間 章 とある人魚と『完全なる雑種』の出会い その1
見渡す限りの曇り空。嗅ぎ慣れた潮の香り。耳を撫でる波の音。
天崎は今、実家のすぐ近くにある海岸沿いを一人で散策していた。
冬休みに入って実家に帰省したはいいものの、何もやることがなくて暇を持て余しているのだ。中学までの友人も今は忙しいだろうし。金がないからゲーセンにも行けないし。家にあるゲームや漫画は飽きたし。
というわけで自分の生まれ育った土地の空気を久々に嗜もうと、天崎は一人寂しく散歩に興じているのであった。
「なーんか楽しいことねえかなぁ。……人外関連以外で」
雲の多い空を見上げながらぼやくも、天崎は気づかない。
トラブルメーカーである自分の言葉が、フラグ以外の何物でもないことを。
そして運命はゴミ収集車よりも早いスピードでフラグを回収しにやって来る。
視線を空から浜辺へ移すと、波打ち際で人が倒れているのを発見したのだ。
「マジかよ。土左衛門じゃねえだろうな」
悪態をつきながらも、天崎は急いで駆け寄った。
砂の上で倒れていたのは中学生くらいの女の子だった。しかも何故か全裸であり、着ていたであろう衣服は見当たらない。過度な呼吸により肩が上下していなければ、マネキンと見間違えたかもしれなかった。
「おい、大丈夫か!」
少女を抱き起した天崎は、まず声を掛けた。
すると彼女は苦しそうな顔を露わにしながらも、「うっ……うっ……」と呻き声を上げ始める。どうやら意識はあるようだ。
「えーっと、こんな時どうするんだっけ? 人工呼吸……は、意識があるから必要ないんだよな? 声を掛けて意識を繋ぎとめる? いや違う、バカか俺は。人を呼ぶのが先だろ!」
自分自身を叱咤した天崎は、顔を上げて周りを大きく見回した。
しかし海岸沿いには人っ子一人おらず、またここからでは防潮堤の向こう側を把握することはできない。声を上げて助けを呼ぼうにも、波の音にかき消される恐れがあった。
「救急車を呼ぶのが一番いいんだろうけど……携帯、家に置きっぱなしだった! 携帯電話を携帯しないでどうするんだ俺! 確かここら辺って、公衆電話もなかったよな……」
どうやら誰かと連絡を取る手段は皆無のようだった。
いや、そんなわけがない。自分の実家があるではないか。ここからなら全力で走れば二分もかからない!
「……さすがに放置しとくわけにもいかないよな」
冬の海は非常に冷たい。一分一秒が命取りになるだろう。
自分の上着で少女を包んだ天崎は、彼女を抱えて一目散に自宅へと向かった。
「母さん! 救急車を呼んでくれ!」
自宅に到着した天崎は、総門を跨ぐやいなや怒鳴り声を上げた。天崎家の大きな敷地に響き渡るほどの咆哮だったのだが、どうやら天崎の母親はすぐ傍の和室に居たようだ。
庭に隣接した部屋の障子が開き、母親が縁側に出てくる。
「急に帰ってきたと思ったら、何を藪から棒に……んん?」
息子が人を抱えているのを見て異変に気づいたようだ。
目を丸くした母親が、落ち着いた様子で訊ねる。
「その娘、どうしたんだい?」
「分かんねえけど、海岸で倒れてたんだ。溺れてたのかもしれない」
「こんな真冬の海で?」
首を捻った母親は、天崎の腕の中でぐったりしている少女をじろじろと観察し始めた。
言いたいことは分かる。海水浴をする時期でもないし、全裸で海岸にいたというのも不自然だ。どちらかといえば誰かに乱暴されたと説明した方が納得できるだろう。
だが今は、そんな憶測をめぐらせている場合ではない。
少女を容体を確認しても動こうとしない母親に業を煮やした天崎は、再び叫んだ。
「とにかく救急車だ! 意識はあるから、大丈夫だとは思うんだけど……」
「いいや、救急車は呼ばない方がいいね」
「はあ!? なんで……」
「その娘、人魚だよ」
「人……魚?」
あまりにも予想外な単語に、今度は天崎が目を丸くする番だった。
改めて少女の姿を眺めてみる。海岸で発見した時と同様、彼女の下半身はどこからどう見ても人間のものだった。
「よく見てみな。砂に混じって、透明な鱗がたくさん付いてるだろ? これは人魚が初めて人間の脚に変化した時に見られる現象なのさ」
じっくり観察してみると、両脚にガラスの破片のような鱗が確認できた。ただ海で溺れていただけなら、間違ってもこの量は付くまい。
「ひとまず家に上がりなさい。意識があるんなら、たぶん大丈夫だろうて」
