間 章 とある死神と人間(?)の会話
「クリスマス、か」
十二月二十五日。見渡す限りの街並みは、すっかり白一色に染まっていた。
積雪の深さは十センチくらいだろうか。大人が足を踏み入れても、踝辺りまで埋まってしまうほど。日常生活に支障はなくとも、出歩く際は転倒しないよう足元に注意が必要だ。
また上空には未だ分厚い雲が覆っていた。近いうちに、もうひと雪あるかもしれない。
だが彼には関係なかった。どれだけ過酷な環境であろうと、まったく影響を受けない存在である彼は、徐々に起きゆく街並みをぼんやりと眺めるのみ。
住宅地から少し離れた鉄塔の上。
灰色に染まった空を背景に、真っ黒な塊がポツンと一つ。
彼の名は石神照樹。正真正銘の死神である。
その身を漆黒の布で包んでおり、外部へ露出しているのは首から上だけ。その顔の面積もまた、無駄に長く伸ばされた前髪によって、ほとんど隠れてしまっている。まるで世間と関わることを拒絶しているかのように。
「まったく、お気楽なもんだね」
ふと、まったくの無表情だった石神が、ゆっくりと皮肉めいた笑みを浮かべた。
「毎年、日本では二万人を越える自殺者が出ている。単純に計算しても一日で五十五人以上。クリスマスで大勢の人々が浮かれている中、この空の下では今もどこかで誰かが自らの命を絶っている。ホント、世界は不公平だよね」
独り言ちた後、石神は小さく「フフフ」と笑って見せた。
石神が自殺に対して一家言あるのも、彼自身、自殺によってその命を断ち、この世を去ったためである。親よりも先に死んだ子供の死因が自殺だった場合、賽の河原で永遠に石を積み上げるか、それとも死神となって冥界のために尽くすか、選択を迫られるのだ。
「ま、どうでもいいんだけど」
一瞬で興味を失った石神の顔が、再び無表情へと戻った。
彼の感情が乏しいのも、死神に転化する際の制約だった。
死神の仕事は、現世で彷徨う魂を冥界へ導くこと。そのため現世での活動を円滑に行えるように、死神の魂と仮の肉体が冥界より与えられるのである。つまり死神として、ある意味第二の人生を歩むようなものだ。
だが自ら命を絶った罪人に、そのような恩赦を与えるわけがない。
死神になった者の感情・欲求は、生前のおよそ十分の一まで削減される。それらはすべて、機械的に仕事をするだけの死神には必要ないものだからだ。
ただ欲求が減ったからといって、決して失ったわけではない。
彼の心の大半を占めるのは、現世に遺した両親の存在だ。彼の望みはただ一つ。両親に向けて『今までありがとう。自殺してごめんなさい』と伝えることだけだった。
そんな心の隙間に付け込まれ、石神は先日、とある男に利用されてしまう。
死神の制約の一つに『生前の知り合いには決して会うことができない』というものがある。その制約を外せるという男の甘い言葉に、まんまと騙されたのだ。
それに伴い、欲求の乏しくなった石神の心に新たな目標が一つ追加された。
すなわち復讐だ。
絶対にあの男を殺す。自分どころか両親をも利用した、あの男を。
「さて、そろそろ仕事を始めるか」
とはいえ感情が制限されている今の石神にとって、その憎しみを継続して抱き続けることは難しかった。
根付いた憎しみが表に出たのは一瞬だ。彼の心はすぐに、仕事をしなければならないという機械的なものへと置き換わる。
一度だけ大きく背伸びをした後、石神は鉄塔から飛び降りた。
漆黒の布をはためかせ、最小限の動作で宙を舞っていく。
現世を彷徨う魂を冥界へ送るという一点を成し遂げれば、死神の行動は基本的に自由だ。やり方やペースなどは、死神個人に委ねられる。なので効率良く仕事をこなすため、石神には毎日のように行っている日課がいくつかあった。
その一つが病院巡りである。
平時において、もっとも人が死ぬ場所は病院だ。故にその足でいくつもの病院を訪れ、死後四十九日を経過しても成仏しそうにない魂に目星をつけているのである。
世間の行事など関係なく、石神はいつものように近場の病院へと向かった。
正面玄関から堂々と入る。まだ早い時間帯のためか、ロビーは閑散としていた。
せわしなく動いている看護師の横を通り過ぎ、入院患者がいる階へと移動する。時折、気配を感じ取った医師や看護師が石神の方へ視線を移すが、決して視えているわけではない。長く病院で働く者は多くの魂に触れるため、必然的に霊感が強くなっていくのだ。
