間 章 とある店長と淫魔の会話
十二月某日。とある街角にある小さなバーで、一組の男女が肩を並べていた。
一人は一流女優に引けを取らない美貌を持つ、二十代半ばの女性だ。艶やかな髪に、キリッとした目つき。嗜虐的な内面を滲ませる勝気な顔つきも、彼女の魅力の一つと言えよう。
また本日は、非常に大胆なドレスでその身を包んでいた。
真冬だというのに両肩を大きく露出し、その豊満な胸を強調させている。先ほどからバーテンダーの視線がその胸元へ引き寄せられていることを、彼女は知ってか知らずか。いや、女性の扱いに慣れているバーテンダーですら、視線を奪われてしまうほど情欲的なのだ。もし彼女がそのまま街に出れば、すれ違った男すべて魅了してしまうと言っても過言ではない。
そんな蠱惑的な雰囲気を持つ女性に対し、隣の男は毅然とした態度で座っていた。
年の頃は、はっきり言ってよく分からない。若作りをした六十代にも見えれば、老けた二十代にも見える。ただ何事にも動じそうにない落ち着いた居住まいは、一般的な若者では決して出せないような貫禄があった。
二人の間に会話はない。しかし気まずい雰囲気というわけでもなく、相手が側にいること自体をお互いが楽しんでいるようでもあった。
すると突然、女性が目の前のカクテルを一気に飲み干した。そして両腕でカウンターの上に枕を作り、そのまま顔を伏せる。
「有沢さん、ちょっと飲みすぎじゃない?」
隣の男が、清水が流れるような静かな声音で窘める。
しかし女性は反省するどころか、睨みつけながら男の手の甲を抓った。
「う・つ・み」
「痛い、痛い。分かったよ、空美さん」
仕方なく名前で呼ぶと、空美は満足げに微笑んで解放してくれた。
そして空になったグラスを弄びながら、ゆっくりと語り出す。
「飲みすぎたくもなるさ。実はちょっとした悩みがあるんだよね」
「悩み? 空美さんらしくないね」
冗談のつもりだったのだが、すかさず空美の肘打ちが飛んできた。
脇腹狙いかと思いきや、その攻撃は偶然にも肘の骨に直撃し、激痛を感じた男は小さく呻き声を上げる。
「……聴くよ」
「ありがと」
最初からそれ以外の回答はなかった。
正面を向いた空美が、グラスに添えられたチェリーを口元へ運ぶ。
「あたしが住んでるアパートの隣に、東四郎ってガキがいるだろ? 『完全なる雑種』の」
「東四郎? あぁ、天崎君のことか。まさか空美さん、天崎君に惚れてしまったとか?」
「あたしがあんな尻の青いガキに惚れるわけねえだろ。冗談もほどほどにしないと、マジでぶっ飛ばすぞ」
「ごめん、ごめん。どうやら僕も少し酔っているみたいだ。それと悩みを抱えてるレアな空美さんを前にして、少し調子に乗ってしまっているのかもしれない。こんなバカみたいな冗談を言ったのは、ホント久しぶりだよ」
「……なら許すけど」
少しだけ頬を赤く染めた空美が、唇を尖らせた。
自分の意外な一面を見せてしまっている恥じらいと、自分にしか見せていない彼の『特別』な振る舞いを嬉しく感じたからだ。
「少し前の話だけどさ、東四郎が女を連れてきたんだよ。同級生の女。しかもそいつ……月島洋子っていうんだけどさ、東四郎のことを好きなのがバレバレなんよ。その時も年明け辺りにおののき荘に引っ越すからって、間取りを確認したいって体で東四郎の部屋に乗り込んだくらいなんだぜ」
「へー。同級生ってことは、その娘も高校生なんだろ? ずいぶんと大胆だね。空美さんみたいな性格とみた」
「いいや、それが全然違うんだわ。むしろ真逆。視線はきょろきょろ、態度はおどおど。典型的な人見知りさ。あたしが最も嫌うタイプの女だよ」
「にしては、そういう口ぶりでもないけどね」
「そうだよ。あいつの挙動不審な態度は嫌いだが、一人暮らししてる好きな男の部屋に上がり込むその行動力には、正直あたしも感服しちまってさ。性格とのギャップも相まって、洋子のことはだいぶ気に入っちまったんだ」
「行動力で空美さんに好かれるなんて、珍しいこともあるもんだ」
「おっと、話が逸れたな。んで、おののき荘で部屋を借りるってのはいいけどよ、あそこには女の敵が一人いるだろ? 自称作家の」
「安田君って、まだそんな認識だったんだ。……あと、一応本は何冊か出してるから、自称って言ってあげるのは可哀想だよ」
