10 病人なら、病人の扱いを
ヒューバートの驚いた顔は、すぐに困った顔へ変わった。
困った顔。
そうだ。彼は今、困っている。
リーゼロッテに怒られているのではなく、場がうまくまとまらないことに困っている。
アネットを守り、リーゼロッテに分かってもらい、母たちに納得してもらう。
彼はそのすべてが同じ席で成り立つと思っているのだ。
「……リーゼ」
ヒューバートは、アネットの椅子の背後から一歩出た。
「そんな言い方、君らしくない」
母の手が、膝の上で止まる。
バーナード伯は軽く目を閉じる。ヘンリエッタ夫人が小さく息を吸った。アネットはショールの端を握る。医師は書類を持ったまま、視線を下げている。
そして、リーゼロッテはヒューバートを改めてじっと見据える。
「その私らしい、とはどういうことでしょう?」
「だって君は、もっと物分かりがよくて、落ち着いていて」
「……つまり、黙って部屋を空けることですか」
「いや、そういう言い方は」
「では、どういう言い方ならよろしいのですか?」
ヒューバートは唇を引き結ぶ。少し腹を立てたかのようだった。
リーゼロッテは少しだけ驚いた。そんな顔を初めて見る。そして気付いた。彼は今まで、リーゼロッテにそういう顔を向ける必要がなかったのだ。彼女は常にきちんとし、話を荒らさず、婚約者として恥ずかしくない距離を保っていたから。
彼はそれを、リーゼロッテの性格だと思っていた。たぶん、彼への好意だとも。
「ヒューバート」
バーナード伯が低く呼ぶ。
「今は座れ」
「父上、ですが」
「座れ!」
二度目は短い。
ヒューバートは空いた椅子を探す。けれど既に席は崩れていた。どこに座ったものか、と彼は躊躇する。
アネットのために用意された椅子。後から出された当主用の椅子。ヘンリエッタの隣。母とリーゼロッテの向かい。一体どこに座ったものだか。
ああ、そういうことか、とリーゼロッテは思う。
この応接室は、今のラドクリフ家そのものだ。最初に誰を座らせるか決めず、来た者のために椅子を足し、足した分だけもとの形がずれる。
「そこへ」
仕方なし、バーナード伯が、自分の横を示し、ヒューバートはようやく座る。そしてアネットから少し離れた。
アネットは一瞬だけ彼を見る。ショールの端が膝の上で小さく丸まった。
そして母夫人が医師へ向き直り、鋭く問う。
「先生。先ほどのお話を、もう少し詳しく伺えますか」
ええ、と医師は書類を開く。
「カーライル嬢には発熱、倦怠、食欲不振があります。脈は少し速く、眠りが浅い。確かに、体質として強い方ではありません。ただ、今の症状を長引かせている要因は、生活の乱れが大きいと考えます」
《《生活の乱れ》》。
その言葉に、ヘンリエッタ夫人は眉を寄せた。
「先生、それは少し……」
「要するに、睡眠時間、茶の量、食事の内容、日中の過ごし方です」
医師は構わず、淡々と続けた。
「昨日の記録では、カーライル嬢は朝食はほとんど取らず、昼前に菓子と茶。午後に少し眠り、夕方にまた茶。夜に食事が進まず、寝る前にまた甘い飲み物。これでは胃が休まりませんし、夜の眠りも浅くなります」
アネットはうつむく。
「だってわたし、食べられるものが……」
「食べられるものを探すことと、好きなものだけを口にすることは違いますよ」
医師の声は一見優しい。だがアネットのその態度を逃がさない。
ヒューバートが口を開きかけるが、バーナード伯が視線だけで止める。
「薬は?」
母夫人が問いかける。
「出しました。食後に飲む薬です」
「食後」
「ええ。そのままでは強いので、空腹のまま飲むものではありません」
「カーライル嬢は飲まれていますか」
医師は少しだけ間を置く。
「昨日の分は、一度抜けているようですね」
ヘンリエッタ夫人がアネットを見る。
