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ドラキュティックタイム  作者: 秋山 楓
第6話『クビナシシンドローム』

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第14章 夢から覚ます方法

「お、重い……」


 無理にリベリアを連れてこなくて正解だったなと、天崎は思った。


 痺れる程度だと思っていた右腕が、ターニャを背負って走り出した途端、激痛に変わった。万全な状態ならいざ知らず、ターニャほど上背のある女性を左腕一本で運ぶのは、かなりの重労働だ。結局、少し距離を稼いだ後は徒歩でおののき荘を目指すことになった。


『調査員』と出くわさないことを祈りながら、明かりの乏しい小道を行く。


 神経を尖らせて周囲を警戒しつつも、頭の中では今後の不安でいっぱいだった。


 この騒動を完全解決するためには、いくつかの段階を乗り越えなければならない。


 まず一つ目。ターニャが目覚めるのを待つ。

 二つ目。目を覚ましたターニャから、犬飼の頭の在り処を聞き出す。

 三つ目。犬飼がデュラハン化する前に、頭部を元に戻す。


 これら三つを明日の夕方、最悪明後日までにクリアしないといけないのだ。自分の努力ではどうすることもできない不確定要素が多く、頭を抱えたくなってくる。


 また、いかにしてターニャを『調査員』から守るかも課題だった。


 一般人の首を斬って回ったというアイルランドの悪夢。それと同じ過ちを繰り返したとなると、さらに重い処分を下されても不思議ではない。母国への強制送還は当然として、今後何年もの監禁生活が待っているかもしれなかった。


 天崎としても、できるだけ庇ってやりたいとは思うのだが……。

 この山のように積み上がった問題を、どう処理していくべきか。


 そんな不安を抱きつつ、考え事に没頭していたせいで――気づくのが遅れた。

 暗闇の中に漂う、ストロベリーの甘い香りに。


「この匂い……!?」


 慌てて呼吸を止めたものの、もう遅い。だいぶ吸い込んでしまった。

 そして――、


「あなたの両脚は地面に埋まっている」


 意外にも近場から声が聞こえ、天崎は反射的に距離を取ろうとする。

 だがしかし、脚がまったく動かなかった。


 困惑しながら自分の足元を見下ろしてみる。なんと、膝から下が完全にアスファルトの中に埋まってしまっていたのだ。


「やっぱり、あんたの後を付けてて正解ね。デパートで逃げられた時はどうなることかと思ったけど」


 再び声が聞こえるのと同時に、身体が唐突に軽くなった。


 地面に脚を固定されたまま振り返る。背後には、ターニャを抱えた妖精コレクターの小噺が立っていた。


「小林!!」

「うちの名前は小噺だっつーの! そんなありきたりな苗字で呼ばないで!」


 全国の小林さんに対して失礼なツッコミだった。


 ただ、これは天崎の作戦だった。彼女の性格上、おそらく突っ込んでくるだろうとは分かってた。その隙に、背後に向かって手を伸ばす。


「おっと、危ない危ない」


 ひらりと身を躱した小噺は、ワンステップで天崎の手の届かない位置まで移動した。

 そしてターニャを抱えたまま踵を返す。


「待てよ!」

「待つわけないでしょ。うちはこれが仕事なんだから。リベリア=ホームハルトがいないのは幸いね。彼女が来る前に、早々に退散させてもらうわ。ま、あんたの友達のことはこちらでなんとかするから、安心していいわよ」


