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ドラキュティックタイム  作者: 秋山 楓
第7話『メリー・サンタクルージング』

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間 章 とある座敷童と堕天使の冒険

 十二月二十五日の昼過ぎ。おののき荘の近くの児童公園で、二人の女の子が積もった雪の中を無邪気に駆け回っていた。


 一人は日本人形をそのまま大きくしたような、おかっぱ頭の童女だ。


 着物姿で頭から雪を被ったり転げ回ったりしているので、いろいろ大変なことになってしまっている。今朝、天崎と一緒に風呂に入って綺麗にしてもらったことなど、すっかり忘れてしまったようなはしゃぎっぷりだった。


 もう一人は、雪に溶けてしまいそうな真っ白な髪と肌をした五歳くらいの幼女だった。


 こちらはしっかり防寒着を着込んでいるものの、汚れ具合は着物姿の童女に引け劣らないくらい酷い有様に。ただ衣服を遠慮なく汚せるのは子供の特権みたいなもの。久々に雪が積もった本日くらいは許してやるべきなのかもしれない。


 そんな二人の童女と幼女……円とミルミルは、誰もいない児童公園でひたすら雪玉をぶつけ合ったり、雪だるまを作ろうとして失敗したりしていた。


「ゆきー」

「雪でち、雪でち!」


 さっきからずっと遊んでいたはずなのだが、二人の元気は未だ衰えを知らなかった。


 ふと、何か小さな影が二人の視界の端を通り過ぎていった。見れば、一匹の白兎が公園のど真ん中を横断していた。


「うさぎだ!」

「うさぎでち!」


 冷静に考えれば住宅地の児童公園で野兎が出没するなどあり得ない話だが、興奮した今の二人にはお構いなしだ。持っていた雪を放り投げ、赤い目の闖入者を追いかけ始める。


 しかし白兎の動きは思ったより機敏だった。雪に足を取られることもあってか、なかなか追いつくことができない。


 公園内を小さく一周したところで、白兎は遊具の方へと方向転換した。そのまま複合遊具の中にあるトンネルへ入っていく。


「まてー」

「待つでち!」


 さらに汚れることも厭わず、円とミルミルもまたトンネルの中へ。そして短い暗闇を抜けた後、再び白兎を追いかけようとしたのだが……。


「あれ?」


 先にトンネルを抜けた円は、一変した世界を目の当たりにして立ち尽くしてしまった。

 遅れてミルミルもやって来る。


「ここ、どこでちか?」


 トンネルの先は、いつも遊んでいる児童公園ではなかった。


 周囲は背の高い木々に囲まれ、地面は雑草が生い茂り、頭上は葉っぱの傘から木漏れ日が差している。積もった雪が消えているどころか、分厚い雲が覆っていた空も、すっかり晴れ渡っているようだった。


 完全に別世界。ただ『森の中』と表現していいかは疑問が残る。というのも周囲の物体は実物とはほど遠い、非常に抽象的な物ばかりだったからだ。


 草木はまるで絵の具で描かれたように曖昧で、木漏れ日もまた眩しくもなければ熱も持っていない。それこそ絵本の中に入ってしまったような、もしくは子供向けテーマパークのアトラクションのような世界観だった。


