9 まるで椅子取りゲームのような
「まあ、アネット。寝ていなくては」
ヘンリエッタ夫人は微かに立ち上がり、困った声を上げた。だが、かと言ってアネットを強く戻らせる様子はない。
「……ごめんなさい。けれどわたし、リーゼロッテ様にきちんとお詫びしたくて」
アネットはリーゼロッテを見、そのまま、空いた椅子へ向かった。最初から空いていた椅子が一つあった。
リーゼロッテと母の向かい、ヘンリエッタの隣。ラドクリフ伯爵が座るには少し軽い椅子。
なるほど、さきほど砂糖壺の位置に迷ったメイドは、このために迷っていたのだ。
アネットは遠慮なく座り、メイドがすぐにショールを直す。
その様子を見ながら、リーゼロッテも母夫人も、ただ無言。
ラドクリフ伯爵は、まだ来ていない。ヒューバートも、まだ姿を見せていない。果たして来る気があるのか。
けれどアネットの席はある。菓子も用意してあった。メイドもつく。
リーゼロッテたちは説明を受けに来たはずだった。なのにその場にアネットは謝りにやって来た。唐突に。
違う目的を同じ茶席に置くと、説明より、何故か気遣いの席に変わってしまうのだ。
「あの、リーゼロッテ様」
アネットは静かに微笑む。
「昨日から、ずっと心が痛くて。わたしのせいで、ヒューとあなたが気まずくなるなんて」
《《ヒュー》》。
ヘンリエッタは今日もその呼び方をする。母は無言でカップを置く。その音が、やけにリーゼロッテの耳にははっきり聞こえた。
「《《カーライル嬢》》」
母が言う。
「今は《《当家とラドクリフ家の》》確認の席です」
「ええ、《《だからこそ、わたしも》》」
「貴女の謝罪の席ではありません」
アネットのまぶたが揺れる。
「わたし、ただ……」
そう言いかけた時、扉がもう一度開き、ヒューバートが飛び込むように入ってきた。後ろに医師らしき年配の男と、ラドクリフ伯爵・バーナードが続く。
「アネット、アネット、起きて大丈夫なのか」
ヒューバートは、まずアネットへ向かった。彼女はその声に、少しだけ顔を上げる。
「大丈夫よ、ヒュー。それより、リーゼロッテ様がお見えよ」
ヒューバートは、そこでようやくリーゼロッテを見た。
「……ああリーゼ、来ていたのか」
「こちらは約束の時刻に参りましたが?」
先に口を開いたのは母夫人だった。ヒューバートの顔に、わずかな困惑が浮かぶ。
「申し訳ございません。先ほどまで、医師との話があって」
「そのお話とやらを、私どもも伺いに来ましたが?」
母は続け、医師が彼女に対し静かに礼をする。
バーナード伯は、場の椅子を見て、ほんのわずかに眉を動かした。アネットが座っている席。母とリーゼロッテ。ヘンリエッタ。立ったままのヒューバート。遅れてきた当主。
誰がこの場を組んだのか、ひと目で分かる。それでも彼は咳払いを一つして、落ち着いた声を作る。
「シュザンナ様、リーゼロッテ嬢。改めまして、お待たせして申し訳ない」
「それはどうも。それよりまず、ご説明をお願いいたします」
母は挨拶を短く返す。
ヒューバートは、アネットの椅子の背後に立つ。守るような位置だ。自分の婚約者の隣ではなく、病人の後ろ。
医師が書類を取り出す。
「カーライル嬢は、発熱と疲労がございます。数日は静養が望ましい状態です」
「移動はどうです? 部屋であれ、自宅であれ」
「短距離なら、準備次第で可能です。長距離は避けた方がよろしいでしょう」
ヘンリエッタ夫人が驚いたように医師を見る。
「先生、でもアネットは昨夜も……!」
「昨夜は眠りが浅かったと伺っています。眠りが浅い理由には、昼間の茶の量も関係するかもしれません」
医師は淡々と言う。アネットの視線が、小卓のカップへ落ちる。そこには、彼女のために置かれたらしい茶に、砂糖壺が添えてある。
「食事は?」
母が聞く。
「温かいものを少量ずつ、時刻を決めて。甘い菓子と濃い茶は控えてください」
応接室で、小皿の砂糖菓子だけがやけに白く、リーゼロッテには感じられた。ヒューバートが少し身じろぎする。