 そう言い残し、行ってしまう。

 天崎は追うことができない。なぜなら両脚が地面に埋まっているのだから。


 しかしこれは幻覚のはずだ。常識的に考えて、一瞬のうちに脚が地面に埋まるわけがない。


 これは幻覚だ。これは幻覚だ。これは幻覚だ。


 目を閉じて、何度も自分に言い聞かせる。念仏のように唱え、無理やり精神を落ち着かせてから瞼を開くも……両脚は依然として埋まったままだった。


「くそっ!」


 悪態をついたところで事態が好転するわけではないことは分かっている。ただ少しばかり頭を冷やしたためか、先ほどよりも思考の巡りが良くなっていた。


 幻覚とは、いわば思い込みである。自分の脳内だけで起こっている現象であって、実際には何も変化していない。それは小噺自身が喫茶店で証明してくれたことだ。


 ならば……と、天崎は覚悟を決めた。


「うおおおおおおおおおおお!!!!」


 雄叫びを上げながら、天崎は右脚を強引に引き上げる。


 ズボンが破れる音がした。続いて肉が裂ける感触。同時に、気絶してしまいそうな激痛が膝の辺りから這い上がってきた。


 だが、それで止まるわけにはいかない。脱出しなければ意味はない。


 丈の長い長靴を脱ぐように、動物の毛皮を剥ぐように、天崎は自分の身体の一部が剥離されることを厭わない。


 服はどうでもいい。皮膚はいらない。肉はある程度削げてもいい。できれば骨は残っていてほしい。でも最悪、膝の下を断ち切ってでも脱出できればいい。


 その覚悟が、天崎の行為に光をもたらした。

 まるで収獲された大根のように、血まみれになった右脚が地面から現れた。


 だがもう一度だ。もう一度、同じ痛みを体験しなければならない。


 今度はズタボロになった右足を軸に、左脚を持ち上げる。


 さらに死んでもおかしくない痛みに耐えながら、天崎は両脚を地面から脱出させることに成功した。


 額に大粒の汗を浮かべて、ゆっくりと背後を振り返る。


 血と肉でぐちゃぐちゃになった両脚で己を支え、全力疾走でフルマラソンを終えた後のように息を荒げながら、天崎はニッと口の端を釣り上げて強がってみせた。


「ターニャを……返せよ。リベリアとの約束なんだ……」

「驚いた。幻覚を解くんじゃなくて、受け入れた上で脱出するなんて……」


 天崎の行為を見守っていた小噺が、率直な感想を口にした。


 ただその表情は、感心を通り越して畏怖の念すら抱いているよう。幻覚とはいえ、その痛みは本物だと教えたばかり。両脚を捨ててまで脱出するという発想は、常軌を逸脱していた。


 しかし小噺の余裕は崩れない。

 もう何をされても自分の優位は揺るがないと言わんばかりに、天崎の決死の覚悟を鼻で笑った。


「死に物狂いのところ悪いけど、残念ながら今さら脱出しても意味がないのよね」

「もう幻覚は効かねえぞ。呼吸を止めてる間にターニャを奪い返すことくらいできる」


 決して強がりではなかった。


 ズタズタになった脚で距離を詰め、無理やりターニャを奪って逃走する。ほんの十数秒もあれば終わる話だ。問題なのは、痛みに耐え続ける天崎自身にまったく余裕がないため、小噺を必要以上に痛めつけてしまう恐れがあるということだけだ。


 だが天崎は、それすらも覚悟に入れる。

 ターニャを奪う奴はすべて敵だ、と。


 そんな手負いの獣みたいな天崎を前にしても、小噺はまったく動じていなかった。

 首を横に振って、静かに諭す。


「幻覚が効く効かないの問題じゃない。だって、あんたはすでに幻覚の中にいるんだから」

「なに?」

「気づかない? 自分が夢を見ていることに」

「夢……だと?」


 訳が分からず、天崎は混乱する。無意識のうちに自分の足元を見下ろしていた。


 皮膚と肉が引き裂かれ、骨も露わになっている自分の脚が見える。痛みもあるし血の匂いも漂ってくるが、これは幻覚だ。自分がそう思い込んでるだけ。おそらく小噺の前には、脚を震わせているだけの、無傷な天崎が立っているはずだ。


 これが幻覚ではなく……夢?


「脚だけの話じゃない」


 言われ、天崎はハッと顔を上げた。


「うちとあんたが初めて顔を合わせたのは、確か今日の昼間だったよね。その時からずっと、あんたに妖精の鱗粉を嗅がせ続けている。喫茶店で話した時も、尾行している最中もね。だからいつでもあんたに幻覚をかけられたってわけ」

「お前……なに言って……」

「いい加減、目を覚ましたら? あんたはうちと出会ってから今のこの瞬間までの間、どこかで幻覚を魅せられたのよ。そして自分にとって都合の良い夢を見ているだけ。早く目を覚ました方が身のためよ。間に合わなくなる」

「間に合わなくなるって、何が……」

「それは自分で考えなさいな」


 と言って、ターニャを抱えた小噺が踵を返した。


「ま、待て!」


 引き止めようと手を伸ばす。

 しかし一歩踏み出したところで、天崎は立ち止まってしまった。


 違う。小噺を追っても意味がない。今やるべきなのは、目を覚ますことだ!