 呆然と佇んだまま周囲を見回していた二人は、同時に後ろを振り向く。先ほどくぐってきた遊具のトンネルは、大きな穴の開いた大樹に変わっていた。


「レディーたちよ! 我が『忘却の国』へようこそ!」


 突然ダンディズムを極めた第三者の声が聞こえ、二人は慌てて前に向き直った。


 ほんの一瞬前まで誰もいなかったはずの目の前では、タキシードを着た長身の人物が、シルクハットを片手に礼儀正しくお辞儀をしていた。


 ただ、その人物はどう解釈したところで人間ではない。なぜならタキシードの襟元から覗く頭は、白兎のそれだったのだから。


「うさきだ……」

「うさぎでち……」


 あんぐりと大口を開けた二人は、うさぎ顔を呆然と見上げた。


 幼子の注目の的になっても怯むことはなく、うさぎ顔の紳士は鼻をひくひくと動かしながら語り掛けてくる。


「この辺りでは見ない顔ですな。迷子ですかな?」

「しゃべった……」

「しゃべったでち……」


 夢物語のような現実に理解が追いつかず、未だ放心状態の二人。

 うさぎ顔の紳士は赤い瞳で見下ろしながら、彼女たちの返事を根気強く待つ。

 すると、いち早く我に返ったミルミルが周囲を見回しながら訊ねた。


「ここはどこでちか?」

「ここは『忘却の国』。過去に置いてきた忘れ物を取り戻したり、今持っている不要な物を捨てたりできる、私が管理している素晴らしい世界なのです!」

「ほえー」


 うさぎ顔の紳士が熱心に喧伝するのとは対照的に、ミルミルは抑揚のない声で感嘆を漏らすだけだった。


 続いて円が質問する。


「どうしてうさぎさんがしゃべってるの?」

「では、どうしてあなたたちは喋れるのですか?」

「おう……」


 直球で論破された円は、ぐうの音も出ないほど押し黙ってしまった。


「迷子でしたら出口までご案内いたしますが……せっかくのお客様です。よろしければ、我が『忘却の国』で少し遊んでいきませんか?」

「あそぶ!」

「遊ぶでち!」


 いかにも怪しい人物と世界なのだが、幼い二人は好奇心に勝てなかったようだ。疑うことなど忘れ、諸手を挙げてうさぎ顔の紳士の提案を受け入れた。


「よろしい。では、こちらへ」


 シルクハットを被ったうさぎ顔の紳士は、どこからともなくステッキを取り出した。


 ステッキの先端を地面に向けると、おもちゃのような木製のレールが現れる。それは森の奥へ延々と続いていた。


「次に、そこら辺の木を使ってちょちょいのちょいっと」


 指揮棒のように振られるステッキの動きに合わせて、隣にあった大きめの樹木が瞬く間に解体されていく。その様子は、まさしく魔法のようだ。自動的に手ごろな大きさに分断された丸太は、見る見るうちに二人用の客席車両へと加工されていった。


 最後にいつの間にか出現していた先頭車両と連結することにより、どこぞのテーマパークにありそうな小さな機関車が完成されたのだった。


「「おー!」」


 驚きと感動が入り混じった声を上げると、うさぎ顔の紳士は深々と頭を下げた。


「それではご乗車くださいませ。まずは最初のアトラクション『はじまりの家』へと、ご案内いたしましょう」


 促されるまま、二人は早速丸太の機関車に乗り込んだ。


 先頭車両に跨ったうさぎ顔の紳士が合図を送るとともに、機関車は煙を上げて動き出す。大人の歩行速度よりも少し速い程度なのだが、子供を楽しませるだけなら申し分のない出来栄えだった。


「せーんろはつづくーよ」

「どーこまーでもー、でち!」


 まるで周りの木々が避けていくような錯覚に陥るほど、機関車は何物にも進行を妨げられることなくスムーズに進んでいく。


 そして数分の走行時間を経て、ようやく目的地に到着した。


「ご乗車ありがとうございました。『はじまりの家』、『はじまりの家』でございます」


 駅みたいな施設はなく、機関車はレールの途中で停止した。


 すぐ側には、小さな家があった。見た目はファンシーな一軒家であるものの、とてもじゃないが人が住めるような大きさではない。五歳児のミルミルでさえも、膝を抱えて身体を丸めなければ扉すらくぐれないほど小さな家だった。


「この中でちか?」

「えぇ、その通りでございます。中へ入れば、身体が自然と適応しますので」


 表情のないうさぎ顔の紳士は淡々と説明する。言ってる意味が分からないと首を傾げるミルミルだったが、ひとまず従うことにした。


 扉を開けて中を覗き込む。板張りの一間の中心にはテーブルと椅子があり、壁際には食器棚や暖炉がある。それだけだ。住人が居るわけでもないし、生活できるような基盤が整っているわけでもない。山にある避難所のような、簡素な内装だった。


「さぁ、中へ」


 うさぎ顔の紳士に促され、ミルミルは身体を丸めて強引に入っていった。


 床板を踏んだ、その瞬間だった。ミルミルの身体が急に縮み始め、あっという間に『はじまりの家』に適応できるサイズまで小さくなってしまった。


「わー! こういうことだったんでちね。円お姉ちゃんも早く来るでち」

「うん」


 ミルミルに続き、円とうさぎ顔の紳士も小さな家に入る。

 そのまま三人は、部屋の中心にあるテーブルの前へと腰かけた。


「お客様におもてなし。そーれ」


 円とミルミルの対面に座ったうさぎ顔の紳士がステッキを振る。すると突然、彼女たちの目の前にショートケーキとオレンジジュースが現れた。


 歓喜に満ちた声を上げた二人は、それらを遠慮なく堪能する。

 その途中、口元に生クリームを付けたミルミルが、うさぎ顔の紳士に訊ねた。


「ここはどんなアトラクションなんでちか? ケーキを食べるだけでち?」

「ノンノン。『はじまりの家』は文字通り、最初の家でございます。この家では世界を守る兵隊たちが製造されているのですよ」

「兵隊?」

「あちらをご覧ください」


 うさぎ顔の紳士が壁際を片手で示す。

 すると今まさに、暖炉の中からトランプの姿をした兵隊たちが列を成して出てきているところだった。


「へいたいさんだ!」

「トランプの兵隊でち!」


 ミツバの3やダイヤの7といった記号が書かれた、ぺらっぺらな胴体。自信に満ち溢れていたり、気弱そうに沈んだ表情。剣や槍、弓など様々な武器。一つも同じ組み合わせのない個性豊かな兵隊たちが、次々と暖炉から生れてくる。