共同部屋の前で足を止めた石神は、懐から一冊のノートを取り出した。
名前を書かれた人間が死ぬ……などといった特殊な能力はない、普通のノートだ。入院患者や、死期の近そうな者の名前をメモしているのである。そういう意味では、死神に目を付けられた人間は近々死ぬと言ってもいいのかもしれないが。
そうやって病院内を歩き回り、地道に情報を集めていく中、石神は最終的にとある病室の前で立ち止まった。最上階の個室だ。
今日はここに用事がある。
分厚い引き戸をすり抜けた石神は、静かに病室内へと侵入した。
「あっ、死神さん」
窓際のベッドに背を預けている少年が、にこりと笑った。
年の頃は、おそらく小学校中学年くらいだろう。年齢に見合った無邪気な笑顔を浮かべて、音もなく入ってきた石神を歓迎していた。
「久しぶりだね。調子はどうだい?」
見舞いの言葉とは対照的に、石神の表情は沈んでいた。
対する少年の方も、まるで病人と見舞い人の立場が入れ替わった方がしっくりくるような溌剌とした声で返す。
「うん、久しぶり! まだ僕を殺そうとしてるの?」
「…………」
返す言葉が浮かばず、石神は黙り込んだまま少年の瞳を見据えた。
そんな彼の内心を知ってか知らずか、少年は不敵な笑みを浮かべながら、唇の前で人差し指を揺らし始める。
「チッチッチ。甘いね、死神さん。この通り、僕は元気さ。それに明日の手術をすればちゃんと治るって、お医者さんも言ってたんだ。だからもう、死神さんとはさよならだよ」
「そう、だね」
短く、まるで息を吐き出すついでのように、石神は頷いた。
彼の沈痛な面持ちを不審に思ったのか、少年は恐る恐る石神に問う。
「まさかだけど……明日の手術、失敗するなんてことは……ないよね?」
「死神は未来を視ることはできないよ。今にも死にそうな人間を判別したりする能力には長けているけど、予定された死なんてものは存在しない。手術が成功すればまだ生きられるし、失敗すれば死ぬ」
「なんだ、よかったぁ」
と言って、少年は胸を撫で下ろした。
死神が現れたからといって、死ぬと決まったわけではない。だったら安心して明日の手術に臨むことができる。だって医者も両親も、手術は成功するって言っていたのだから。
たぶんこの死神は、失敗した時の保険として自分の元へ来たのだろう。
なら死神なんて必要ない。手術は絶対に成功する。
少年は強気な言葉で石神を撃退しようとしたのだが……。
死神に慈悲はなかった。
「でもね、残念ながら君の手術は成功しないんだ。これは確定している」
「……え?」
さすがに理解できず、少年は混乱する。
彼は言ったはずだ。たった数秒前に、その口で。未来を視ることはできない、と。
顔を青くした少年が、石神に食ってかかった。
「そりゃ、失敗する可能性もゼロじゃないけど……でも、やってみなくちゃ分からないじゃないか! 未来が視えないくせに、不安にさせないでよ!」
「そうだね。死神に未来は視えない。でもね、君と同じで、過去はしっかりと視えてるんだ。当たり前のようにね」
「過去? なに言って……」
「ちょっとこっちへおいでよ」
一歩引いた石神が、少年の方へ手招きする。
しかし少年は、彼の側へ行くのを躊躇った。死神の元に歩むという行為は、『死』そのものを実感させられるから。という理由もあるが、それ以上に……。
「でも、勝手にベッドから出たらお母さんに怒られる」
「構わないさ。一度だけ、君が寝ているベッドを振り返ってごらん」
一度だけと言われ、少年は渋々ながらも立ち上がる。
そのまま石神の元まで歩み、今まで自分が背を預けていたベッドを振り返ったところで――少年は驚きの声を上げた。
「え……だ、誰?」
ベッドには、見知らぬ少年が眠っていた。
石神の側にいる少年とは似ても似つかない顔。それどころか年齢もまるで違う。おそらく中学生から高校生くらいだろう。見ようによっては、石神よりも年上かもしれない。
信じられない光景を目にした少年は、無意識のうちに後ずさっていた。
それも当然の反応だ。たった今、自分が横になっていたはずのベッドに、まったく見も知らない男が眠っていたのだから。
目を見開いた少年は、解答を求めるように石神の方へ首を回す。
石神は平然平坦とした声音で、事実だけを口にした。
「現在、この病室を使ってる病人だよ」