 闇に消えていく小噺の背中を見送りながら、天崎は自らの頬を抓った。


 痛い。つまり夢ではない? いや、幻覚なのだから痛みは関係ない。現にアスファルトから引き抜いた両脚は、未だに激痛が奔っているのだ。


 ならば自分に痛みを与えたところで無意味なのか?

 どうすれば起きることができる? どうすれば夢から覚めることができる?


 分からない。何が分からないのかすらも分からない。


 そもそもの話、どこからが夢だったのだ? どの時点で自分は眠らされた?

 じっと地面を見つめたまま、徐々に記憶を遡っていく。


 地面に脚が埋まった幻覚を見せられた時か?

 リベリアがターニャと喧嘩をしている最中?

 デパートの一件。喫茶店での会話。ターニャを追って、おののき荘を出た時。

 もしかして、もっと前? 昼休みに廊下で対面した、あの瞬間?


 だとしたら、すべてが白昼夢だったことになる。犬飼が首を斬られて頭を奪われたことも、ターニャがデパートで暴れたことも。すべて午後の授業で居眠りしている天崎が見ていた夢……だった?


 自分の想像が恐ろしくなり、天崎は身震いした。

 しかしそんな考えを振り払うように、大きく首を振る。


 違う違う違う。どこからなんて関係ない。今は起きることに集中しろ!


 拳を握った天崎は、自らの頬を思い切り殴った。指の関節が頬骨に当たり、鈍い痛みが顔面と手に広がっていく。頭が揺れるほどの痛みだったが、残念ながら周りの風景が変化することはなかった。


 もう一度、今度は電柱に頭をぶつけてみる。躊躇ってしまったためか、思ったより勢いよく衝突させることはできなかった。


 こんなものではダメだ。もっと、もっと刺激を与えないと目を覚ませない!


 それから天崎は、自分の身体に痛みを与え続けた。時に自分自身を殴り、時に道端にある物を使って。何としてでも夢から覚めるために。


 そして――。


「あ、天崎さん! なにやってるんですか!?」

「――ッ!?」


 不意に聞き慣れた声がして、天崎は慌てて振り返った。

 低空飛行から着地したリベリアが、駆け寄ってきているところだった。


「リベリア……」

「え? え? どうしちゃったんですか!? そんな傷だらけで……」


 リベリアが驚くのも無理はない。天崎の全身は、自傷した傷で満たされているのだから。


 額には血が滲み、顔には痣が現れている。そして何より彼女を心配させたのは、天崎の憔悴しきった目つきだろう。リベリアの方へ顔は向けているものの、視点は定まっておらず虚空を彷徨っていた。