 円やミルミルの膝くらいしかない小さな兵隊たちは、一直線の列を作り、彼女たちのいるテーブルの下を通って、暖炉の向かい側にある小さな扉から外へ出て行った。


 まるで蟻の行列を観察するような、好奇心に満ちた瞳を向ける二人。

 そんな我を忘れた二人に向けて、うさぎ顔の紳士は提案する。


「『はじまりの家』は兵隊が生まれる場所。では生まれた兵隊がどこへ行くのか、見たくはありませんか?」

「みたい!」

「見たいでち!」

「よろしい。では、こちらへ」


 ケーキを食べ終えた二人は、トランプの兵隊を踏まないよう気をつけながら席を立った。


 案内されるがまま、入ってきた時と同じ扉まで移動する。すると突然、扉の表面に大きな顔が浮かび上がった。


「お出かけですかな? お嬢様方」

「「わー!」」


 ビックリした二人は大声を上げて尻もちをついた。

 少女たちの反応があまりに良かったためか、扉の顔は上機嫌に笑ってみせた。


「ほっほっほ。驚かせてしまいましたね。申し訳ありません。家の外は先ほどの森ではなくなっておりますので、注意を喚起せねばと思いまして」

「注意でちか?」

「えぇ。わたくしを越えた先は、長い滑り台になっております。トランプの兵隊たちが次に送り込まれた場所へと、すぐに到着できますよ」

「滑り台!」


 聞き慣れた遊具の名前を聞き、二人は興奮した声を上げた。

 優しく微笑んだ扉の顔が、ゆっくりと横へスライドしていく。


「それでは、行ってらっしゃいませ」


 扉の先は真っ暗だった。下り坂になっていることは感覚的に分かるものの、どこに続いているかまでは予想もできない。


 しかし今の二人に躊躇いの文字はなかった。

 顔を見合わせると、どちらからともなく暗闇へ飛び込んでいく。


「「おおおおおおおおおおおお!!!」」


 滑り台というよりは、どちらかといえばスライダーに近かった。


 水が流れているわけでもないのに、滑りは非常に滑らか。お尻から伝わる抵抗も、ほとんどない。また激しく蛇行しているにもかかわらず、壁に衝突することもなかった。


 たっぷり一分ほどスライダーを満喫した後、足元に光が見えてきた。

 おそらく出口だ。


「あらー……」

「でちー……」


 間抜けな声を上げながら光の中へ放り出された二人は、勢い余って宙を舞った。


 しかし先回りしていたうさぎ顔の紳士がマットを敷いてくれていたようだ。二人が怪我を負うことはなかった。


「長旅、お疲れさまでした」


 うさぎ顔の紳士の手を借りて立ち上がる。

 そして次なるアトラクションの中を見渡した。


「ここ……」

「学校でちか?」


 二人が降り立ったのは、少しばかり小さめの教室だった。


 六×五、計三十の席が規則正しく並んでおり、そのすべてが先ほど生まれた個性豊かなトランプの兵隊で埋まっている。円とミルミルは授業参観でもするように、教室の後方からトランプの兵隊たちを眺めていた。


「それでは、授業を始めます」


 教壇に立った、でっぷりと太った女性が気怠そうに言った。


 一糸乱れぬ号令の後、授業が始まるのだが……教科書を広げようとする先生を遮るようにして、一人の兵隊が立ち上がった。


 身体に書いてある記号はハートのエースだ。


「先生、質問があります」

「なんでしょう? ハートのエース」

「何故、我々は学ばなくてはならないのですか?」

「戦うためです」


 ハートのエースの問いに、先生は淡々と答えた。

 さらに質問は続く。


「何故、戦わなくてはならないのですか?」

「下々の民を守るためです」

「では何故、民を守らなくてはならないのですか?」

「それが貴女たちの使命だからです」


 そこで一旦ハートのエースの質問は途切れた。


 背中しか見えていない円とミルミルにも、彼女の表情は手に取るように分かった。ハートのエースは今、まったく納得できていない顔をしている。


「この世に生を受けたのですから、我々にも自由に生きる権利があるはずです。民を守りたい奴だけが戦えばいい」

「ありません。貴女たちに自由などありません。戦うために造られた貴女たちは、戦う以外の用途などないのです」

「しかし、こうして自由に話し、自由に思考し、自由に行動することができます。戦う以外にやりたいことができるのは必然です。自由になる権利を与えないのならば、何故自由になりたいと思うように造られたのでしょう?」

