間 章 天崎東四郎の最高で最低な一日 その1
やけに冷たい空気が頬を撫でたことにより、天崎は泥のような眠りから帰還した。
ゆっくりと瞼を開く。ここが自室であると認識したのも一瞬、本能が否応なしに二度寝を催促してきた。
しかし天崎は抗うことを選んだ。
再びくっつきそうになる瞼を強引にこじ開け、枕元にあるスマホを手に取る。日付は十二月二十五日。時刻は午前九時半過ぎ。平日なら余裕の大遅刻だ。
ただ寝ぼけた頭でも、天崎はしっかり現状を把握できていた。
すでに冬休みに入ってることも、今日に限って何故こんな遅い起床になったのかも。
昨日の夜……というかつい九時間ほど前、天崎と円、そしてミルミルの三人は、サンタのプレゼント配りを手伝うべく、冬の夜空をソリで駆け巡っていたのだ。
日付が変わる頃に仕事を始めたのだが、ござるサンタの担当地域はかなり広大で、結局おののき荘に到着したのは午前三時を回っていた。あまりの眠気と疲労のため、天崎と円は帰宅と同時にぶっ倒れたのである。
そうして目を覚ましたのが午前九時半。睡眠時間は六時間程度。
そこそこ眠れたなと思うし、まだまだ寝足りないとも思う。だが今は冬休み。学校もおやすみだ。今日くらい二度寝をしてもバチは当たらないだろう。
誰にともなく言い訳をかましつつ、再び心地良い眠りの中に身を投じようとしたのだが――ようやく思い出した。
「だーっぶねっ!」
二度寝モードになりかけていた意識を、無理やり繋ぎ止める。
そういえば今日の昼、月島と映画を観に行く約束をしていたんだった。まだまだ時間に余裕があるとはいえ、今二度寝したらいつ起きられるか分かったもんじゃない。
慌てて飛び起きた天崎は、ストレッチがてら両腕を大きく伸ばした。
「つーか、なんかいつもより寒いな。……あっ、そっか」
昨夜のことを思い出した天崎は、白く輝く窓を開け放った。
凍てついた空気が雪崩れ込んでくるのとともに、真っ白に染まった街並みが視界に飛び込んできた。見慣れた民家はどれも雪化粧を施し、見る者を銀幕の世界へ誘っているよう。
「けっこう積もったな。まだ降るのか?」
空には未だ分厚い雲が覆っている。いつ降りだしてもおかしくはない天気だ。
傘を持って行くべきか迷いながら窓を閉めるのと同時に、押し入れの襖がサッと開いた。寝ぼけ眼の円が、ゆっくりと這い出て来る。
「おはよう。昨日は遅かったんだ。まだ寝ててもいいぞ」
「おは。……これ」
と言って、円が小さな箱を天崎に差し出した。
丁寧にラッピングされた、手の平に載るサイズの長方形の箱だ。
「なんだ、それ?」
そこまで訊いて、ピンとくる。
今日のこの時間帯、包装された箱の意味など一つしかないではないか。
「おっ、プレゼント貰えてよかったな! ったく、あのござるサンタ。昨日一緒にいたんだから、直接手渡しすりゃよかったのに……」
「ちがう。まどかのは、これ」
「?」
小さく首を振った円は、新品の自由帳とクレヨンをこれ見よがしに取り出した。なるほど、円がサンタクロースに願いそうなプレゼントだ。
ということは……。
「その小さい方は、俺に?」
無表情のまま、円がこくこくと頷く。
訝しげに思いながらも、天崎は差し出された小さな箱を受け取った。
軽い、非常に軽い。手にしている感触では、箱以上の重さがないようにも思える。
「昨日手伝ったお礼のつもりなんだろうけど……いやはや、まさか高校生にもなってサンタからプレゼントをもらうとはね」
とは言いつつも、天崎の顔は無意識のうちに緩んでいた。
それも仕方のないこと。クリスマスの朝、枕元にプレゼントが置いてある感動は、幼少期の中でも抜群に嬉しい思い出として脳内に刻まれているだから。
「さてさて、中には何が入っているのかな?」
舌なめずりをしながら、小さなプレゼントに手を掛ける。
箱の大きさからして、そう大した物が入ってるわけではないだろう。だからといって、円に贈ったような自由帳程度の物を高校生にプレゼントするとは思えない。となると、それなりに価値のある物……箱の形からして、まさか腕時計……いや、だとしたら重さが足りない。中身は紙のように軽い……つまり現金!?