「アネット? そうなの?」
「……ごめんなさい。苦くて、気分が悪くなりそうで」
「あ、その後に砂糖菓子は召し上がっていますね」
医師が書類を見たまま続ける。アネットの頬に、薄く色が差した。
部屋の中の誰かが責め立てたわけではない。けれど、事実が順に並ぶと、甘い可憐さの輪郭が少しずつ崩れていく。
病弱で儚い令嬢。
そう呼べば済むものが、食事時刻、茶、薬、菓子、睡眠の話になる。
母夫人は続ける。
「リーゼ」
「はい」
「あなたなら、どう組む?」
ヘンリエッタ夫人は、はっとリーゼロッテを見る。彼女は医師へ真っ直ぐ顔を向けた。
「私なら、先生のご指示を優先します。まず朝、湯で体を拭く前に、窓を開けて短く空気を替えます。寝台を窓辺から離し、直射の午後日を避ける。朝食は重いものをやめ、温かい粥か柔らかいパンを少量。薬はその後。茶は薄く、時刻を決めます。菓子は薬を飲めた後に一つだけ。昼寝は長くしすぎず、夕方以降の眠りを避ける。夜は食事と薬の時刻を崩さないように致します」
アネットの表情が、少しずつ沈んでいく。それを見てヒューバートが腰を浮かせる。
「そんなふうに縛ったら、余計に苦しくなるじゃないか」
「病人を楽にするために、手順を決めるのですが?」
「だが、彼女は子供ではない」
「子供でなくとも、薬を飲み忘れる方には誰かが時間を見る必要があります」
バーナード伯が、膝の上で指を組む。
母夫人が続ける。
「ちなみに夜の番は?」
「一人。けれど奥様付きのメイドでは続かないでしょう。一階の客間へ移して、家政婦長の指示で交代を組むべきだと思います。呼び鈴は手元へ。火の管理は夜番。甘い飲み物を欲しがるなら、医師に確認してから」
「食事は厨房任せでいいかしら?」
「病人食の担当を一人決めた方がいいでしょう。毎回違う者が聞きに行くと、欲しいものに引きずられます」
アネットが顔を上げる。
「あの、わたし、そんなにわがままを言っているつもりは」
「《《つもり》》の話をしていません。実際に、誰が何を運んでいるかの話です」
アネットの唇が震える。
「でも、わたし、具合が悪くて……」
「ええ。ですから《《病人として扱う》》話をしています」
その言葉で、部屋が静まる。
《《病人として》》扱う。それは《《可憐な客人として》》扱うこととは違う。
可憐な客人なら、好きな時に起き、好きな時に茶を飲み、謝りたいから応接室へ来て、ヒューバートの背後に守られることだろう。だが病人なら、寝台を移し、食事と薬の時刻を守らせ、医師の指示を優先させ、屋敷の中心へ出てこさせることはない。
医師は満足そうに小さく頷く。
「おおむね、そのような形がよろしいかと」
するとヘンリエッタ夫人は困ったようにアネットを見る。
「でも、この子は一人では心細いでしょう」
「夜番を置けばよろしい」
母が言う。
「ヒューバートが顔を出せば……」
「ヘンリエッタ様」
母の声が、少しだけ低くなる。
「未婚の男爵令嬢の病室に、次期当主が日に何度も出入りする形を、これ以上お続けになりますか」
ヘンリエッタ夫人が言葉を詰まらせ、バーナード伯の顔色が、さらに悪くなる。
ここでようやく、なじみの男爵令嬢が可哀想という話から、家の評判へ火が移ったのだろう。
「続けるつもりはない」
バーナード伯は言う。
「アネットは、本日中に一階の客間へ移す。家政婦長を責任者につける。医師の指示を書面にして、食事と薬の時刻を決める」
「父上!」
ヒューバートは立ちかける。
「アネットはあの部屋でやっと」
「南棟二階は使わせない」
きっぱりとしたバーナード伯の声が、応接室の奥へ届く。
「ヒューバート、お前も病室へ出入りするな。必要があれば母か家政婦長を通せ」
「ですが」
「ヒューバート!」
伯は息子を見る。