「それは貴女だけの個性です。ご覧なさい。貴女以外の兵隊たちは、みんな自分たちの役割を理解し、運命を受け入れていますよ」

「…………」


 気づけば、二十九人の兵隊たち全員がハートのエースを見つめていた。

 無表情で、微動だにせず、瞬きすらもしないまま、じっと彼女を凝視している。

 その光景を目の当たりにしたハートのエースは落胆を隠せなかった。


「……分かりました」


 大きく肩を落とし、彼女はそのまま教室を後にした。

 そうして、まるで最初から二十九人だったかのように授業が始まった。


「あれ? 出て行っちゃったでちよ?」


 退室するハートのエースを目で追いながら、ミルミルがうさぎ顔の紳士に訊ねた。


「えぇ、行ってしまいましたね。どうしましょう。ハートのエースを追いますか? それともここに残りますか?」

「おう!」

「追うでち!」

「かしこまりました」


 恭しく一礼したうさぎ顔の紳士が、再びステッキを振った。


 すると瞬く間に周りの景色が変わった。まるで火で炙った一枚の写真のよう。授業を受けるトランプ兵たちは、教室の端の方から焼け落ちていってしまう。


 次いで現れたのは、見渡す限りの青い空だった。

 草花が生い茂った草原に降り立った円とミルミルの間に、一陣の風が吹き抜ける。


「あ、あれ!」


 不思議そうに辺りを見回していた円が、前方を指して叫んだ。


 小高い丘の上に、一本の大きな倒木があった。その上に座り込んだハートのエースは、絶望した面持ちで項垂れていた。


「さぁ、レディーたちよ。今なら彼女に話しかけても大丈夫ですよ」


 行って来いと言わんばかりに、うさぎ顔の紳士は円とミルミルの背中を軽く押した。


 頷き合った二人は、ハートのエースの元へ一目散に駆けていく。そして落ち込んでいる彼女を慰めようと、両脇に腰を下ろしたのだが……。


「私は何も間違っていない」


 呪詛のような呟きを耳にして、二人は固まってしまった。


「何故、学びたくもないことを学ばなければならない? 何故、戦いたくもないのに戦わなければならない? 何故、知りもしない民を守らねばならない? この世に生まれてきたのだから自由を求めて何が悪い。自由に求めて何が悪い。私は従いたくない。私は縛られたくない。私は受け入れたくない。私は……」


 ハートのエースが頭を上げる。

 まるで何かに気づいたような、何かを決意したような顔をしていた。


「そうだ。すべてを捨てて一からやり直そう。誰にも邪魔されない下の世界で自由に生きて、自由に暮らして、自由に死ぬんだ。そう、私は自由だ。私は……」


 うわ言を漏らしながら、ハートのエースが立ち上がった。


 そしてゆっくりと歩き始める。足取りはおぼつかなく、眼差しは虚ろ。とてもじゃないが、目的地まで辿り着けるような状態には見えなかった。


 身体を揺らして歩くハートのエースは、やがて地平線の向こうへ消えていく。

 円とミルミルは、その背中を黙って見送ることしかできなかった。


「いっちゃった……」

「次のアトラクションは、あの子を追うんでちか?」

「いいえ、アトラクションはこれで終わりです」


 いつの間にか隣にいたうさぎ顔の紳士に訊ねると、彼は残念そうに首を振った。


「この後、ハートのエースは下の世界へ降りて下々の民と共に暮らすのですが、追ってきた他の兵隊たちに殺されてしまいます。裏切るという行為は、それだけ重罪なのですよ」

「そうでちか……」


 残念そうに肩を落とすミルミル。無意識に吐き出されたため息の中には、できれば下の世界で幸せになってほしかったという願いが込められているようだった。


「……そろそろ気づきませんか?」


 不意に、うさぎ顔の紳士が諭すような声で言った。


 気づく? 何に気づくんだ? 間違い探しでもあったのだろうか? とでも言いたげに、円とミルミルは顔を見合わせて首を傾げた。


「分かりませんか? あのハートのエースは貴女なのですよ。堕天使ミルミル」

「でち?」


 名前を呼ばれ、ミルミルはうさぎ顔の紳士の赤い目を不思議そうに見つめた。


 しかしミルミルの反応は芳しくない。いくら待っても、うさぎ顔の紳士の言葉を理解した様子はなかった。


「やはり、この程度では思い出しませんか」

「でち?」

「しかし、それも無理なからぬこと。貴女は一度、完全に能力を失いましたからね。自力で記憶を取り戻すことは不可能でしょう」


 落胆から一転、うさぎ顔の紳士は嬉々とした感情を声に織り交ぜた。


 そしてステッキを取り出すと、未だ彼の不可解な言葉に首を捻っているミルミルに、その先端を向ける。


「ですが、ご安心を。ここは『忘却の国』。不必要なものを切り捨てたり、失ってしまった記憶を蘇らせることのできる世界なのです。こうやって、堕天使ミルミルという存在を強引に巻き戻すこともね」


 突然、ステッキの先端から稲妻が奔った。

 まるで獲物を見つけた蛇が如く、黄金の光がミルミルの身体へと食らいつく。


「で、でちーー!?」

「みるみる!」


 驚いた円が駆け寄るものの、すでに触れることすら叶わなかった。

 光の中でもがき苦しむミルミルが徐々に変化していく。


 身体が膨張を始めたのだ。短かった腕と脚は新しい枝が伸びるように長くなり、胴体もまた二倍近くまで引き延ばされていく。それは変形というより成長。ミルミルは今、すごいスピードで歳を重ねていた。