「どうでもいいよ。で、だ。条件を飲むなら、安田には絶対に手出しさせないようにするって洋子に言ったんだ。約束するなら、何がなんでもお前を守ってやるってさ」
「どんな条件?」
「お前の処女を東四郎に捧げろ、って」
「うわぁ」
話を聞いていた男は、天井を仰ぎながらドン引きの感嘆を漏らした。
空美らしい条件だと思うのと同時に、その月島洋子という少女を憐れんでしまう。また大変な女性に目を付けられたものだな、と。
ただ無垢な子供みたいに得意げな笑みを向けてくる空美の顔を見てしまっては、さすがに叱るようなことはできなかった。
「とまあ洋子の話はここで置いといて、次はリベリアだ。どうやらリベリアの奴も、東四郎に気があるみたいなんだよなぁ」
「ああ、それはたぶん間違ってないと思うよ。とはいっても、僕もリベリアさんから直接聞いたわけじゃないけど」
「なんだ、知ってるのか?」
「スタッフの女の子が話してるのを、ちょっと小耳に挟んでね」
男は、リベリアがアルバイトをしているコスプレ喫茶の店長だった。この二人が知り合いということもあり、空美がリベリアにバイト先として紹介したのである。
「知ってるなら話は早い。いやまさかあたしも、リベリアが東四郎に想いを寄せてるなんて知らなくてさ。吸血鬼だから人間に恋なんてしないと思ってたし、最初は恩人程度だっただろうし。あー……マジでどっちを応援すりゃいいんだ……」
と、嘆きの悲鳴を上げた空美が再び頭を抱えた。
「なるほど。それが空美さんの悩みなんだね」
「そう。リベリアのことは妹みたいに思ってるからできるだけ願いは叶えてやりたいし、洋子の約束も反故にはできないしな。こうなりゃ永田町に乗り込んで、一夫多妻制を認める法律作れと脅してみるか」
「……君なら本当にやりかねないから怖いよ」
苦笑いを漏らした男は、自分のグラスを傾けた。
それから数分間、二人の間に沈黙が訪れる。空美の悩みはすべて吐き出されたと判断した男は、遠慮がちに口を開いた。
「アドバイス……ってほどでもないけど、空美さんがそこまで気負う必要はないんじゃないかな? どちらを応援するにせよ、最終的に決めるのは当人たちなんだからさ」
「もちろんそうなんだけどさぁ。それじゃあ、あたしの中のもやもやは晴れないよ」
そう言って、空美は年甲斐もなく頬を膨らませた。
その仕草を見た男は、呆れたような、それでいて安堵したように息を吐く。
結局、空美の悩みは決して解決しないのだ。彼女自身も理解しているように、あくまでも当人たちの問題である。二人の気持ちを知ってしまった空美としては、たとえどちらが天崎と結ばれたとしても、歯痒い気持ちが残ることだろう。
だが今はこれで良い。大切なのは問題を解決することではない。
空美に悩みを吐き出させること、それを真摯になって聞いてあげることが、彼女の心の負担を減らせるのだと、男は知っているのだから。
しばらく無言のままカクテルを飲み交わす。
すると突然、空美がその身を男の腕へと絡めてきた。毒蛇が獲物の周りを這うようなインモラルさを以て、男の自由を拘束する。
そして男の肘に胸を押し付けながら、耳元で甘い吐息を吹きかけた。
「ねぇ……あたしのこの悶々とした気持ち、少しだけでも晴らしてよ」
「……出よう」
男の静かな合図により、二人はバーを後にした。
店の外では、煌びやかなネオンが街を支配していた。ただ人通りが少ないのは、時間帯が遅いためか、それとも凍えるような冷たい夜風が吹き付けるせいか。
酔っ払いを介抱するように空美を支えた男は、数歩ほど歩いてから問いかけた。
「明日は?」
「……何もないよ」
静かに答える。俯いているため、男からは彼女の旋毛しか見えない。
さらに体重を預けてきたのを感じ、男は空美が望むであろう回答を口にした。
「分かった。今夜、この身は君の自由だ。好きにしていいよ」
「……嬉しい」
純粋に喜びの言葉を口にした空美は、ゆっくりと顔を上げる。
しかし男を見上げるその表情は、女としての矜持があるわけではなく、どちらかと言えば好きな男子にちょっかいをかける悪戯好きな少女のようだった。
「んじゃ、まずは景気づけにもう一軒行っときましょうかね」
「え? ……あぁ、別にいいけど。頼むから、歩けなくなるまで酔い潰れないでね」
呆れつつも、男は嬉しそうに了承する。
そうして大人二人は、夜の街へと消えて行くのであった。




