここがおののき荘ではなく実家であることを思い出させていった。
ふと気配を感じ、天崎は頭を横に傾けた。
すぐ側に座っている天崎の母親――天崎詩音が、安堵の吐息を漏らしたところだった。
「……母さん?」
「起きたわね、東四郎。よかった……」
床に臥す息子の頭を、詩音は優しく撫でる。
現状はまったく把握できていないが、母のぬくもりを感じることで、不思議と心が安らかになっていった。
「母さん、ここはどこだ?」
「あなたの部屋よ。危険はないから、安心しなさい」
「危険が、ない?」
その一言で、自分が昏倒する前の出来事を一気に思い出した。
そういえば自宅裏の山で蛇に襲われたんだった。
「痛って!」
反射的に飛び起きようとすると、後頭部に鈍い痛みが奔った。
頭を抱えて再び布団に沈む天崎の肩を、詩音が優しく押さえ込む。
「東四郎、落ち着きなさい。まだ安静にしてなきゃダメよ。あなたは蛇に噛まれたんだから」
「蛇?」
「ほら、ここ」
そう言って、詩音は天崎の踝の辺りを指で示した。
確かに小さな穴が二つ開いている。
「さくらさんに診てもらったんだけど、蛇が持ってた神経毒のせいで気を失ったみたいなの。少し様子を見て、もし目を覚まさないようだったら病院に連れてった方がいいとも言ってたけど……大丈夫そうね」
説明を終えた詩音が、再び安堵の息を吐いた。
自分の病状を知り、天崎は合点がいった。おそらく襲い掛かってきた大蛇とは別の、小さな蛇に足首を噛まれたのだ。そして神経毒により昏倒。『吸血の時間』中に頭を打っただけで脳震盪を起こすとは思えないから、気を失った原因は毒の方が大きかったのだろう。
そこまで考えてみたはいいものの、いろいろとおかしいことに気づいた。
「いや、ちょっと待って。人間の意識を奪うだけの神経毒ってなんだ? 蛇がそんなもの持ってるのか? っていうか、なんで医者でもないさくらさんが診断してるの?」
「私もよく分からないけど、さくらさんは詳しいみたいだから……」
「?」
さくらが毒の専門家というのは初耳だが、困ったように首を傾げる母親を見るに、どうやら彼女もまた状況を把握しきれていないようだった。
「とにかく今はお父さんが調べに行ってるから、あなたは安静にしてなさい。身体が何か変だと思ったら、すぐに言うこと。いいわね?」
「親父が? いや、危ないって。めちゃくちゃデカい蛇が何匹もいたんだから!」
「お父さんなら心配しなくても大丈夫よ」
確かに、あの親父なら大蛇の一匹や二匹くらい軽くあしらえるだろう。しかし、まるで実際に見てきたかのような言い方には少しだけ疑問を抱いた。
「じゃあ私は夕食の準備をしてくるから、東四郎はそれまで寝てなさい。今日はもう家の外には出ないこと」
「ああ、分かったよ」
天崎としても、これ以上無理をしてまで裏山に行くつもりはない。言われた通り、このまま二度寝でもするかと頭を枕に埋めたのだが……一番肝心な情報を耳にしていないことに気づいた。
「そういえば小噺は!?」
「小噺? 渡井さんのこと? 彼女には感謝しときなさいよ。気を失ったあなたを担いで、家まで運んできてくれたんだから」
「あいつは蛇に嚙まれたりしなかったのか?」
「自分は大丈夫だって言ってたわね。見たところ、具合が悪そうでもなかったし」
「そっか、よかった……」
その言葉に偽りはなく、天崎は心の底から胸を撫で下ろした。
自分が気絶する前、最低でも一匹はあの大蛇が近くにいたのだ。きっと上手く撒いて逃げ切ったのだろう。
「それじゃあ私は行くからね」
「あいよ」
部屋から出て行く母親を見送った後、天崎は天井の木目をじっと見つめた。
あの大蛇は、いったい何だったのだろうか? 大きさもさることながら、誰かに操られていたような統率された動き。さらに人の意識だけを奪う毒を持った、小さな個体。何者かの意思が介入していることは明白だ。
「気になるっちゃ気になるけど……ここは親父に任せるかな」
自分は冬休みに帰省しているだけの身。しかも蛇に噛まれて早々にリタイア。出しゃばるべきではないだろう。
「となると『完全なる雑種』の調査も、ひとまず中断だな」
少なくとも父の調査が終わるまでは山に行かない方がいい。
どのみち、そこまで執着していたわけではないのだ。すんなり諦めることができた。
そうと決まれば、あとは惰眠を貪るのみ。瞼を下ろし、視覚を遮断して、夢の世界へ身を投じようとしたのだが……ふと自分の状態に気づいた。
端的に言うと臭いのだ。それも当然のこと。三十分以上の探索で汗をかき、握り潰した大蛇の体液を浴び、挙句の果てには地べたを転がり落ちたのだから。臭くないわけがない。