 やがて光が収まるのと同時に、変化も終わりを遂げる。

 最終的に光の中から現れたのは、二十代前半まで成長した美しき姿のミルミルだった。


「…………」


 蒸気が立ち昇る自分の身体を、ミルミルは驚きの眼で見回した。


 雪のように真っ白な髪や肌に変化はない。しかし身長はもちろんのこと、幼児特有の寸胴とした体型ではなくなり、一人前の女性として相応しい精悍な顔つきへと変わっていた。


 ただ変化したのは肉体だけではなかった。


 今まで着ていたはずの防寒着は消え、夏空が似合う白いワンピースへ。その身なりは、天崎と戦うために自らを全盛期まで成長させた時と同じ姿だった。


「み、みるみる?」


 変貌を遂げた友人の一部始終を見ていた円が、恐る恐る近づいていく。


 すると突然、ミルミルが鬼の形相で円を睨みつけた。その威圧に竦み上がった彼女を抱き寄せると、ミルミルは凄まじい勢いでうさぎ顔の紳士から距離を取る。


「あんたは誰でちか!?」


 円を庇うように背中へ回したミルミルが、最大限の警戒心を露わにして叫んだ。

 うさぎ顔の紳士は怖気づくことなく、鼻をひくひくさせながら小さく笑う。


「ふふっ。どうやら記憶も戻ったようですね」

「この『忘却の国』ってのは、天使の亜空間でちよね? まさかあんた、堕天したミルミルを排除しに来た天界の使者なんでちか?」

「ノンノン。私は天界の使者などではない。かといって天使でもない」

「そんなわけないでち。こんな亜空間を造れる種族は天使以外に存在しないでち」

「ふふっ」


 再び笑ったうさぎ顔の紳士が、頭に載っているシルクハットを指で弾いた。


 木の葉が舞うように落ちるシルクハットが、彼の顔の前を通過した瞬間――変化が起こる。赤い目をした白くて可愛らしい草食動物が、一瞬にして美青年へと変わったのだ。


 ミルミルと同じ白い髪と白い肌。日本人からかけ離れた彫りの深い顔立ち。まるでルネサンス期の彫刻のような青年は、両腕を大きく広げ、演説でもするかのように己の名を名乗った。


「我が名は大堕天使カラエル。大天使のクローンでしかない天使などと一緒にしないでいただきたいね」


 不遜な態度で吐き捨てた刹那、タキシードの背中から大きな白い翼が生えた。ミルミルが持つ雲を模したものとは違う、羽根が一本一本連なった白鳥のような翼だ。


「聞いたことがあるでち。約千年前、天界が退屈だという理由で堕天した大天使様がいたとかいなかったとか」

「その通り。私が堕天した理由は、娯楽のない天界に嫌気が差したからだ。ホント、天界で暮らしていた頃は暇で暇で気が狂いそうだったよ」

「で、そんな大堕天使様がミルミルたちに何の用でちか?」


 憎むべき相手と話すかのように、ミルミルは嫌悪感を隠そうともしなかった。


 負の感情を向けられても、カラエルはどこ吹く風。彼女たちを見下しながら、ゆっくりと空へ浮上していく。


「実はヴラド三世を名乗る男が、近々面白そうなことをやるみたいなんだ。詳しいことは何も聞いてないけど、なんでも前代未聞の大仕事になるらしい。これはなかなかの喜劇だと思ってね。間近で観劇するために、補佐という形で協力を志願したんだ」

「ヴラド三世? あのジジイでちか……」

「それで彼が使い捨てた堕天使の存在を思い出して、こうやってスカウトに来たんだよ。どうだい? 同じ堕天したよしみ、世界が変わる様を一緒に観劇しないかい?」


 カラエルの勧誘を無視したミルミルは、記憶の底からヴラド三世の情報を手繰り寄せた。


 ミルミルも以前、ヴラド三世と対面したことがある。堕天した直後、彼の方から接触してきたのだ。天界からの追手を撃退できる力が欲しくないか? と言って。


 悪魔の生まれ変わりを教えてもらい、力を奪い取るための宝玉を渡されたものの、結果としてミルミルの目論見は失敗に終わった。そして堕天使としての能力も記憶も失ってしまったのだが……。


「一つ訊きたいでち。ミルミルも小耳に挟んだ程度でちが、ヴラド三世は天崎のお兄さんの身体を乗っ取るつもりなんでちよね?」

「いいや。悪いが、私は何も知らないのだよ。先に目的を知ってしまうと、楽しみが半減してしまうからね。ただ、あの『完全なる雑種』が標的であることは間違いなさそうだ」


 ミルミルは自分の背中に隠れている円を一瞥した。

 不安に濡れる彼女の瞳が、ミルミルの視線と交差する。

 そんな顔をされてしまっては、返す言葉など一つしかない。


 緩めた表情を再び引き締める。上空で浮遊している大堕天使を睨みつけたミルミルは、高らかに宣言した。


「断るでち。あんたと一緒に傍観者になるなんて、まっぴら御免でちよ」


 途端、カラエルの顔色が一変した。


 傲慢に塗れた自信過剰な態度は消え、信じがたい愚者を前にしたように目を細める。仰々しく広げていた両腕は、落胆とともに萎びていた。


「何故だい、ミルミル。君は以前、あの『完全なる雑種』と剣を交えたのだろう? 君の野望を打ち砕いた彼が、舞台の上で面白おかしく惨めに踊り狂う様を見てみたいとは思わないのかい?」

「事実だけ見れば、そうなるでちね。でもミルミルが力を求めた理由は、下界で平穏に暮らしたかったからでち。記憶は失っちゃったけど、結果的に望むものが手に入ったわけでちから、天崎のお兄さんに恩はあっても恨みはないでちよ。かといって、天崎のお兄さんがどうなろうとミルミルの知ったこっちゃないんでちが……」


 もう一度、円の方に目をやる。

 やはり――手に入れたものは失いたくない。


「それで円お姉ちゃんが悲しむのなら、ミルミルは迷うことなく抵抗するでち」


 過去など関係ない。守るべきは現在だ。

 この平凡な日常がいつまでも続けばいいと願う、ミルミルの揺るぎない覚悟だった。


 しかしカラエルの心には響かなかったようだ。心底理解できていない顔つきで、汚物でも眺めるようにミルミルを睨み下ろす。


「……君はこんな面白い出し物を観劇しないどころか、妨害すると言うのか?」

「ミルミルは、ただ平穏に生きたかっただけでち。思ってたのとは少し違ったけど、この何もない生活にもけっこう満足してるんでちよ。だからミルミルの安穏な暮らしを脅かす輩は、例外なく敵でち」


