11 たかが部屋、されど部屋
翌日の午後、再び彼女たちは、南棟二階の確認に向かった。
バーナード伯は「こちらで整えておく」と口にした。
母夫人はその返事を受けた上で、こちらの者も立ち会わせると告げていた。婚礼準備の品と、アネットの滞在中に持ち込まれた品を分ける必要があるからだ。
馬車には、リーゼロッテと母、アニー、それから今回はハルトマンが乗った。
まだ父伯爵は来ない。
ここで彼が出れば、ラドクリフ家は当主直々の抗議として扱わねばならない。
母とリーゼロッテ、それに家令の立ち会いなら、まだ「婚礼準備の確認」という名目が立つ。
名目は大事だ。相手に逃げ道を与えるためではなく、こちらが手順を踏んでいることを残すために。
ハルトマンは膝の上に書類入れを置いている。中には、これまでの確認状、ラドクリフ家からの返答、医師の指示写し、昨日の同席者の記録が入っている。こうやって書類が増えていく。
そもそもが、部屋を返してもらうだけの話だったはずなのに、今は書類入れが必要になっている。
ラドクリフ家の玄関では、昨日より年かさのメイドが出迎えてきた。
案内も前日より落ち着いていた。
玄関広間の桃色の花の下には、水の輪が残っていない。壺の台も拭かれ、床も乾いている。ようやくそこまでは戻ったらしい。
「奥様は、青の客間にいらっしゃいます」
メイドが言うと、母は一度だけ目を向ける。
「カーライル嬢のお部屋ですね」
「はい。カーライル様は、そちらでお休みでございます」
「本日は南棟二階の確認です。案内を」
「かしこまりました」
メイドの返事は早い。昨日から、何を先に答えるべきか教えられたのだろう。
悪いことではない。使用人が迷わず動ける家は、立て直せる。
階段を上がる途中で、家政婦長のミセス・ミュラーが合流する。
灰色の髪をきっちりまとめた、背のまっすぐな女性だ。ラドクリフ家の家政婦長として何度かリーゼロッテも顔を合わせている。昨日、青の客間を整えるために呼ばれたのも彼女だろう。
「エーレンフェルト伯爵夫人、リーゼロッテ様。昨日は大変失礼いたしました」
「ご苦労が多かったでしょう」
母が言う。ミセス・ミュラーの目元が、ほんの少し動く。
「本日は、南棟二階のお部屋をご確認いただきます。寝台まわりのリネンはすべて替え、換気も済ませてございます。暖炉も灰を抜きました」
「カーライル嬢の私物は」
「移したものと、確認待ちのものがございます」
確認待ち。その言葉で、母は足を止める。
「どなたの確認待ちですか」
すぐには答えが出ない。だが、逃げる目ではない。困っているかのようだ。
「若旦那様が、カーライル様にお尋ねしてから、と……」
それ以上ここでは言わず、皆で階段を上がる。
*
南棟二階の廊下には、昨日までの病人がいた形跡が残っていた。
水差しの置かれていた小卓、畳まれた予備の毛布、空になった薬瓶を乗せた盆。どれも部屋の外へ出されているが、片づけきれていない。
ミセス・ミュラーが扉を開けると、窓が開いていたのか、薄いカーテンが揺れ、午後の光が床へ伸びている。
寝台のリネンは白く整えられていた。掛布も替わり、枕も新しい。
ただ、部屋の隅に小さなテーブルがある。その上には白い帽子が置かれていた。細いリボンと、菫色の造花。横には読みかけの詩集、刺繍枠、香水瓶。
窓辺の椅子には淡いショールが掛けられている。
暖炉の上には、菫色の小さなリボンで束ねた押し花が置かれていた。
病人の部屋から、婚礼準備の部屋へ戻すには、まだひと息足りない。そのひと息が、いちばん大事なのに。
「これは?」
母が問いかけると、ミセス・ミュラーが頭を下げる。
「カーライル様のものです。お移ししようといたしましたが、若旦那様より、御本人に確認してから、と」