 身体の痺れが和らぎ、天崎の元へ到着するこの短時間に何があったのか。

 両肩を力強く握ったリベリアは、彼の身体を大きく揺さぶった。


「天崎さん、しっかりしてくださいよ! いったい、何があったんですか!? それにターニャちゃんはどこに!?」

「リベリア……お前は本当に、リベリアなのか……?」


 状況を問いただすも、天崎の返答はいまいち要領を得ない。


「私はリベリアですよ! リベリア=ホームハルト! 貴方と血を分けた『完全なる雑種』の吸血鬼です!」

「そ、そうだよな……それは分かってる……。でもリベリアがここに来たのも夢だ……夢がまだ続いてる……早く起きないと……」

「はあ!?」


 意味不明なことを呟いた天崎が、弱々しい手つきでリベリアの拘束を解いた。そして再び自傷を始めようとする。


 何がなんだか理解できていないリベリアだったが、さすがに意味のない自傷行為を見て見ぬふりはできない。今度は逃げられないよう、天崎の両手をしっかりと握りしめた。


「とにかく、現状を説明してください!」


 顔を近づけ、迫真の表情で問う。

 それで怯んだわけではないが、天崎は視線を逸らしながらたどたどしく答えた。


「ターニャを運んでたら……小噺が現れたんだ。それで幻覚をかけられて……ターニャを奪われちまった……」

「あの妖精コレクターさんが?」


 顔を上げ、感覚を研ぎ澄ませる。すでに近場にはいないのか、まったく気配を感じることができなかった。


 ふと、握りしめていた手が振り払われた。

 今度は逆に、天崎がリベリアの肩を掴んで揺さぶってくる。


「でも、これは夢なんだろ!? 俺はどこかの時点であいつに眠らされたはずだ。早く起きないと、犬飼もターニャも助けられなくなる!」

「落ち着いてください、天崎さん! 妖精の鱗粉には幻覚を魅せる効果はありますが、相手を昏倒させたり、強制的に夢を見せる効力なんてないんです。これは現実です!」

「そ、そうなのか……? これは……現実?」

「そうです、現実です!」

「いや、でも、そう言ってるリベリアの言葉が夢なんじゃ……?」

「そんなわけないじゃないですか! 天崎さんは、私のことを信じられないんですか!?」

「信じたいけど……夢じゃ意味が……」

「ああ、もう! 面倒くさいですね!」


 苛立ちの頂点に達したリベリアが絶叫した。

 肩を掴んでいる手を振り解き、天崎の首へ両腕を回す。

 そして――。


「――――ッ!?」


 天崎に抱き着いたリベリアが、唇と唇を重ね合わせた。


 いつもよりも顔が近いなと思いながらも、意識は口の周りへと集中する。


 呼吸が止まる。温かい脈動が舌の上を這う。リベリアの味が、一瞬のうちに口の中へと広がっていった。


 時間にすれば、ほんの五秒程度の出来事だったのだろう。

 永遠とも思われた口づけから、リベリアはゆっくりと身を引いた。

 名残惜しそうに自らの唇を舐めた彼女は、少し怒ったように問う。


「どうですか? これでもまだ夢だとほざくつもりですか?」

「えっと……」


 天崎としては夢の中で夢を見せられている気分だった。


 終始混乱していたためか、今まさにリベリアにされた行為の理解が、後から遅れてやってくる。それはあらゆる不安や問題を押し退け、思考容量のほとんどを満たしていった。


 リベリアの瞳を見つめながら、天崎は無意識に自分の唇に触れる。

 そこでようやく事の重大さに気づいたのであった。


「えっ? おまっ、まさかキス……」

「なにをキョドってるんですか? キスなんて、海外じゃ挨拶みたいなものですよ」

「そ、そうだとしても……」


 いきなりキスをされて堂々としていられるほど、天崎の精神は成熟しきってはいなかった。


 もちろん小さい頃には母親や祖母としたこともあるだろう。まったく記憶にはないが、幼稚園の先生やクラスの女の子としたことがあるかもしれない。


 しかし思春期を過ぎ、自分を好きと言ってくれた女の子とのキスは初めてだった。

 そう実感した途端、天崎は顔全体に熱が帯びてくるのを感じた。


「乙女の貴重な口づけを夢で終わらせるって言うんなら、今度は鉄槌が落ちますからね」

「挨拶なのか貴重なのか、どっちなんだよ」


 意外にも冷静なツッコミを入れることができた。


 でも、これで確信した。これは夢などではない。現実だ。


 いや、仮に夢の中だったとしても、もう後悔はしない。夢だろうが現実だろうが、自分はリベリアを信じ続ける。それだけだ。


「悪いな。リベリアのことを信じるって言ったのに、このザマで……」

「いえいえ、大丈夫ですよ。っていうか天崎さん、あの妖精コレクターさんから妖精の幻覚について説明を受けたんですか?」

「あぁ。喫茶店でお前が来る前に、幻覚の話は聞いたけど……」


 そう答えると、リベリアは「あちゃー」と目も当てられない様子で夜空を仰いだ。


「まんまとしてやられましたね。幻覚遣いにとって、それは奥の手みたいなものです」

「奥の手?」

「不思議だと思いませんか? 幻覚は幻覚だと知られないからこそ有効な技です。にもかかわらず、自分から手の内をぺらぺらと喋ってしまうのは、何のメリットもありません。『こいつは幻覚を使うぞ!』と警戒されては、効力が半減してしまいますからね」

「た、確かに……」


 特に小噺の幻覚のかけ方は、相手の嗅覚と聴覚に依存する。あのストロベリーの匂いに気づけば、次の言葉で幻覚をかけられるとバレてしまうだろう。


 幻覚を幻覚だと理解していれば、対処もしやすくなる。事実、天崎は幻覚だと知っていたからこそ、アスファルトから脚を引き抜く決断ができた。


「じゃあ、なんで小噺は自分が不利になるように手の内を明かしたんだ?」

「おそらく彼女は、奥の手の種を撒いたんだと思います。その奥の手とは、幻覚をかけていない人間に対して、さも幻覚がかかっているように見せることです」

「……んん? どういう意味だ?」

「例えば天崎さんは、相手が幻覚を使ってくると知っていたら、それを警戒しますよね? でも相手が『お前はすでに幻覚にかかっている』と言ってきたらどうしますか? まずは解こうと努力するでしょ? けど、その幻覚は決して解けません。なぜなら幻覚にかかっていないのですから」