「いくら何でも風呂くらい入った方がいいよな」
自分の身体から漂う悪臭に堪らなくなった天崎は、思い立ったが吉日と言わんばかりに飛び起きた。
着替えを持って風呂へ向かう。湯を張るのも面倒だからシャワーだけでもいいかな、などと考えながら脱衣所の扉を開けると、浴室から人の気配を感じた。
「……誰か入ってるのか?」
父は山へ調査に行ってるはずだし、母は夕食の準備をすると言っていた。
となれば、該当するのは一人しかいまい。
「円ちゃん。痒い所はない?」
「ない」
女性の声。たぶん、さくらが円の髪を洗っているのだ。扉越しでも、姉妹のようなやり取りをしている二人の姿が容易に想像できた。
湯を張る手間が省けてラッキーだと思った天崎は、早々に服を脱ぎ始める。
人魚のさくらは男性の裸を見てもなんとも思わないし、『完全なる雑種』の自分は人外に対して劣情を催すことがない。だから一緒に風呂に入ったところで、いかがわしいことは何もないのだ。
にしても久しぶりだなぁ。子供の頃は、よく身体を洗ってくれたものだ。
昔を懐かしみながら、天崎は意気揚々と浴室の扉を開いた。
「お邪魔しまーす」
「え?」
呆気に取られる女性の声。それと同時に、天崎は硬直してしまう。
湯気が立ち込める広めの浴室にいたのは、素っ裸の小噺だったからだ。
「…………」
「…………」
中にいるのはさくらだと決めつけていたためか、天崎の思考は完全に停止していた。
それは小噺も同じだったようだ。闖入者が誰かも分かっていないように、ただただ唖然と口を開くのみ。
すると彼女の視線がゆっくりと天崎の股間へ移った。
その視線に釣られ、小噺の裸体をしっかり脳裏に焼き付けた天崎は、自分が全裸であることを確認するように、やっぱり股間の方へ。
不穏な空気が漂い始める中、先に我に返ったのは小噺だった。
円の頭から手を放した彼女は、自分の身体を隠すように抱きしめると、渋い顔を浮かべて天崎に注意を促した。
「寒いから早く閉めてくんない?」
真冬の隙間風の如く冷たくあしらわれ、天崎もようやく我に返る。
ただ小噺みたいに冷静にとはいかなかった。
顔を引き攣らせた天崎は、両手で股間を隠すと、
「ぎいいぃぃやあああああぁぁ!!」
野太い悲鳴を浴室に響かせたのであった。
「どうしてこうなった……」
湯船に肩まで浸かった天崎は、現状に至った経緯を思い出していた。
浴室の入り口で小噺とばったり遭遇した後、円も含めた三人で、何故か一緒に風呂へ入ることになってしまったのだ。「せっかく服も脱いだんだし、ここあんたん家なんだから遠慮せずに入れば?」とか言われて。
お言葉に甘えた自分も自分だが、けっこう意味不明な経緯だった。
天崎の家の風呂は、かなり広い。大の大人でも五人は余裕をもって入れるほどだ。
なので端と端にいれば肌が触れ合うことはないし、お互いが背を向けているし、間に円も挟んでいるし、冬場なので湯気も濃いので、あまり一緒に入浴しているという実感はないのだが……同年代の女の子が、すぐ側で裸になっている。その事実だけで、年頃の青少年は緊張してしまうものだ。
とはいえ、無言のままだと意識しているようで逆に恥ずかしい。
そう考えた天崎は、背中を向けたまま小噺に声を掛けた。
「そういえば、母さんから聞いたぞ。気絶した俺を家まで運んできてくれたんだってな。ありがとう、小噺」
「あら、いつになく素直ね」
「そりゃそうだろ。あのまま野ざらしにされてたら、死んでた可能性もあるからな。お礼を言うだけじゃ足りねえよ」
「まあ、こっちだってお風呂も貸してもらってるし、ギブアンドテイクよ」
「さっぱりしてんな」
小噺らしいっちゃ小噺らしいけど。と、天崎は苦笑いを浮かべた。
ふと彼女は声のトーンを落とす。
「でさ、さっきの出来事に関して、ちょっと違和感を覚えたのよね」
「違和感?」
「あんたが気絶した後、最初に言ってた巨大な蛇が二匹も寄ってきたの。でも、すぐに逃げちゃった」
「逃げた?」
「うん。まるで、あんたが気を失ったことを確かめてたようだった」
「…………」
確認してたのが本当なら、天崎を気絶させることが目的だったように捉えられる。さらに、それ以上攻撃を加えてはならないという意思さえも。
となると、やはり誰かに操られていたという仮定が信憑性を増した。
「お前の幻覚で追っ払ったわけじゃないんだよな?」
「うちもパニクってたし、幻覚を使う暇はなかったわ。だから、あのまま襲い掛かってきてたらマジでヤバかった」
今ごろになって恐怖が芽生えたのか、小噺が身体を震わせたようだった。