「それでも十分嬉しいぞっと」
そう呟き、意気揚々と包装を解いていく天崎であったが――、
蓋を開けたところで、思考が停止した。
中に入っていたのは、『メリークリスマス!』と書かれた一枚の紙のみだった。
「まさか、これだけじゃありますまい」
紙を除け、再度箱の中を確認してみる。しかし、どこをどう見たところで他に何か入ってるようなスペースはない。振れど触れど引っ掻いてみれど、先ほどの紙切れ以外は何一つ出てこなかった。
「なんやねん!」
ついに業を煮やした天崎は、紙切れを真っ二つに引き裂いた。空の箱とともに、すべてをゴミ箱の中へと叩きつける。サンタからの意味不明なメッセージは、綺麗な音を立ててボッシュートされていった。
「……さて、風呂にでも入るかな」
そういえば、昨日は帰ってから即ぶっ倒れたもんなぁ。昼から月島に会うんなら、それなりに身なりを整えとかないとなぁ。
期待して損したことを一瞬で忘れた天崎は、さっさと風呂場へ向かったのだった。
湯が張るのも早々に、天崎は浴槽へどっぷりと浸かった。
昨夜の疲れが一気に流れ落ちていくかのよう。一呼吸もしない間に、再び夢心地気分になっていく。
しかし不意に脱衣所の扉が開くことで、意識は現実へと引き戻される。
入ってきたのは、すっぽんぽんになった円だった。
「なんだ、珍しいな」
特に気分を害するわけでもなく、天崎は少しだけ驚きを露わにした。
円と風呂を共にすること自体は、よくあること。だがそれは夜に限った話だ。朝風呂で円が入ってきたことなど、今まで一度もないはず。だから朝風呂はしない習慣なんだと、勝手に思い込んでいた。
「頭、あらって」
「あいよ」
返事を待つまでもなく椅子に座り、シャンプーハットを被ってすでに準備万端な円を無視などできますまい。未だ身体は温まっていないが、天崎は浴槽から上がり円の背後に回った。
お湯で髪を濡らし、シャンプーを泡立てて円の頭を優しく撫でる。こうやって彼女の頭を洗う時、天崎はいつも思うことがあった。
円の髪はとても綺麗だ。伝説級の怪物である吸血鬼や、異性を誘惑することが存在意義のサキュバスよりも繊細で美しく、何より清らかさが目立つ。まさしく穢れを知らない純粋無垢な子供を体現しているかのようだった。
それもまた座敷童という種族の特殊な性質に由来するものだ。
棲みついた家に富をもたらす座敷童は、外部からの穢れを遮断することができる。ただそれは他人の悪意や不幸といった抽象的なものだけでなく、屋外で被ってきた泥や埃などの不純物も該当する。
つまり常に清潔を保っていられる座敷童は、そもそも風呂に入る必要がないのだ。
にもかかわらず、こうやって一緒に風呂に入ってくれるってことは……それだけ慕ってくれてるんかなぁと、天崎は無意識のうちに頬を緩ませていた。
「お客様ー。痒い所はございませんかー」
「ないー」
そんな兄妹みたいなやり取りをした後、二人は一緒に湯船へ浸かった。
十分ほど温まったところで、天崎が先に風呂から出る。ただパンツ一丁で居間へ戻ったことには、さすがに後悔した。
「寒っむ」
そういえば外は雪が積もってたんだった。
湯冷めしてはいけないと思い、慌ててタンスへ向かう。だがその途中、怖気を震うほどの不穏な気配を察知し、天崎は身体を硬直させた。
振り返り、気配の出所を確認する。
玄関の扉がゆっくりと開いていくところだった。
「東ぉ四郎ぉ~~」
凍てついた外気とともに、地獄の釜が煮え滾るような声が侵入してくる。
えっ、誰? 新手のヤバい奴か? つーか鍵は? あっ、昨夜は施錠するを忘れたまま寝っちゃったんだっけ? それはいいとして、マジで誰だ? 生き残りの『奪者』が襲ってきた? それとも、ヴラド三世の奇襲?