「……そういうことか」


 実体験のおかげで理解は早かった。


 よくよく考えれば、大切な鱗粉を一つ消費してまで説得力のある説明をしてきた小噺の行動には違和感があった。後々に天崎を嵌めるための布石だったのだろう。


「言ってしまえば、中途半端に賢い人に効く手法ですかね」

「なんで今さりげに俺をディスったんだ?」


 とはいえ、リベリアの小言は的を射ていた。


 本当に賢い人なら小噺の真意に気づくだろうし、本物のバカなら幻覚とか関係なく彼女を捕えていただろう。実際に小噺の策略に嵌り、ターニャを奪われてしまった天崎には何も言い返せなかった。


「っと、悠長に話してる場合じゃないな。早く小噺を追わないと……イテテテ」


 動こうとした瞬間、両脚に痛みを感じた。


 見れば、ズタズタに引き裂かれた両脚は未だに治っていない。一時的に幻覚を受け入れてしまったせいか、効果の持続時間が長くなっているようだった。


「どうかしましたか?」

「いや、脚が……」

「脚? 脚にも怪我をされてるんですか?」


 その反応を見て安心した。やはり脚の怪我は、天崎が見ている幻なのだろう。


「大丈夫だ。ただ悪いけど、俺はちょっとここで休んでいく」

「そうですね。もう少し呼吸を整えた方がいいかもしれません。妖精コレクターさんはどちらへ逃げて行きましたか?」

「あっちだ」


 指で示すものの、分かっているのは去っていった方向だけである。その後、彼女がどういうルートを通ってどこに向かったかまでは、分かるはずもなかった。


「どれくらい前です?」

「……悪い。混乱していたもんで、時間の感覚が曖昧だな」

「私も一通り動けるようになってから一直線にここまで来ましたので、たぶん十分くらいでしょうかねぇ。おそらく、そんなに遠くへは行っていないと思いますが……」


 と言って、リベリアは周囲を見回した。追うつもりだ。

 天崎も一緒に追いかけたかったが……再び歩き出そうとして、やはり脚の痛みに断念した。


「頼んだ。俺もすぐに追いつくから」

「ええ、任せてください。もしかしたら天崎さんの出番はないかもしれませんけどね」


 気遣いなのか嫌味なのか分からないまま、リベリアは自信満々に鼻を鳴らす。そして勢いよく背中の翼を広げると、小噺が立ち去った方向へ一目散に飛んでいった。


 その後ろ姿を見送った天崎は、民家の塀に背中を預けて腰を下ろした。


「ふう……」


 星が瞬く夜空を見上げた天崎の頭に、様々な感情が渦巻く。


 あのままリベリアが来なければ大事になっていた。夢を見ていると騙され続け、最終的にはなんとしてでも起きるため、自らの命をも断っていたかもしれない。それは大げさではなく、自傷させた身体が如実に物語っていた。


 ただリベリアに感謝するのと同時に、申し訳なくもある。


 もっと自分がしっかりしていれば、ターニャを奪われずに済んだのだ。後悔しても無意味だとは理解しているものの、どうしても自分を責めずにはいられなかった。


 そして――。

 夢から覚めるどころか、すべての感情を押し退けてしまう出来事があった。


 今度は意識的に自分の唇に触れてみる。


 誤魔化さずに言えば、とても嬉しかった。そして緊張した。飼っているペットとコミュニケーションでする口づけとは、また別の感情。一人の女の子としての感触が、今も天崎の口の中に残っていた。