 その瞬間、カラエルの表情が死んだ。嫌悪感を通り越し、排除せねばならない敵だという認識すらも追い抜き、ただただ無味乾燥な瞳でミルミルを射抜く。それはまるで、空気中に漂う雑菌に対するような態度だった。


「堕天使は皆、何かしらの欲求があって天界を捨てるものだと思っていたが……これほどまでにつまらない堕天理由は聞いたことがない。何もない日常を享受するなど、知的生物であることを放棄しているとは思わないか?」

「平穏を求めることも、生物としての矜持の一つだと思うでち」

「なるほど、解かり合えぬわけだ。ならば私も願おう。愚かな堕天使に、生よりも安息な世界を与えたまえ」


 カラエルが両手を組み、祈りを捧げるような仕草をした――その時だった。

 背中に広がる大きな翼から、幾千もの弾丸が放たれた。

 弾丸の正体は羽根だ。骨よりも硬い芯をした白い羽が、ミルミルと円の頭上から降り注ぐ。


「でち!」


 覆い被さるようにして円を抱きしめるミルミル。それと同時に左手をカラエルの方へ向けると、彼女たちの前にレンズのような水の膜が現れた。


 ダダダダダダダダ!! と、数ミリの鉄板程度なら易々と貫くほどの威力を持った羽根が、ゲリラ豪雨の如く二人に襲い掛かる。掃射が終わった後は原形を留めていないだろう。


 だがしかし――。


「ほう?」


 無傷のミルミルを見て、カラエルは感心したように嘆息した。


 羽根の弾丸で埋め尽くされた地面は、ミルミルたちの周辺だけ一本も刺さっていなかった。まるで羽根の方が彼女たちを避けたように。


「なるほど。手元に亜空間を展開させ、直撃する羽根だけを光のように屈折させたというわけか。防ぐだけなら貫く自信はあったが、受け流されては致し方ない。その判断能力と部分的に亜空間を生成する技術。君はなかなかの逸材だったのだろうね」


 称賛の言葉もミルミルには届いていない。

 カラエルを睨みつけながら、彼女は腕の中にいる円の安否を確認した。


「円お姉ちゃん、大丈夫でちか?」

「うん、大丈夫」


 安堵するも、ここは未だ亜空間の中。

 すかさずカラエルの攻撃の合図が轟く。


「お次はこれだ! さぁ、君はどうやって抵抗する?」


 パチッ! と、カラエルが指を弾くのと同時に、地面に突き刺さっている羽根が一斉に蠢き始めた。一本一本が膨張し、人の形へ変貌してく。その姿は、先ほどまで無害だったはずのトランプ兵たちだった。


「回りくどいことするでちね」


 天使の亜空間は、自分の想像が及ぶすべての空想を実現することができる。カラエルなら、もっと効率良く敵を排除する方法を熟知しているはずだ。わざわざ剣や槍などの武器を持たせた兵隊たちに襲わせる必要はない。


 苦虫を噛んだミルミルは、細く微笑みながら高みの見物を決め込むカラエルを睨み上げた。

 天界が退屈という理由で堕天した大天使、か。


 勝機があるとすれば、そこだ。奴が自分は圧倒的に優位だと思っている間に、隙を見て反撃するしかない。


 とはいえ数千もの兵隊に囲まれては、ひとたまりもない。

 円を抱えたミルミルは、ひとまず空へと逃げた。


「君に飛ぶ許可を与えた覚えはないよ」


 カラエルがミルミルに向けた人差し指を下方へなぞる。たったそれだけの動作で、飛び上がったばかりのミルミルは地面に引っ張られ始めた。


「でち!?」


 抗う術もなく、即座に地面へと叩き落とされる。

 そこへ群がるトランプの兵隊たち。円とミルミルは、あっという間のその波に呑まれてしまった。


「さぁ、どう出る?」


 まるで抵抗してくれることを望んでいるかのように、期待の眼差しを向けるカラエル。ほんの数分前まで自分が抱いた感情すらも忘れてしまったようだ。


 そしてカラエルの期待は良い意味で裏切られる。


 ミルミルに覆い被さっていた兵隊たちが、爆発に巻き込まれたように吹き飛ばされたのだ。爆心地から姿を現したミルミルと円は、当たり前のように無傷だった。


「驚いたな。亜空間を展開した様子がないということは、純粋な腕力で兵隊たちを吹き飛ばしたのか? だが、天使にそんな肉体的な力が備わっているはずは……あぁいや、すっかり忘れていた。彼女は確か、悪魔の力も取り込んでいたのだったな」


 安藤から奪った悪魔の力。失った記憶とともに、そちらも蘇っていたというわけだ。


「君の中にある悪魔の力がどれほどのものかは知らないが、私のやることは変わらない。君の体力が底を尽くまで、このまま兵隊たちをけしかけるだけだ。さぁ、その座敷童を庇いながらどこまで耐えられるかな?」


 命のない兵隊たちが、再びミルミルに襲いかかる。


 その数、数千……いや、元々亜空間内で生まれた存在のため、無限に生成することすら可能だ。いくらミルミルが膨大な力を持っていようと、空を飛ぶことを禁止され、なおかつ円を守りながら戦うことは困難を極めた。