「あ、あぁ……」
人魚を人間の病院に連れて行くわけにはいかない。唯一の選択肢を奪われた天崎は、今は母親の指示に従って、少女を和室へ運ぶことしかできなかった。
身体を拭ったり着替えさせるのは母親に任せ、自分は布団を敷く。
苦しそうに呻く少女を横にした後、天崎は訊ねた。
「この娘、本当に人魚なのか?」
「十中八九ね。見たところ、年頃もそうだろうし」
「?」
意味を捉えかねていると、母親は丁寧に説明してくれた。
「人魚は十四歳くらいに第二次成長期があってね、地上の空気に触れて尾を乾かすと、人間の脚に変化するようになるのさ。逆に海水に浸かれば元通り魚の尾に戻る。ただ変化に慣れていない子供は、さっきみたいに鱗が残ることもあるからね。この娘は見た目もだいたい十四歳くらいだろ? たぶん地上に来たのは初めてなんじゃないかな」
そういうことなら裸だった理由にも説明がつく。こんな年端もいかない少女が乱暴されたわけではないと知り、天崎は安堵した。
だが疑問は残る。どうして彼女は海岸で倒れていたのか。
天崎が考えを巡らせていると、母親には珍しく怒ったように眉を寄せていた。
「にしても、ひどいことをするもんだね」
「ひどいって?」
「初めて地上に行くなら、身内が付き添ってやるべきだろう? 親でもいいし、上の兄弟でもいい。一人で未知の世界へ行かせるなんて、育児放棄も甚だしいよ」
初めてのお遣いみたいなものかと、天崎は母親が憤慨している理由に納得がいった。
と、その時だ。少女がゆっくりと瞼を開いた。
「こ、ここは……?」
「おや、気がついたようだね。安心しな。ここは安全だから」
不安げな眼差しを向ける少女の頭を、母が優しく撫でる。
人のぬくもりを感じることで、ここが本当に安全な場所だと実感したのか、特に取り乱した様子もなく、少女は長々と息を吐き出したのだった。
「起き抜けで悪いんだけど、どうして海岸で倒れてたのか話せるかい?」
「えっと、それは……その……」
少女の瞳が右へ左へと泳ぎ始めた。思い出せないとか、自分にも分からないといった反応ではない。それは明らかに、他言してもいいのか迷っているような動揺だった。
「あんたが人魚だってことは分かってる。誰にも言わないから、大丈夫だよ」
人魚にとって、自分の種族を明かすことはタブーなのだろうか?
なんにせよ、天崎も口外するつもりはない。少女の顔をじっと見つめながら、重々しく顎を引く。
すると安心したというよりは観念したように息を吐きながら、少女は話し出した。
「実は地上を目指して泳いでいたら、サメに追いかけられて……。逃げ切れたのはよかったんですけど、その……初めて尾が変化した時の痛みに耐えきれず……」
そこまで言って、何故か少女は恥ずかしそうに言葉を濁した。
言い淀むことだろうかと、天崎は訝しげに首を傾げる。
すると母親に咎めるような目つきで睨まれた。
「そんな顔するんじゃないよ。何だって初めては痛いもんだ」
「変な意味に聞こえるからやめてくれ」
謂れのない叱責に、天崎は不満を露わにした。
とはいえ、状況はなんとなく飲み込めた。地上に向かう途中でサメに襲われ、海岸に逃げたはいいものの、尾が乾いて人間の脚へと変化した。その痛みによって意識が朦朧としていたところを、天崎が通りかかったというわけだ。
「サメに襲われたって……この近海にサメなんていないはずだよ。ずいぶん遠くから泳いできたんだね」
「……はい。逃げるのに必死であまり覚えていませんが、けっこう泳いだ気がします」
「でも、どうして一人で地上に向かってたんだい? 初めてだったんだろ? 誰かに付き添ってもらったりはしなかったのかい?」
「それは……」
その質問に、少女は再び口ごもった。
まさか途中でサメに喰われたんじゃ? と、話を聞いていた天崎は戦慄したのだが、どうやらその可能性はなさそうだ。どちらかといえば誰かに気を遣っているように見える。
少し間を置いた後、彼女は笑みを見せながら答えた。
「お父様も姉様方も、みんな忙しそうでしたので」
嘘だ。それは間違いなく嘘だった。少女の笑顔が、そう物語っていた。
しかし、それを指摘することは叶わなかった。
何者かの気配を察知した天崎が、障子を睨みつける。
「母さん。庭に誰かいる」
「おやおや、お客さんかい?」
