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私が使うはずだった部屋に病弱令嬢を寝かせた婚約者とは、白紙に戻します  作者: さんけい


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8 ラドクリフ邸への訪問

 三日後、リーゼロッテは改めてラドクリフ家へ向かった。


 ちなみに、エーレンフェルト家から出した二通目には、日付と時刻をしっかりと明記してある。

 そして「アネットの容態、カーライル家への連絡、南棟二階の部屋の扱い、若旦那が付き添っている件について、当主夫妻から直接説明を受けたい」と。

 文面は穏やかだが、逃げ道は少ない。


「私も参ります」


 そういう母夫人に父伯爵は即座に「私も」と切り出した。

 だが夫人は容赦なく。


「あなたまで顔を出すと、最初から家同士の断絶を強引に推し進めるように見えます」

「私とお母様だけなら、まだ婚礼準備の確認ですみますわ」

「けどな…… 今さらその形を残すことに、どれだけ意味があるんだ?」


 そう父は言ったが、そこは手順だ、と母夫人はにこやかに斬って捨てた。


 *


 馬車の中で、母は膝の上に予定表を置いていた。

 ラドクリフ家での確認、帰宅後の書状、ヴァルトハイム侯爵への草案。淡々と並んだ項目の横に、ハルトマンの小さな字で時刻が入っている。

 家は、こうやって動くのだ、とリーゼロッテは改めて思う。

 誰かが泣いたから予定が消えるのではなく、泣いた者をどこへ休ませるか、誰が付き添うか、次の予定をどう組み替えるかを決めるのだと。


 やがて、ラドクリフ家の門が見えてきた。

 馬車が止まり、扉が開く。

 玄関先に出てきたのはまたもや若いメイドであり、家令ではなかった。

 メイドは一瞬遅れて頭を下げ、奥へ向かって声をかける。その声に、廊下の向こうから別の足音が走るのが聞こえる。


「今日も忙しそうね」


 母夫人は小さくつぶやく。


「ええ」


 そう答えながら、リーゼロッテは花を確認した。

 玄関広間の白百合は消えている。かわりに、淡い桃色の花が大きな壺に入っていた。香りは軽い。誰かが前回のことを聞いて替えたのだろう。

 けれど壺の下に、水の輪が残っているのに、つい気付いてしまう。花を替える者はいたけど、どうやら拭き取る者までは回っていないようだ。


「大変お待たせ致しました。奥様は応接室でお待ちでございます」


 メイドが案内する。言葉は丁寧だが、足が少し早い。

 母はそれに合わせず、いつもの速さで歩く。リーゼロッテはその後ろに続く。アニーは外套と帽子箱を持ち、さらに後ろを歩く。

 ふと、廊下の途中で、料理を乗せたトレイを持つメイドとすれ違った。載っているのは薄いスープ、白いパン、柔らかく煮た野菜、そして小皿には蜂蜜をかけた菓子。

 ……病人食にしては、甘い皿だけが多い。

 リーゼロッテたちに気づいたメイドは壁際へ寄った。その拍子にスープの皿が揺れ、縁に少しだけこぼれる。


「も、申し訳ございません」

「いえ、お気になさらず」


 母は貴婦人の笑みを浮かべながらさらりと言う。メイドは頭を下げ、南棟へ急ぐ。

 その後ろ姿を見送りながら、母は一度だけ目を細めた。


「もう、厨房が振り回されているわね」

「アネット嬢の朝食でしょうか」

「時計をごらんなさい、昼前よ」


 そうだった、とリーゼロッテは気付く。

 自分達がやって来ているくらいの時間だ。食事の時間としてはずれている。

 病人が眠っていたから、食べられる時に出す。食べられずに戻る。温め直す。甘いものだけ口にする。また湯を沸かす。

 ひとつひとつは小さなことだ。けれど一日に何度も繰り返せば、厨房も配膳も客間の支度もずれてしまうだろう。


 やがて、応接室の扉が開かれた。

 出迎えたヘンリエッタ夫人はきちんとした昼のドレスだが、胸元のレースが少しゆがんでいた。お付きのメイドが直す時間も、きっと十分ではなかったのだろう。