「先生、アネットは食べられるものが少ないんです。それなら、好きなものでも口にできるなら」
「ですが、それを続けると、夜に眠れず、朝に食べられず、昼にまた甘いものを欲しがる形になります」
医師の声に情けはある。けれど、甘やかしは少ない。リーゼロッテはちら、とアネットの反応を見た。
すると彼女は弱々しく微笑む。
「ごめんなさい。わたし、皆様にご迷惑ばかり」
誰も、迷惑ですとは言いにくい。その形が、彼女を守っている。
母が口を開く。
「医師のお話では、短距離の移動は可能とのこと。では、一階の客間へ移っていただけますね」
「それは…… 今すぐでなくても」
ヒューバートがとっさに口をはさむ。
「若旦那様」
母がヒューバートを見る。
「私は、今、当主夫妻と医師に確認しております」
ヒューバートの顔が赤くなる。貴方ではない、と突きつけられたのだ。
バーナード伯はようやく椅子に座る。
けれど、その席はどこかがたがたとしてした。彼の席はアネットが座っている椅子の横に、急いで別の椅子が出されたものだ。メイドが椅子を慌てて運び、敷物の端が少しめくれあがった。
席が増えれば、そのたびに、誰かの仕事が増え、位置がずれる、とリーゼロッテは改めて思う。
この屋敷では、今それが何度も起きているのだろう。部屋が一つ。茶器が一つ。椅子が一つ。湯が一つ。夜番が一人。予定が一つ。
足されるたびに、もともとあったものが少しずつ押されていく。
「ラドクリフ伯爵様」
リーゼロッテは初めて、当主へ声を向けた。
「南棟二階の部屋は、いつ返していただけますか」
率直な問いかけに、ヒューバートがまず息を呑んだ。アネットはショールを引き寄せ、メイドはすぐにその端を整えた。
そしてバーナード伯は、数秒だけ黙る。
「リーゼロッテ嬢。君の心配はもっともだ。ただ、アネット嬢の体調も」
「医師は、短距離の移動は可能とおっしゃいました」
「準備次第で、だ」
「では準備をお願いいたします」
母は黙ってリーゼロッテの横で静かに茶を置く。
バーナード伯はリーゼロッテを見、リーゼロッテは言葉を続ける。
「この三日間、アネット様のために湯が運ばれ、食事が運ばれ、寝具が替えられ、奥様付きのメイドが身支度を整えていらっしゃるのですよね? ラドクリフ家が客人を大切になさること自体には、私も異議はありません」
アネットが、少しだけ安心したように息を吐く。
「ですが、そのために私との約束は遅れ、私が使う予定だった部屋は使えず、今日の確認の席にもアネット様の席が用意されています」
息を吐いたばかりの顔が、また揺れる。
「ただいま伯爵様の席が慌てて用意されたように、私の席は、どこかから持ってこられるのでしょうか?」
誰もすぐに答えない中、アネットが小さく言う。
「そんなつもりでは……」
その言葉は、もう何度目だろう。リーゼロッテは彼女を見る。
「では、どのようなつもりでこちらに座られましたか」
「わたしは、ただ謝りたくて」
「謝罪なら、手紙で充分でしょう。医師の診察直後に、何故わざわざ応接室へいらっしゃるのですか?」
「でも、ヒューにも」
「ヒューバート様は、私の婚約者です」
初めて彼女は、部屋の中でその言葉をはっきり置いた。ヒューバートが顔を上げる。
リーゼロッテは続ける。
「婚約者であることと、距離をなくすことは同じではありません。私は一度も、貴女がおっしゃるその愛称で、ヒューバート様をお呼びしておりません」
アネットの唇が微かに動くが、声は出ない。
母が静かに言う。
「ラドクリフ伯爵。娘が言わなかったのは、許したからではありません。そのように育てた結果です」
バーナード伯の顔色が変わる。ヘンリエッタ夫人はようやく事の大きさを少し理解したように、膝の上のレースを見下ろす。
そしてヒューバートは、リーゼロッテを見ながら、その目で問いかける。どうして君がそんなことを言うのか、と。
リーゼロッテはその顔を見て、はっきりと分かった。
彼は本当に、リーゼロッテが分かってくれると思っているのだ。
今この時も、まだ。