「う、嘘だ! だって、今この部屋に入院しているのは僕だろ!?」
「正確には、君はこの部屋に入院『していた』。五十日前まではね」
「……は?」
息を呑んだ少年は、石神や見知らぬ男が眠っているベッドから一歩一歩後退していく。だが石神は少年を追い詰めようとはせず、ただただ哀しそうに首を振るだけだった。
「やっぱり覚えていないのかい? 手術は成功しなかったんだ。それで君は死んだ。五十日も前にね」
「嘘……だ……」
青白く染まった少年の額から、大量の汗が浮かび上がってきた。
そう、少年はすでに死した存在だった。自分が死んだことにも気づかず、生前入院していた病室に魂だけが遺っていたのである。
ただ石神は決して「手術は失敗した」とは言わなかった。なぜなら少年の病気は、手術したところで完治するような軽いものではなかったから。
両親や医者からの「絶対に治る」という言葉を信じ、麻酔の効いた手術中に息を引き取ったことが、未だ自分の死を受け入れられていない原因だろう。生前なら気を持たせるのに有効な言葉だが、死んだ後に弊害が出るのは考えものだなと、石神は場違いにもそんなことを考えていた。
そんな中、少年の焦りは増していく。
項垂れた頭を抱えた少年は、全身を小刻みに震わせ始めた。
「嘘だ。嘘だ嘘だウソだ!!」
その時、まるで少年の震えに同調するかのように病室の備品が振動し始めた。
テレビ、ベッド、輸液ポンプ、花の入った花瓶など、あらゆる物が徐々に揺れを大きくしていく。動揺した少年の魂が、ポルターガイストを引き起こしているのだ。
しかし石神は、まるでこうなることを予期していたかのように冷静沈着だった。とはいっても、決して予定していたシナリオ通りではないようだったが。
我を忘れるほど取り乱す少年を見据えながら、石神はゆっくりと息を吐く。
「できれば、しっかりと自分の死を認めて自力で成仏してほしかったけど……仕方がない」
処理は一瞬だった。
虚空から現れた大鎌を握りしめた石神は、何の予告もなく少年の身体を薙ぎ払った。
狭い室内だからといって、行動制限はない。壁や天井などの障害物は貫通し、大鎌は少年の魂だけを真っ二つに引き裂いていく。結果、少年は意識を失い、周囲の備品も何事もなかったかのように震動を治めていった。
「ごめんね。生者に危害を加えたり、四十九日を過ぎても成仏しない魂は、こうするしかないんだ」
追悼か同情か、はたまた別の感情か。真っ二つに裂かれて床に倒れる少年の魂に向け、石神は瞼を閉じたまま祈りを捧げていた。
ふと、ベッドで眠っている今の入院患者が呻き声を上げた。おそらく先ほどの振動で目が覚めてしまったのだろう。軽い地震程度の揺れはあったはずだ。
姿を視られるわけではないが、礼儀としてここに留まるわけにはいかない。
床に伏している少年の魂を抱えた石神は、窓をすり抜けて外へと飛び出した。雪の積もった病院の屋上に降り立つと、少年の魂を空へ解放する。
「安心しなよ。君は死神にはならない。賽の河原で石を積み上げることにはなるけど、冥界の番人が崩しに来ることはないだろうさ。だから、それが終われば……楽園だ」
とはいえ石神も、冥界へ逝った魂がどうなるのかは知識としてしか知らない。だから楽園というのは死する者への手向け。そして死神として魂を狩る者の、せめてもの罪滅ぼしだった。
分厚い雲の隙間から光が差し、少年の魂が天へと昇って行く。
人一人の運命を導いた石神は、魂の逝く様をただじっと見つめていた。
「へぇー。死神って、そうやって魂を狩ってるのかぁ」
少年の魂が肉眼では見えなくなるまで見送った後、唐突に背後から声を掛けられた。
驚いた石神は、慌てて振り返る。
屋上と階下を結ぶ階段の上で、奇妙な男がヤンキー座りをしていた。
「おっ、めっちゃ陰キャそうな顔してんじゃん。死神って、みんなそんな感じなん? つっても、僕も人のこと言える顔面偏差値じゃねーけどな。ギャハハ」
どうやら石神に向けて発した言葉で間違いないようだ。
一瞬で呼吸を整えた石神は、前髪の間から相手の男をきつく睨みつけた。
「誰……ですか?」
途中で敬語に直したのは、相手が年上だろうと判断したからだ。
とはいえ、男の年齢を正確に測るのはなかなか難しい。なぜなら、その身なりがあまりにもちぐはぐだったからだ。