出迎えようとする母親を手で制し、天崎は立ち上がる。そして無断で私有地に立ち入る無礼な輩を牽制するように、障子を開け放つやいなやドスの効いた声で訊ねた。
「誰だ?」
「失礼。呼びかけても出てこられなかったので、勝手に入らせていただきました」
「あんた不法侵入って言葉知ってる?」
しかも呼びかけたというのも嘘だ。一般人よりも感覚の鋭い天崎の耳にも、何も聞こえなかったのだから。
あまりにも胡散臭い相手を前に、天崎は警戒心を高める。
侵入者は壮年の男だった。しかも何故か執事服を着込み、佇まいも相応の貫禄が出ている。現在進行形で犯罪を犯しているのに、その顔にはどこに出ても失礼にならないような温和な笑みが浮かんでいた。
「申し遅れました。私は桜枝譲二と申します。お見知りおきを」
「…………」
ようやく名乗った執事が頭を下げる。
もちろん名前を知れたからといって、不法侵入者と仲良くするつもりなどない。天崎は無言のまま執事の頭部を睨みつけ、どう落とし前を付けてやろうか考えを巡らせていたのだが……後ろから母親が割り込んできた。
「あんた、人魚だね?」
「いかにも。ただ、それ以上の質問はご容赦ください」
これには天崎も驚きを示した。また人魚が現れたのもそうだが、どこからどう見ても人間の相手を人魚だと見抜いた、母親の観察眼を。
「詮索するつもりはないよ。けど、あの娘をどうするのかは正直に話しなさい」
「やはりこの家にいらっしゃるのですね? 私はただ、お嬢様をお迎えに上がったまでです」
お嬢様。その一言で、大まかな関係性を把握することができた。
少女は人魚の中でも身分が高く、この男は彼女の家に仕えている使用人か何かなのだろう。間違っても父親ではなさそうだ。
天崎と母親が視線を交わす。
しかし深く思案する必要はなかった。安静にしていたはずの少女が、震える脚を柱で支えながら、ゆっくりと縁側へ出てきたからだ。
「お嬢様!」
「ごめんなさい、ジョージさん。実は初めての地上で少し疲れてしまって、この方たちのお世話になっていたところなんです」
「そういうことでしたか……」
譲二の顔が緩んだ。それは安堵を表してるようだった。
サメに襲われたことを黙っているのは、無駄に心配させたくなかったからか、それとも案の定と呆れられたくなかったからか。どちらにせよ桜枝譲二の言葉が事実と判明し、天崎たちも肩の力を抜いたのだった。
だが一息ついたのも束の間、譲二は再び表情を引き締める。
「お一人での行動は、まだ危険すぎます。地上の散歩はまた日を改め、今日はひとまず帰りましょう。みんなも心配していますよ」
「……私を心配してくれる人なんて……いるはずない」
唇を噛んだ少女が、喉を鳴らすような声を漏らした。
傍にいる天崎と母親には聞こえていたが、譲二の耳には届いていなかったようだ。
「お嬢様?」
「……いえ、ごめんなさい。分かりました。今日は帰ります」
反論を諦めた少女は、天崎親子の方へ向き直ると、丁寧に頭を下げた。
「本日は危ないところを助けていただき、本当にありがとうございました。このご恩は、いつか必ず返します」
「いいんだよ、そんな畏まらなくても。ほら、あんた。海岸まで送っておやり」
「え? あ、ああ」
生返事をした天崎は、譲二に支えられながら庭へ降りていく少女の後を追う。
その前に、どうしても気になることがあった。
「母さん。なんで母さんは、あの男が人魚って分かったんだ?」
「そんなの鎌掛けに決まってるじゃないか。あんたが人魚の女の子を連れてきたから、今度は人魚関連の面倒事に巻き込まれるんだろうと思ってね」
「なるほどなぁ」
自分よりも『完全なる雑種』の特性を理解している母親に対し、天崎は素直に舌を巻いたのだった。
海岸は先ほどと同じく分厚い雲に覆われていた。
今にも雨が降りだしそうな空の下、砂浜に降り立った三人が向かい合う。
「本日はお世話になりました。改めて、お礼を申し上げます」
「いや、いいって。当たり前のことをしただけなんだからさ」
慇懃に頭を下げる譲二と少女に照れ臭さを感じ、天崎は頭を掻いた。
「そうは言っても、我々を人魚と知りながら丁重に扱って頂いたことに対しては、感謝の言葉もございません」
「……無知で悪いんだけど、人魚って迫害とかされてるのか?」
「人魚の肉を食べると不老不死になれる。そんな迷信を未だに信じている人間がいますから。不用意に地上へ上がった人魚が攫われる、なんて事件もたまにあります」