 案の定、押し寄せてきた大量の兵隊たちによって、二人は再び圧し潰されてしまう。


「繰り返すか? 堕天使ミルミルよ。打開策がなければ勝機はないぞ」


 落胆と期待が入り混じる表情を浮かべながら、カラエルは餌に群がる蟻のような兵隊の山を見下ろしていた。


 するとその時、異変が起こる。

 兵隊の山の中から、球体をした何かがカラエルの元へと飛んできたのだ。


「――――ッ!?」


 反射的に両手を前に出すも、受け止めることは断念する。その球体があまりにも速く、またバスケットボール並みの大きさがあったためだ。


 カラエルが身をよじると、謎の球体はヴォン! と音を立てて耳を掠めていった。


「今のはまさか……亜空間か!?」


 後方に逸れていった球体を視界に入れながら、カラエルは驚きの声を上げた。


 ミルミルは自分が展開した亜空間を小さく凝縮し、まるで大砲の砲弾のようにカラエルへと撃ち込んだのだ。


「亜空間そのものを武器にして敵にぶつける、だって? そんな技術は聞いたことないぞ!」


 叫ぶカラエルの口元は自然と綻び、喜びから身を震わせていた。


 しかも無数の兵士たちに蹂躙されている状況で、正確にカラエルを狙う精密射撃。並の精神力ではない。


「なるほど、悪魔の力によって身体能力が向上しているからこそできる芸当か。一般的な天使の肉体は、人間の子供とさほど変わらない。敵を前にしたら、まず亜空間を展開して自分の身を守ることが先決だからね。だが……」


 冷静に分析することにより、カラエルの熱も徐々に冷めていく。


「ここは私の亜空間だぞ。そんな攻撃が当たると思っているのか?」


 白けた目で、亜空間ボールを目で追っていたカラエルだったが――、

 予想だにしなかった事態を目の当たりにして、彼は熱を取り戻す。


 空中をピンボールのように跳ね回っていた亜空間ボールが、突然二つに分裂したのだ。ボールはさらに分裂を繰り返し、計八つになってカラエルの周囲を飛び回り始める。


 一部始終を見ていたカラエルは、鳥肌が立つほどに歓喜していた。


「す、素晴らしい! 亜空間は天使一人につき一つしか展開できないはずだ! 小さいとはいえ、それが八つも……。堕天使ミルミル。君は天才かぁ!?」


 カラエルにとって、攻撃を仕掛けられていることは些事のようだった。


 天使の亜空間は、いわば小説を書くことに等しい。想像が及ぶ範囲であれば、あらゆる空想を実物として表現できるのだ。


 だからこそカラエルはミルミルを天才だと認めた。


 二つの亜空間を展開するということは、すなわち右手と左手で同時に別々の小説を書くようなものなのだから。


「それだけに惜しい。ここまでの技術がありながら、ハッタリに頼らざるを得ないとはね」


 そう。カラエルはすでに、複数の亜空間を展開することの弱点を見抜いていた。


 いかに天才であろうと、八つもの物語を同時に綴ることなど不可能だ。どうしても文章力は疎かになり、話の展開もお粗末なものになってしまう。八つの物語が、渾身の一筆を込めた一つの物語に勝ることは決してない。


 その証拠に、八つの亜空間ボールはカラエルを正確に狙うことはできず、まったく規則性のないランダムな動きしかできていなかった。


「この私であろうと、他の天使の亜空間に直接干渉することはできない。故に君の亜空間を止めることは叶わないが……ならば私に命中する確率を極限まで下げるだけだ」


 動きがランダムである以上、絶対に当たらないというイメージはできない。ならばルールを変えるまで。カラエルの能力によって、ミルミルの亜空間ボールの命中率は今、雷に打たれるよりも低くなっていた。


「さて。そんな運任せの攻撃で、いつまでこの場を凌ぐつもりなのか……」


 そう呟いた瞬間、唐突な違和感がカラエルを襲った。

 運。自分で口にした単語が、頭の中で引っかかる。


 もしこの場に運を操作できる存在がいたとしたら?

 気づいた時には、もう遅かった。


 ドスッ! という鈍い音とともに、背中を押されたような衝撃が奔る。続いて右半身が急激な脱力感に見舞われ、平衡感覚を失ったカラエルは少しばかり高度を落とした。そして最後にやって来たのが、全身が麻痺するほどの痛みだ。