大蛇は誰かに操られていた。これはもう確定として、では目的は何か。何故天崎だけを昏倒させて、小噺には手を出さなかったのか。
……考えたところで、答えが出るはずもない。
「話は変わるんだけどさ。あんたの母親、かなり若くない?」
「深刻度の落差が激しすぎて風邪引くかと思ったよ」
「仕方ないじゃん。びっくりしたのは事実なんだから」
「言っても今年で三十八だぞ? 若いっちゃ若いけど、そんなに感動するほどか?」
「でもあんた今十七でしょ? ってことは二十一の時の子。うちからしたら二年後には子供産んでるなんて、全然想像できないわぁ」
「ただ俺の両親は、かなり昔から面識あったみたいだぞ。そういう相手でもいなけりゃ、二十一で出産なんて難しいんじゃないか? 今とは時代も違ったみたいだし……ん?」
なんとなしに聞き流していたが、ものすごい引っかかる単語があったような気がした。
今の短い会話を頭から再生してみる。
……ちょっと信じられそうになかった。
「あの、小噺さん? 今なんて言いました?」
「どこよ?」
「二年後には子供産んでるってところ」
「ちゃんと聞こえてるじゃん」
驚きのあまり肩越しに振り返ってしまったが、同じくこちらを向いていた小噺と目が合い、天崎は慌てて居住まいを正した。
「二年後に二十一歳ってことは……今十九!?」
「そうよ。言ってなかったっけ?」
「聞いてねえよ! まさかの年上かよ!」
衝撃の事実が発覚して、思わず狼狽する天崎だった。
ただ同い年だと勘違いしてしまうのも仕方のないこと。立ち振る舞いは完全に同年代だし、顔立ちは年下と言っても通じるほど童顔なのだから。
「じゃなきゃセーラー服をプレミア感なんて言わないでしょ?」
「そりゃそうだけどさ……にしてもお前、制服似合いすぎだろ」
「今年の春に高校を卒業したばかりなんだから、似合わなかったら逆にヤバくない?」
確かにその通りだ。高校在学中の身と、卒業した身。そこに大きな差はあれど、たかが二つ違うだけなのだ。見る人から見れば、ほとんど同じようなものだろう。
ふと、湯船の水面が波立っていることに気づいた。どうやら小噺が忙しなく身体を揺らしているようだ。
「幼馴染の彼氏とめでたくゴールイン、かぁ。いいな、いいなぁ。うちもどこかにお手伝いさん雇えるくらいの金持ちでイケメンな男いないかなぁ」
「言っとくけど、さくらさんは別に雇ってるわけじゃないからな? あの人、実は人魚でさ。うちの親と昔から交流があるみたいなんだ。俺にとっちゃ、お姉さんみたいな存在だよ」
「お姉ぇッ!?」
唐突に吹き出した小噺に、さすがの天崎もムッとした。
「文句あんのか? 小さな頃からお世話になってる年上の女性なんだから、お姉さんでいいだろ。歳は関係ない」
「そ、そうよね。他人の家庭の事情にツッコむのは野暮ってもんだわ」
「?」
小噺が何か呟いたようだが、天崎には聞こえなかった。
「ってか、普通は人魚って言葉に驚くと思うんだけどな」
「それよ、それ。なんで勝手に他人の個人情報をバラしてるわけ? まだうちに理解があったからいいものの」
「あっ、しまった。人魚の肉を食べると不老不死になれるって迷信、未だに信じてる人間もいるって話だもんな」
「それもあるけど、『俺の知り合いに人魚がいるんだ』なんて吹聴したら、コイツ頭おかしいんじゃないかって思われるわよ」
「た、確かに……」
身近に普通の人間が少なすぎるせいか、感覚がマヒしていた。用心しなければ。
「さて……」
一息ついた小噺が立ち上がった。
その気配を背中で感じ取った天崎に、再び緊張が走る。
「そろそろ上がるけど……こっち見ないでね」
「あいよ」
返事をしたのも束の間、天崎は湯船の中で両脚を伸ばした。
これでようやくリラックスできる。やっぱ風呂はくつろげてこそだよな!
などと思いながら解放感を味わっていると、小噺は出て行く間際にとんでもないことを言い放った。
「ま、あとでうちの裸を思い出しながら抜くくらいは許してあげるけど」
「なっ! バカかお前、円もいるんだぞ!」
「じゃあねー」
ニヤッと憎たらしい笑みを見せて、そのまま脱衣所へと去っていった。
しんと静まり返る浴室内。顔が徐々に赤くなっていくのは湯加減のせいか、それとも脳裏に焼き付いた光景を思い出して悶々としているせいか。
小噺の爆弾発言でいろいろ硬くなっている中、円が天崎の肩を指でつつく。
「ねえ、抜くってなあに?」
「だー! 円は知らないでいいから!!」
「???」
首を捻る円に説明できるはずもなく、天崎は浴槽の中で身を丸めたのだった。