「シュザンナ様、リーゼ。よくいらしてくださいました」

「お招きありがとうございます」


 母が挨拶し、リーゼロッテも続く。


「そちらのご説明のお時間をいただき、感謝いたしますわ、ヘンリエッタ様」


 言われた側の笑みが、ほんの少しだけこわばった。


「も、もちろんですわ。ただ、バーナードが少し遅れておりますの。医師がちょうど見えまして」


 椅子へ向かう前に、母夫人は応接室の小卓をちらと見た。

 茶器が四客。リーゼロッテ、母夫人、ヘンリエッタ、ラドクリフ伯爵。

 ――そう数えたいところだが、何故か皿の菓子は五人分ある。小さな砂糖菓子が、また混じっている。


「医師の診察があるのでしたら、先に容態を書面でいただけますか」

「ええ、それは後ほど」

「こちらへ伺う約束は既に出しておいたはずでしたが?」

「ですから、診察が終わり次第」


 後ほど。診察が終わり次第。

 約束の時刻は、またアネットの具合の後ろへ回されてしまうのだ。

 そう、と小さく呟くと、母夫人は席へ座り、リーゼロッテも続く。アニーは後ろへ控える。

 やがて茶が運ばれてくる。だがメイドの一人が、砂糖壺を置く位置を迷った。

 ヘンリエッタの前か、母の前か、それとも空いた椅子の近くか。

 ほんの小さな迷いだが、母の視線はそこを飛ばさない。


「ヘンリエッタ様、カーライル家への連絡は、済みましたか」


 すぐ本題へ入る。


「え、ええ。昨日、使いを出しました」

「昨日ですか」

「はい…… こちらも医師や容態のことで立て込んでおりましたから」

「で、到着はいつ頃に」

「早ければ明後日には」

「そうですか。それで、迎えの方は」

「そのあたりは、まだ……」


 母は茶を一口飲む。リーゼロッテはカップに触れずに聞く。


「では、アネット様は、いつ一階の客間へお移りになりますか」


 ヘンリエッタ夫人ははっとしてリーゼロッテを見た。


「リーゼ、その話は」

「私、二通目の確認状にも書きました。南棟二階は婚礼準備の部屋です。アネット様のご静養には、一階の客間の方が向いていますと」

「で、でも、あの子はあの部屋でようやく眠れるようになったの」

「何日目ですか」

「何が?」

「ようやく眠れるようになった、という期間です。やってきたのはいつだったのですか?」


 ヘンリエッタ夫人は答えを探し、視線が一度、茶器の横に置かれた小皿へ落ちる。


「た、確か昨夜で、四日かしら」

「一晩だけのはずだった方が、四日目に入っています」

「リーゼ」


 リーゼロッテは一度だけ息を整え、言葉を選ぶ。母の声は、止めるものではない。むしろ促している。


「奥様。病人を休ませることは必要です。ですが、婚礼準備の部屋をそのまま使い続ける理由には、期限が必要です」

「ああ、期限、期限と……」


 ヘンリエッタ夫人は軽く頭を揺らす。


「貴女は若いのに、本当にきっちりしているわね」

「ええ、家を回すには、期限が要りますから」


 ヘンリエッタの笑みが微妙にひきつる。

 ――その時、廊下の向こうから、高い声が流れてきた。


「お待ちください、アネット様、こちらは」

「少しだけ。ねえ、ヒューもいるのでしょう?」


 アネットの声だ、とリーゼロッテは思い返す。弱い。けれど、よく通る。

 ヘンリエッタが立ち上がる前に、扉が開いた。アネットが入ってくる。

 白い室内着に、淡いショール。髪はゆるく結われ、菫色の小さな造花を挿していた。お付きのメイドまでがついている。おそらくそれはヘンリエッタ夫人付きで、髪を整えたのは彼女だ。

 アネットに専属のメイドはいない。いるはずがない。客人である男爵家の令嬢にすぎない。

 なのに、今この場では、ラドクリフ家の上位の女使用人が、客人の身支度まで受け持っている。

 身分とは一体、とリーゼロッテは自分の記憶を確かめたくなった。



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