石神よりもさらに長く伸びた髪は、まるで手入れした様子がない。数週間単位で洗っていないと言われても納得できるほど、不衛生を極めていた。
山ごもりしていた修行僧みたいな印象ではあるが、髭はなく、顔に疲労の色もない。むしろ徹夜続きでおかしなテンションになっているように、爛々と瞳を輝かせていた。
また着ている服装も、とても常識の範疇に収まっているとは思えなかった。
踝までしかない迷彩柄のカーゴパンツに、足元は室内用のスリッパ。そして上半身はTシャツ一枚であり、骨のように白く細い腕を外部へ晒している。雪の積もっているこの真冬に外出するにはそぐわない、明らかに異常な恰好だった。
石神が男の様子を観察していると、彼はニンマリと笑った。
「僕は神上立人ってゆーんだ。よっろしくぅ。キミの名は?」
「…………」
敬礼しながら自己紹介する男に怪訝な眼差しを向け、石神は押し黙る。
無視することも考えたが、どうしても訊ねなければならないことがあったため、石神はボソッと自分の名前を口にした。
「……石神照樹」
「石神!? マジ!? キミも名前に神って付くんだ!? すげぇ偶然じゃん! マジで神ってるぅ! 僕と神々コンビ組まねえ?」
「あなた、僕のことが視えるんですね」
真っ先に抱いた疑問が、それだ。
男が石神の姿を視認し、会話すらしている今の状況は、かなりの異常事態だった。
死神は、自身の身体を三つの状態に変化させることができる。
一つは肉体がある状態だ。感情や欲求などはそのままだが、肉体を持った普通の人間のように活動することができる。その際、死神としての能力は使えない。
二つ目は死神化している状態。漆黒の布を身に纏い、自由に宙を浮くことができ、大鎌を操って魂を狩る。物体を透過することも可能だが、他者からはしっかりと視認される。
そして最後の三つ目は、二つ目に加え、さらに誰からも認識されなくなった状態である。多少の霊感があれば気配くらい察知できるとはいえ、話しかけるほど視えているのは死者以外にあり得ない。
石神は病院を訪れる前から、ずっと三つ目の状態を維持していた。
にもかかわらず、神上立人は普通の人間を相手するように石神と言葉を交わしている。
いや、そもそもの話、石神は彼の存在にまったく気づかなかった。
生きている人間も含め、石神は周辺にある魂の動きを大まかに把握することができる。誰もいないと思ったからこそ、少年の魂を開放する場として屋上を選んだのだ。先ほど声を掛けられた際は、さすがに驚かずにはいられなかった。
「視えてる視えてる。ばっちし視えてるよぉ!」
と言って、神上は両手の親指と人差し指で瞼をこじ開けた。
素なのかふざけてるのか、石神には判断ができない。余計な会話は不要と決め、自らの疑問だけをぶつける。
「何の用ですか? 死神の仕事なんて、生きてる人間に見せるものではないんですけど」
「別に死神さんの仕事が見たかったわけじゃないさ。今のはたまたまよ、たまたま。実はちょっとしたお遣いでキミに会いに来たんよ。初めてのお遣い」
「お遣い?」
「そうそう。知り合いのヴラド三世っつーじいさんにお願いされてな、死神と話して来い言われたんよ」
「――――ッ!?」
ヴラド三世。その名を聞いた瞬間、石神の両手が震えた。
彼が殺したいほど憎んでいる男こそ、まさにヴラド三世その人らしい。本物かどうかは関係ない。自分を騙した奴と同一人物なら、それで十分なのだ。
その手掛かりが……今ここにいる。
しかし焦りは禁物だ。
逸る気持ちを無理やり抑えた石神は、神上に向けてさらに質問を放った。
「ヴラド三世らしき人物には、僕も面識がありますよ。で、あのクソジジイが今さら何の用なんですか?」
「んー。なんていうか、石神君がもう一度手を貸してくれるように交渉して来いってさ」
「は?」
「なんでも、感情の死んでる死神を懐柔するのは難しいみたいでさ。だから前にいろいろ従ってくれた石神君を、もう一度仲間に引き入れたいってわけ。いやはや、バカな話だよね。一度捨てたオモチャをゴミ捨て場から拾って来いなんてさ。ギャハハ」
「…………」
さすがに意味が分からず、神上の言葉を理解するのに時間がかかってしまう。
「自分から取り引きを反故にしといて、また手を組もうだって? バカにするのもいい加減にしろ。こっちは隙あらば殺してやりたいくらいなんだ。お前の命を差し出すなら考えてやる。……って伝えておいてくれませんか?」