「ふーん」
言外に窘めているのか、譲二の視線が少女の頭に落ちた。
その視線に釣られて、天崎も彼女の顔を窺ってみる。少女は何故か頬を朱色に染め、俯いたまま指をもじもじさせていた。
「どうしたんだ?」
「ひゃい! えっと、その……」
天崎が声を掛けると、少女はさらに取り乱し始めた。
耳の先まで赤くなり、潤んだ瞳を右往左往させ、最終的におっかなびっくりといった感じで訊ねてくる。
「も、もしご迷惑でなければ……また会いに来てもいいですか?」
その一言で天崎は気づいた。
少女にとって、天崎は地上で会った初めての人間なのだ。しかも昏睡していた自分を助けてくれた、親切な人。頼りにしたいと思う反面、初対面の相手にこんな厚かましいお願いをしていいものか迷っているのだ。
それに天崎は、つい先ほどのことを思い出した。
何故かたった一人で地上に向かった無謀な行動と、みんな心配するはずはないという言葉。もしかしたら彼女は、海の中ではあまり友達がいないのかもしれない。
そうと知れば、天崎の答えは一つしかなかった。
「ああ、いいよ。いつでも来い」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
すると少女は花が咲くような笑みを見せた。
嬉しさのあまり小躍りを始めたのだが、慣れてない脚で飛び跳ねるものだから、いつか転倒するんじゃないかと天崎は内心ヒヤヒヤだった。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。私はシオンっていいます」
「俺は誠三だ。天崎誠三。よろしくな」
「はい!」
そうして二人は熱い握手を交わした。
「あっ。帰る前に、これをお返ししなくてはなりませんね」
何かに気づいたシオンが、いきなり寝巻のボタンを外し始めた。
もちろん、そんな破廉恥な行動に出た理由は天崎も理解している。寝巻は天崎の母親から借りたものだし、海の中に帰るのなら服は脱がなければならない。
人魚にとって、それは当然の行為なのだが……。
「ちょちょちょ、ちょっと待った!」
両手で顔を覆った誠三は、慌ててそっぽを向いたのだった。
その間にも、シオンは着々と寝巻を脱いでいく。ものの十秒もしないうちに、出会った時と同じくすっぽんぽんになってしまった。
「こちらも貸していただいて、ありがとうございました。……あの、どうかされましたか?」
「どうかされたかって……」
自分が素っ裸であることを気にも留めず、シオンは首を傾げた。
そんな彼女のあられもない姿を、誠三は指の間からチラチラ窺う。最初は非常事態だったから特に気にもしなかったが、十四歳の女の子の裸を直視するのは、さすがに誠三の道徳心が咎めた。
ともあれ、寝巻を受け取らなければシオンは海へ帰れない。顔を背けたまま、誠三は差し出された寝巻を受け取ったのだった。
すると彼女は海の方へ駆け出した。足が海水に触れるのと同時に、徐々に魚の尾へと変化していく。その様子はまるで、つま先から腰に向けて凍結していくかのよう。海水に触れた部分から鱗が張っているのだ。
最終的に腰の辺りまで変化が達すると、シオンは勢いよく海の中へと入っていった。
沖の方まで泳いだ後、再び水面に顔を出した彼女は、誠三に向けて大きく手を振った。
「さよーならー!」
「あぁ、またな!」
別れの挨拶を交わすと、水しぶきを上げたシオンは海の底へと潜っていった。
海面を眺めながら名残惜しむも、ふと未だ隣に立っている譲二に気づいて首を傾げる。
「あんたは帰らないのか?」
「えぇ。衣服を所定の場所に隠したら、すぐに後を追いますよ。我々人魚は地上で活動する時のために、至る所に衣服を隠しているのです」
「なるほどな」
人間の脚に変化するといっても裸で出歩くわけにはいかないし、海底から服を持ってくるのは乾くまでに時間がかかってしまう。地上に隠すのは合理的だ。
そう感心していると、譲二が再び頭を下げた。
「これからもシオンお嬢様のことをよろしくお願いします」
「まあ、これも何かの縁だしな」
とは言うものの、まさか誠三もこれが末長い縁になるとは思わなかっただろう。
そう。この出会いこそが、天崎東四郎の両親、天崎誠三と天崎詩音のファーストコンタクトだった。