なんにせよ、今はマズい。パンツ一丁では何の対処もできない。
最低限の反応くらいはできるよう、その場で身構えた天崎だったが……不気味な声の正体を目の当たりにして、ガクッと肩を落とした。
扉の隙間から顔を覗かせたのは、ゾンビのように生気を失った隣のサキュバスだった。
「空美さん、どうしたんですか? 恐山のイタコですら出しそうにない声してましたよ」
「うるせっ! 誰が年増じゃ!?」
「言ってません」
年寄りを年寄り扱いした時に言いそうな文句を垂れながら、空美はおぼつかない足取りで部屋に入ってくる。その身なりは、雪景色とはまたミスマッチなベビードールだった。
「まーたそんなだらしない恰好で外に出てきて……寒くないんですか? っていうか、俺が寒いんで早く扉を閉めてください」
「んだと、コラ。せっかく美人なお姉さんが下着姿で遊びに来てやってるっていうのに……」
とは言いつつも、空美は後ろ手で扉をしっかり閉める。
いつもは頭の上がらない天崎が強気に出られているのには、理由があった。
彼は空美の今の状態をよく知っている。足取り、顔色、インターフォンも押さずに他人の部屋に入って来る暴挙。彼女は今、まさしく二日酔いなのである。
本人曰く、二日酔い時の出来事はあまり覚えていないらしい。だからこそ多少の暴言を吐いても、後から怒られることはないのだが……それだけ空美の介抱をしてきたんだなぁと、天崎は少しだけ哀しい気分になった。
「で、何の用です?」
「あぁ。ちょっと悪いけど、何か酔い覚ましに良い物はないか? ウコンとか」
「高校生の部屋に、そんな物があると思いますか?」
「なんだよ、ねーのかよ。じゃあいいや。醤油くれ、醤油」
「醤油?」
判断力の鈍ってる今の状態でも、さすがに醤油で酔い覚ましができるとは思っていないだろうが……いや、でも、まさか……。
「なんか変な想像してるみてえだが、醤油は普通に目玉焼きにかけるんだからな? 作ってから気づいたんだよ、切らしてるの」
「目玉焼きには塩コショウでしょ」
「はあ? 目玉焼きには醤油って、太古の昔から法律で決まって……うっ!?」
「ここで吐かないでくださいよ!?」
「ダイジョブ、ダイジョブ」
目玉焼きに何をかけるかの議論なんてしている場合ではない。玄関で口元を押さえる空美に戦慄した天崎は、一目散に台所へ向かう。
だがしかし、その途中でちょっとした悪ふざけを思いついた。
「空美さん。醤油が欲しいなら、俺の頼みを一つ聞いてくださいよ」
「ほお? あたしに交換条件を出すなんて、お前も偉くなったもんだな。言ってみろ」
「可愛い声で、猫の鳴きマネしてください」
「……は?」
呆気に取られて大口を開ける空美。
天崎は両手の指を半分だけ折り曲げると、自分の顔の横に添えた。
「こうやって、です」
「…………」
言わんとしていることを理解したのか、空美の顔が徐々に赤くなっていく。
あっ、やべ、怒られる。ちょっと調子に乗りすぎたかな?