「お前は、自分の婚約者の前で、別の令嬢の椅子の後ろに立ったな?」
ヒューバートの顔が赤くなり、それから白くなる。
「その意味が分からないなら、今は口を閉じてろ」
ヘンリエッタが夫人は片手を胸に当てる。
「あなた、そこまで」
「そこまでの話だ」
彼を妻に対し、ややうんざりした様な視線を向ける。
「そもそもが王家の意向で進めた婚約だ。そしてこちらから望んだ縁でもある。ところが我々はエーレンフェルト家の令嬢を迎えるための部屋に、未婚の客人を寝かせてしまい、三日以上そのままにした。そして結婚相手のはずの息子が付き添い、愛称を許し、今日の席にも同席させてしまった」
一つずつ、言葉が置かれ、ヘンリエッタ夫人の顔から、血の気が引いていく。
アネットが椅子の上で小さくなる。
「わたし……そんな大変なことになるなんて」
震える声にリーゼロッテは乗ったりはしない。
――大変なことになると思わなかった。
――迷惑をかけるつもりはなかった。
――少し休みたかっただけ。
どれも、その先の判断を誰かに預ける言葉だ。
「カーライル嬢」
リーゼロッテが呼ぶと、アネットはびくりと顔を上げる。
「先生の指示も出ました。移動は短距離なら可能。食事と薬の時刻を整える必要がある。一階の客間へ移る。ここまでは、お分かりになりますか」
「……ええ」
「でしたら、今後はその指示に従ってください」
「もちろん、従います…… けれど」
――けれど。
ああ、またそういう言葉が来るな、とリーゼロッテは待ち構える。
「わたし、どこへ行けばいいのか、本当に分からなくて」
アネットの目に涙が浮かび、ヒューバートが身を乗り出しかける。
バーナード伯は机を指で叩く。それはひどく小さな音だが、息子にはよく効いたようで、彼は座ったまま固まった。
「カーライル嬢、貴女は自宅に帰るのが怖いのですか」
母は問いかける。
「怖いというか…… 皆、わたしにしっかりしなさいって。身体のことも、夢のことも、分かってくれなくて」
「夢」
母が繰り返す。アネットは涙を拭う。
「わたし、いつか、身体の弱い人が安心して休める静養館を作りたいんです。花があって、優しい空気で、誰も急かさなくて、好きな時に眠れて」
ヒューバートの顔が少し明るくなる。きっと聞いたことがあるのだろう。彼にとっては、美しい夢なのだ。
リーゼロッテは母を見る。母はうなずいた。
「では、その静養館には夜番は何人置くのですか」
アネットが涙を拭う手を止めた。
「え?」
「身体の弱い方が安心して休める静養館なら、夜に具合が悪くなる方もいるでしょう? その際の夜番は何人置きますか?」
「……あの、まだ夢ですから……」
「花の水は誰が替えますか?」
「それは……」
「薬の時間は誰が管理しますか? 食事は厨房を分けますか? 発熱した方と咳のある方は部屋を離しますか。洗濯物はどこで分けますか? 見舞客の時間は誰が決めますか? 夜中に甘いものを欲しがる方には、誰が医師の指示を守らせますか?」
アネットは言葉を無くす。涙が目元に残ったまま止まる。
「リーゼ、君はどうしてそう、夢を壊すような」
「貴方には壊しているように聞こえますか? ヒューバート様」
リーゼロッテはすぐ答える。
「この方の夢は、生活につながるものです」
医師が、こらえきれなかったように一度だけ咳払いをする。笑ったのかもしれない。母は表情を変えない。
「静養館を作りたいなら、休む人より先に、働く人の数を考えます。病人が好きな時に眠れる場所を作るなら、起きている誰かが必要です。花を飾るなら、水を替える人が要ります。優しい空気を保つなら、掃除と換気と火の管理が要ります」
アネットは泣く場所を失ったような顔で、リーゼロッテを見ている。
「わたしは、ただ、そんな場所があったらいいなって」