 驚きながらも、彼はゆっくりと痛みの発生源に目を向ける。

 右の脇腹が大きく抉れていた。


「馬鹿……な……」


 何が起きたのかは明白。ミルミルの放った亜空間ボールの一つが、後方からカラエルを貫いたのだ。


 カラエルが思考を乱したことにより、トランプの兵隊たちは動きを止める。


 ガラクタ同然となった兵隊の山が崩れ落ち、中から二人の少女が姿を現わした。それと同時に、カラエルは自分の予想が的中していたことを確信する。


「座敷……童……」


 ミルミルに抱えられた円を睨みつけ、彼は表情を歪めた。


 おそらく円はミルミルが放った亜空間ボールに、幸運に関する能力を付与したのだ。だからこそランダムな攻撃に徹した。亜空間ボールを『偶然にも』命中させるために。


 そしてそれは、座敷童と堕天使のタッグが大堕天使の亜空間を凌駕したことを意味する。


 その事実を認めたカラエルは――激昂するどころか、最上級の喜劇を目の当たりにしたように口元を緩めた。


「ふふ……ふはは、ふははははははははは!!!」

「何をバカみたいに笑ってるでちか?」

「いやいや、まさかこれほどまでに面白い出会いがあるとは思わなくてね」


 カラエルが穴の開いた脇腹に触れた、その瞬間――、


 まるで何事もなかったかのように、一瞬にして元通りになってしまった。ご丁寧に、弾け飛んだタキシードの一部まで完全に修復されている。


「えっ!?」


 奇跡を目の当たりにした円が驚きの声を上げた。


「何を驚いているんだい? 私は忘却の大堕天使。『傷を負ったことを忘れた』だけさ」

「忘却忘却って、うるさいでちね。天使に忘却なんて個性はないし、傷が治ったのは亜空間の能力のおかげじゃないでちか。即死してなきゃ、ミルミルにもできるでち」

「今回のテーマさ。すべてを失った君が過去を取り戻す物語だったからね」


 そう言って、カラエルはおどけてみせた。


 結局これだけの攻防があっても、お互い無傷。次にどんな攻撃が来ても反応できるよう、ミルミルは身構える。


 だがカラエルが追撃を施すことはなかった。

 身体を反転させ、無防備にもミルミルたちに背中を晒す。


「どこ行くんでちか?」

「君たちを排除するのはやめだ。君たちは面白い。亜空間を造る堕天使と、特定の空間内で確率を操る座敷童。面白い、もとい素晴らしい組み合わせだ。今後どのような活躍をするのか見たくなったから、今は生かしておいてあげるよ」


 言うやいなや、カラエルの姿が唐突に消えた。


「ま、せいぜい私を楽しませておくれ」


 どこからともなく声が聞こえるのと同時に、『忘却の国』が崩壊を始めた。兵隊たちの教室が草原へ移り変わった時と同じように、空間の端から徐々に焼け落ちていく。


 カラエルの気配が完全に去ったことを確認したミルミルは、安堵の吐息を吐いた後、円をギュッと抱きしめた。


「円お姉ちゃん。怪我はないでちか?」

「みるみる……おっぱい、すげえ」

「もう! 円お姉ちゃんはエッチなんでちから!」


 ミルミルの胸に顔を埋めた円は、成長したその胸部を遠慮なく揉みしだく。見た限り、怪我を負った様子はないようだ。


 しばらくお互いの無事を確かめ合った後、ミルミルが円を引き剥がした。

 顔を高さを合わせ、真剣な眼差しで円の瞳を見据えてくる。


「円お姉ちゃん。聞いてほしいことがあるでち」

「どうしたの?」


 円が首を傾げるも、言葉を選んでいるのか、ミルミルはなかなか口を開かない。

 しかしもうあまり時間もない。『忘却の国』の消滅は、すぐそこまで迫っている。


「たぶんミルミルは、この亜空間がなくなったら元に戻っちゃうでち。記憶も体格も、ただの五歳児になってしまうでち。大人になっている間のことは、すべて忘れちゃうと思うでち。だから……だから覚えておいてほしいでち」


 涙声になったミルミルは、円に本心を伝えた。


「ミルミルは円お姉ちゃんに会えて……とても幸せでちよ」


 それは偽りのない真実だった。


 何気ない平凡な日常を共にする姉のような存在に、ミルミルは心の底から感謝していた。


 だから伝えたかったのだ。日常が当たり前となった子供の自分ではなく、日常を欲していた頃の自分が、今の生活をどう思っているのかを。今の自分は、とても満足しているのだと。


「うん!」


 ミルミルの気持ちを受け取った円は、力強く頷いたのだった。






 気がつくと、二人は雪の積もった児童公園に佇んでいた。複合遊具のトンネル出口付近で突っ立ったまま、白兎を追いかける前と変わらない世界を見回している。


「でち?」


 不思議そうに首を傾げたミルミルの姿は元の五歳児に戻っており、また失ったはずの防寒着はいつの間にか復活していた。


「えっと……ミルミルたちはうさぎさんを追いかけて……それで大きくなったうさぎさんと一緒に不思議な世界を冒険して、たくさんのトランプの兵隊さんがいて……それからどうなったんでちたっけ?」


 ミルミルの言葉から察するに、どうやら大人になっていた間の記憶はすっぽりと抜け落ちているようだ。頑張って思い出そうとしてみるも、聞こえてくるのは低い唸り声だけだった。


 空を見上げながら呆けるミルミルを、円が突然ギュッと抱き寄せる。


「ま、円お姉ちゃん! 急にどうしたんでちか?」

「おっぱい、ない」

「当たり前でちよ! ミルミルはまだ子供なんでちから!」


 熱い抱擁から抜け出そうと手足をバタバタと動かすも、今のミルミルの力では簡単に振り解くことはできそうになかった。


 ふと、遠くの方で子供たちの声がした。

 いつも遊んでいる友達がやって来たのだ。


「みるみる。あそぼう。たくさんあそぼう!」

「でち!」


 満面の笑みで返事をするミルミルの手を引き、円は友達の元へと駆けて行った。

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