 やはり自分は、リベリアを……。

 そこまで考えが至り、天崎は大きく頭を振った。


 否定したいわけじゃない。単純に、今考えることではないと思ったからだ。惚気てしまっていては、為せる目的も達成できなくなるだろう。


「ふう……」


 気持ちを入れ替えるように、もう一度深く息を吐き出した。


 足元に視線を移す。未だ痛みは健在だが、血肉のはみ出した両脚と埃っぽくなったズボンが重なっているように見える。どうやら、もう少しで幻覚が解けるみたいだ。


 一刻も早くターニャを取り返したい。

 気持ちに後押しされ、脚の痛みに耐えながら強引に立ち上がる。


 ――その時だった。

 リベリアが向かった方とは逆の道から、足音が近づいてくる。


 自分でやったとはいえ、今の顔をあまり誰かに見られたくはない。そう思った天崎は、俯きがちのまま早々に立ち去ろうとしたのだが――。


 街灯に照らされた人物を見て、思わず目を見開いた。


「リベリア=ホームハルトは行ったかな?」

「……戸塚さん?」

「やあ。今朝方ぶりだね」


 暗がりから現れたのは、登校時に天崎を尾行していた『調査員』だった。


 今朝と同じく丈の長いコートを羽織り、人当たりの良い笑みを浮かべて、路上に佇む天崎をじっと見つめている。出会ったばかりとはいえ、まったく見知らぬ赤の他人ではなかったことに少しだけ安堵したが、それと同時に疑問を抱いた。


 どうして戸塚がここにいる?


 しかし解答にはすぐ思い至った。戸塚は『調査員』だ。今現在『調査員』が自分に接触してくる理由など一つしかない。


 だから天崎は牽制するように戸塚を睨みつけた。


「ターニャはいませんよ。あなたたちが依頼した妖精コレクターに連れて行かれました」

「それは知ってるよ。でも問題ない。僕が会いに来たのはターニャ=リリィウッドではなく、君の方だからね」

「俺?」


 そう言われても、『調査員』が接触してくる用件などまったく心当たりがない。今朝の続きだとしても、今ここで訪ねてくるのは違和感がある。


 というか、戸塚は小噺がターニャを連れて行ったことを知っているのか? つまりターニャはすでに『調査員』に引き渡されている? にもかかわらず天崎に用があるというのは、まさかターニャを庇おうとしたことで何かお咎めでもあるのか?


 どう質問するべきか悩んでいると、戸塚がさらに近づいてきた。


「うん。どうやらターニャ=リリィウッドに託した依頼は失敗したようだからね。こうやって僕が尻ぬぐいをしに来たのさ」

「……は?」


 意味が分からず、天崎は間抜けな声を上げた。

 しかし戸塚は相手に理解させる気がないようで、勝手に喋り続ける。


「用件ついでに、少しばかり君と話してみたくてね。これから敵対しなきゃいけない君と」

「だから何言って……っていうかアンタ、それ何だ?」


 コートの裏から取り出した物体を見て、天崎は驚愕した。


 それは人の右手だった。手首の辺りで綺麗に切断され、断面から生々しい鮮血が滴り落ちている。今にも動き出しそうな真新しさからいって、つい先ほど切断されたものであることは容易に想像できた。


 なんか、ヤバい――。


「リベリア!」


 どこにいるかも分からないリベリアに大声で助けを求める。

 だが彼女の聴覚なら、あるいは――。


「無駄だよ。君の声はリベリア=ホームハルトには届かない」

「なんだと?」

「これを」


 そう言って戸塚が取り出したのは、幾何学模様が描かれた一枚の紙だった。


「天使の術式さ。これがあるおかげで、僕の周りには簡易的な『認識阻害』が発動している。もっとも、本物の天使の能力には遠く及ばないけどね」

「天使の術式? ……まさか!?」


 つい最近、そんな単語を耳にした覚えがある。

 そう。学園祭の時、改造された結界に組み込まれていた術式だ。


 確かにリベリアなら、滴り落ちる鮮血の匂いを嗅ぎ取って様子を見に戻ってきてもおかしくはない。それがないということは、『認識阻害』が効いているとみて間違いないだろう。


 しかし、そうなると、つまり、コイツは――。

 様々な考えを巡らせていたためか、さらに戸塚の接近を許してしまう。


「少しの間、眠っててくれ。おやすみ」

「なっ――」


 戸塚の持つ切断された右手の先が、天崎の首筋に一本の線を引いた。

 その瞬間――世界が揺れた。


 夜空、アスファルト、民家など、周囲にある物すべてがぐるぐるぐると回転する。まるで上下左右前後に回るコーヒーカップに乗り、全力でハンドルを回したような感覚だ。


 そして視界が地面に衝突するのと同時に、急激に眠くなる。

 意識を失う前に見たのは、歪んだ笑みを浮かべる戸塚の顔だった。

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