「それは《《願い》》です。《《作るなら》》手順が要ります」
バーナード伯はゆっくり息を吐き、ヘンリエッタ夫人は膝の上の手を握り合わせる。そしてヒューバートは悔しそうに口を閉じる。
リーゼロッテはアネットへ向かい、更にたたみかける。
「今のカーライル家は、貴女一人を休ませるための手順もうまくいっていないから、貴女をここへよこしたのでしょう? でしたら誰かのための静養館の夢を語る前に、まず貴女自身の今日の薬を医師の指示どおり飲んでください」
アネットの頬が赤くなる。恥ずかしさか、怒りか。どちらでもいい。
バーナード伯がそこで立ち上がる。
「家政婦長を呼べ」
扉の近くにいたメイドが慌てて動く。
「今日中に一階の青の客間を整える。南棟二階の荷物は、アネット嬢のものだけを移せ。リーゼロッテ嬢の婚礼準備に関わるものは触るな。医師の指示書を作り、食事と薬の時刻を決める。ヒューバート、お前は自室へ戻れ」
「父上!」
「お前は戻れ」
ヒューバートは椅子から立ち上がり、リーゼロッテを見る。
その目には、まだ納得がない、それどころか、傷ついたような色すらある。自分が善意でしたことを、冷たい手で取り上げられたと思っているのだろう。
「リーゼ」
「何でしょう」
「君は、本当にそれでいいのか?」
「何がでしょう」
「アネットを追い詰めているじゃないか」
追い詰める?
その言葉が、部屋の中央に転がった時、リーゼロッテは思わず呆れた。
「私は、アネット様を《《病人として扱うよう》》申し上げました。それだけですが?」
「君には情が」
「ヒューバート!」
バーナード伯が遮る。それでもヒューバートはリーゼロッテを見る。だが彼女はもう彼の言葉の続きを待たない。
「情で薬の時間は守れないでしょう?」
医師が、今度ははっきり頷く。
「その通りです!」
今度はヒューバートの顔が赤くなる。そしてバーナード伯は彼に向かい扉を指す。
「お前は今は出て行け」
ヒューバートはまだ不満そうだったが、それでもようやく出ていき、扉が閉まる。
アネットは椅子の上で、細い指を膝の上に重ねていた。
先ほどまでの涙は、もうそこにはない。泣けば誰かが来るはずだった場所から、ヒューバートがいなくなったからかもしれない。
ヘンリエッタ夫人は消え入りそうな声で言う。
「アネット、部屋を移しましょう」
アネットはうつむいたまま、うなずく。
「……ご迷惑を、おかけしました」
誰に向けた言葉か、少し曖昧だ。
リーゼロッテは返事をせず、代わりに、母が言う。
「どうぞお大事に。医師のご指示を守られますように」
その一言で、席は終わり、リーゼロッテたちは立ち上がり、バーナード伯が頭を下げる。
「シュザンナ様、リーゼロッテ嬢。本日の件は、ラドクリフ家の不手際だ。正式に詫び状を出す」
「承りました」
母が答える。
「南棟二階の部屋は、明日以降に改めて確認いたします」
「こちらで整えておく」
「触れる前に、こちらの者も立ち会わせます。婚礼準備の品と、カーライル嬢の滞在中の品を分ける必要がありますから」
「分かった」
バーナード伯は、今度はすぐ頷く。
*
応接室を出ると、廊下にはメイドが二人立っていた。おそらく、青の客間を整えるために呼ばれたのだろう。
一人はリネン庫の鍵を持ち、もう一人は水差しを抱えている。屋敷がようやく動き始めた。
母が廊下を歩きながら、小さく言う。
「よく言いました」
「怒りすぎましたか」
「足りないくらいよ」
リーゼロッテは少しだけ息を吐く。
アニーが後ろで外套を持ち直す。
玄関広間へ出ると、桃色の花の下の水の輪はまだ残っている。けれど、メイドの一人が布を持って走ってくるのが見えた。
拭かれるだろう。
拭かなければならないと、誰かがようやく気づいたのだ。