心の底で生まれた怒りが、石神から敬語を失わせた。
神上の物言いもそこそこ頭に来るものだったが、今の石神には自称ヴラド三世に憎しみを向けるだけで精いっぱいだった。神上の言葉は知らない家の番犬に吠えられたものだと思って、無視を決め込む。
「悪いけど、僕の軽ーい頭じゃ、そんな長いセリフは覚えれないにゃー。できればもっと簡潔に言ってくんない?」
「分かりました。じゃあ一言、『断る』と」
「オーケー」
無邪気に笑った神上が、その場で立ち上がった。意外と背は低いみたいだ。
神上は石神を見下ろしたまま、さらに口の端を釣り上げる。
「実はもう一つ、お遣いを頼まれてるんだよね」
「もう一つ?」
「うん。もし断られたら今後の障害になるから、その死神を『消せ』ってさ」
「…………はは」
仲間にならないなら排除するまで。あの卑怯な男が考えそうなことだ。
とはいえ認識が甘すぎる。感情の乏しい石神の口から、乾いた笑いが漏れる程度には。
人間が死神を排除することなどできるわけがない。そもそも存在している次元が違うのだ。害するどころか、触れることすら叶わない。それができるのは同じ死神か、冥界の関係者のみである。
「僕を排除、ですか。あなたにそれができるんですか?」
「さあ? でも、ヴラドの爺さんはできるって信じてるみたいだぜ。なんでも僕、死神の天敵らしくてさ」
「死神の天敵?」
「いや、本当かどうかは知らんけど」
そう口にした神上すらも半信半疑のようだった。それどころか、耄碌した年寄りの戯言と受け取っている様子。
ただそこにヴラド三世を侮蔑する感情は見受けられない。
まるで難問の解答をようやく渡された生徒のように、神上は破顔した。
「でもさ、目の前に本物の死神がいるんだから試してみればいいだけだよね」
言うやいなや、神上が扉の上から飛び降りた。
雪の積もった屋上に着地した神上は、わずか一歩でトップスピードに達する。屋内用スリッパで雪を弾き飛ばしながら、石神の元へと一気に迫った。
速い――。
石神が驚いている間にも、神上は半分以上も距離を詰めていた。
ただ神上の不意打ちに対抗する猶予がまったくなかったわけではない。脇を引き締めた石神は、手の中に出現させた大鎌を水平に薙ぐ。
しかし――、
「なにッ!?」
薙ぎ払った大鎌は、いとも容易く避けられてしまった。
いや、石神としても本当に切り裂くつもりはなかった。大鎌で牽制し、相手が怯んでいる間に逃げる余裕を確保したかっただけだ。
驚いた理由は、神上が避けた方向。彼は薙ぎ払われた大鎌の真上へ跳んだのだ。
約一メートルほどの垂直跳び。雪で足を滑らせれば一貫の終わりだというのに、神上は死の一撃を難なく躱す。
そして次の瞬間、石神の視界には足の裏があった。
ドロップキックだ。大鎌を避けたついでのような蹴りが、石神の顔面に直撃する。突進の威力も相まってか、彼はそのまま後方へと吹っ飛ばされた。
着地した神上は、すぐさま追撃の姿勢に移る。
いつの間にか手にしていた二本のサバイバルナイフを交差させ、石神の首を狙う。
だが石神は、あえて体勢を整えなかった。蹴られた勢いに身を任せたまま、後方へ倒れ込むのみ。
ギラギラと輝く神上の瞳と、生気のない石神の虚ろな双眸が交じり合う。
そして――ガキッ! と金属音が鳴り響き、刹那の攻防は終わりを迎えた。
神上のナイフによる一撃は、屋上のフェンスによって阻まれる。後方へバランスを崩していた石神がフェンスをすり抜け、その身を空中へ投じたのだ。
そのまま絶対に追撃が届かないであろう高度まで浮上する。
「あっ、ずっり! 空を飛ばれたらキミを殺せないじゃんか!」
まるでルール違反を犯した相手を非難するように憤る神上。
しかし石神の耳にはまったく届いていなかった。
そんなことよりも……と、痛みが広がっていく自分の鼻に触れる。開いた手は、大量の鼻血で塗れていた。
「死神の僕に……蹴りを?」
石神が驚くのも無理のないことだった。
どんなに優れた霊能力者でも、死神に触れることなど絶対に不可能だ。こちらが意図的に接触できる状態にならない限り、決して生者には踏み入ることのできない領域なのである。
にもかかわらず、神上は当たり前のように蹴りをかましてきた。
先ほどの神上の言葉が脳裏を過る。死神の天敵というのは、死神に触れられる特殊な存在という意味なのだろうか?