日頃の仕返しのつもりでおちょくっただけなのに、ガチで怒られては割に合わない。すぐに笑って冗談ですよと取り繕うとした天崎だったが……不意に、空美の両手が挙がった。
「にゃ~ん」
「――――ッ!?」
甘ったるい猫なで声。しかも天崎が要求した猫の手を真似るだけではなく、片脚を後ろに上げ、首を軽く傾げている。何より驚いたのは、二日酔いの体調の悪さを微塵にも感じさせられない笑顔から放たれたウインクだった。
隣人を見失った天崎は、思わず目を擦ってしまう。
もう一度目を見開いて確認してみるも、玄関口で可愛らしい猫のポーズをしているのは、間違いなく隣の部屋の住人……有沢空美だった。
時が止まってから数秒、空美が動く。
「にゃ~ん!」
ノリに乗った空美がサンダルを脱ぎ捨てて、天崎の方へ飛びかかってきた。
「えっ、ちょっと待って空美さん! もういいですってふむぅ……」
「にゃんにゃん、ごろごろにゃ~ん」
無防備だった天崎を、空美が勢いよく抱きしめた。
まるでお気に入りのヌイグルミを見つけたように、天崎の頭をその豊満な胸部へと押し付ける。仲睦まじいのは良いことなのかもしれないが、パンツ一丁の高校生とベビードール一枚のキャバ嬢が抱き合う様子は、誰がどう見ても通報ものだった。
「分かった! 分かったから空美さん! 俺の負けでいいから!」
「にゃにゃにゃにゃ~ん!」
柔らかい双丘を手の平で押し返すも、空美は一向に解放してくれない。それどころか全体重を預け、天崎を畳の上へ押し倒してくる。
強かに背中を打ち付けて悶絶しつつも、天崎はしっかりと目を見開いた。
空美の笑っていない笑顔がすぐそこまで迫っていた。
「にゃんにゃん、にゃにゃにゃ~ん! ……オエエエエエエ」
「ぎゃああああああああああ!!!」
一瞬にして来訪時のものへと変貌する空美の顔。
ホラー映画どころではない、生死が関わるマジもんの悲鳴を上げる天崎。
しかし大きく開かれた空美の口からは、何も吐き出されることはなかった。
「だっはっは。あたしに交換条件を持ちかけるなんて、百年早いよ」
「お、恐れ入りました……」
笑いながら退く空美に対し、天崎は涙を滲ませることで降参を表明した。
腰は抜け、身体は震え、心臓はバクバク。一撃で満身創痍になった身体を、天崎は両腕を使ってなんとか起こす。そこで、ようやく風呂から上がってきた円と目が合った。
「にゃーん」
「おっ、円か。おはよう。……って、なんだその恰好!? なんで素っ裸なんだ!? 東四郎に着物ひん剥かれたんか!?」
「なんでそんな発想になるんですか! ただ一緒に風呂に入ってただけですよ!」
「風呂!? 高校生の分際で朝っぱらから風呂とか、ブルジョアか!?」
「空美さんの中では朝風呂はブルジョワなのか……」
よく分からない価値観だった。
「ま、いいや。んじゃ醤油借りてくぜ。せっかく作った目玉焼きが冷めちまう。返す時は十倍にしといてやるから、期待してな」
フラグを立てるギャンブラーのようなセリフを放った空美は、勝手知ったる他人の台所と言わんばかりに醤油の在り処を一発で探り当て、そのままさっさと部屋から出て行った。
「いやぁ、マジでビビった。せっかく風呂で温まったのに、身体の芯から凍えたよ」
「ねえねえ」
「ん?」
どデカいため息を吐き出した天崎の肩を、素っ裸の円が指でつつく。
そして先ほどの空美と同じく猫の手を真似ると、無表情のまま可愛らしく鳴いた。
「にゃんにゃん」
「……分かったから、先に服着ような」
呆れた声で窘めながら、天崎は円の頭を優しく撫でるのであった。