「うーん……やっぱやーめた!」
屋上に取り残された神上が、わざとらしく声を上げた。
手持無沙汰にジャグリングしていた二本のナイフを収めると、上空で浮遊する石神へ視線を向ける。
「その大鎌ってさ、魂を斬るためのものなんだろ?」
おそらく死神の能力は自称ヴラド三世から聞いていることだろう。ならば隠しても意味はないと判断した石神は、素直に答えた。
「ええ、そうですよ。普通の人間が相手なら、少しでも傷を付ければ魂を抜き取ることができます」
「だよね。一撃必殺の武器を持った相手と喧嘩なんて、ハイリスクノーリターンすぎるわ。だからやーめた」
神上は降参を示すように両手を挙げた。
そっちから攻めてきたくせに何を言ってるんだ? と思うも、成果は十分だろう。自分が死神の天敵であることを、しっかりと証明してみせたのだから。
「つーわけで、今日のところは退散させてもらうわ。あっ、でも石神君のことを諦めたわけじゃないからな! 死神との戦い方を研究したら、また改めて石神君を狩りに行くから、そん時ゃよろしく!」
「なに?」
問い返そうとするも、神上はすでに逃走を開始していた。
石神から離れるように、屋上の反対側へと走っていく。
「待て!」
唐突な反撃を警戒するため、一定の距離を保ったまま神上の背中を追う。しかし突拍子のない彼の行動を目の当たりにして、石神は思わず動きを止めてしまった。
反対側のフェンスを乗り越えた神上は、そのまま屋上から飛び降りたのだ。
ここは市内で最も大きい市民病院だ。地面までの距離は二十メートルを越える。当たり所が悪ければ死ぬ、どころの話ではない。着地点にも雪は積もっているが、たった十センチ程度ではクッションにもならないだろう。
気でも違えたか? と、石神は冷ややかな目で見守っていたのだが――、
神上は無事に着地を成功させた。
「なっ――」
あまりにも非現実的な光景を目にし、石神は絶句した。
地面と衝突する直前、神上が全身を大きく捻る。その瞬間、彼の身体が一瞬だけ宙に浮いたのだ。
まるで地面から真上に突風が吹き上げたかのよう。自由落下のエネルギーが相殺され、空中で完全に静止した神上は、再びその位置から落下を開始する。一メートルにも満たない落差では、無傷で着地することは容易だった。
もちろん、運よく人間の身体を持ち上げるほどの強風が吹き荒れたわけではない。神上が全身を捻ったことによって、落下エネルギーと同等の推進力を得たのだ。
「本当に人間……だよな?」
身体能力が優れているというレベルではない。物理的にあり得ない動きだった。
疑わしげに目を細めた石神は、全速力で病院から駆けていく神上を見据える。追跡自体は難しくないものの、本能がブレーキを掛けた。死神に触れることのできる奴を追うのは、かなり危険な行為だ、と。
「死神の天敵、か」
呟き、未だ晴れる様子のない空を見上げる。
分厚い雲が覆う灰色の空が、石神には良からぬことが起こる前兆に思えて仕方がなかった。