「カーライル嬢ご本人はは青の客間へ移られたのでしょう」
「はい」
「この帽子も、詩集も、刺繍枠も、香水瓶も、青の客間で確認できますね?」
「その通りでございます」
ミセス・ミュラーの答えは、はっきりしている。彼女自身としては。
アニーは持ってきた布見本の箱の置き場を探す前に、リーゼロッテを見る。
「お嬢様」
「ええ、まだ置かないで」
「承知いたしました」
ハルトマンが書類入れを開く。小さな帳面を取り出し、机の上の品を順に記す。
――白い帽子。菫色の造花。詩集一冊。刺繍枠。香水瓶。淡色のショール。押し花。
ひとつずつ、言葉になっていく。
そこへ廊下から、若いメイドが駆け寄ってくる。手には青いリボンの束を持っている。
「ミセス・ミュラー、アネット様が、こちらのお部屋にリボンがあるはずだと……」
言いかけたメイドはリーゼロッテたちに気づき、顔が赤くなる。
「失礼いたしました」
母はメイドの手元を見る。
「そのリボンも、この部屋に残っていたものなの?」
「はい。リーゼロッテ様のお部屋…… いえ、アネット様が使われていたお部屋に」
メイドの声は次第に小さくなる。アニーは布見本の箱を抱えたまま、視線を下げる。ハルトマンのペンが止まる。ミセス・ミュラーは目を閉じかけ、すぐ開く。
そしてリーゼロッテは、メイドの手にある青いリボンを見る。綺麗な色だ。菫色より少し深い。けれどリーゼロッテのために選ばれたものではない。
「ミセス・ミュラー」
「はい」
「その言い換えが必要になる部屋に、まだ婚礼の品は入れられません」
言われた側は深く頭を下げる。
「おっしゃる通りでございます」
その応答を見たメイドは、泣きそうな顔でリボンを胸元に抱える。
責めたい相手は彼女ではない。彼女は、部屋をどう呼べばよいか分からなくなっているだけだ。つまりは、分からなくさせた者がいる。
「リボンは、青の客間へお持ちなさい」
「はい」
指示に従い、メイドが去る。
その足音が遠ざかる前に、廊下の向こうから別の足音が近づいてくた。迷いのない歩き方だ。ヒューバートが扉の前に現れる。
「リーゼ」
彼は、まずリーゼロッテを呼ぶ。母へ礼をするのは、その後だ。しかも短い。
「と、シュザンナ様、あの、何か問題が?」
彼は部屋の中を見る。
机の上の帽子、詩集、刺繍枠、香水瓶。窓辺のショール。暖炉上の押し花。それが目に入っているだろう。
それでも、問題が何か分かっていない顔だ。
「わかりませんか? カーライル嬢の私物が残っています」
リーゼロッテは言う。
「ああ、そのことか。《《急に》》移ることになって、アネットも混乱していた。あとで移せばいいだろう」
「《《昨日》》、部屋を返すと決まりました」
「だから、もう寝台も替えてある。掃除も済んでいるじゃないか」
「私物が残っています」
「リーゼ……」
彼は少し笑おうとする。だがリーゼロッテには、その笑い方が、嫌だった。こちらの怒りをなだめる前提で、すでに口元が動いている。
「《《たかが部屋》》のことで、そこまで」
ぴしり、とその時空気が凍ったような感触があった。母夫人の表情が微かに動いただけで。
ミセス・ミュラーの顎がほんの少し下がる。ハルトマンのペンが帳面の上で浮いたまま止まる。アニーは布見本の箱を抱える腕に力を入れる。
そしてリーゼロッテはヒューバートを見る。
「《《たかが部屋》》」
「言葉のあやだろう? いつもいつも君はそういうところを」
「たかが部屋なら」
リーゼロッテは机の上の白い帽子へ目を向ける。
「なぜ、三日も返せなかったのですか」
ヒューバートの口が止まる。
「《《たかが部屋》》なら、なぜ病人を一階の客間へ移せなかったのですか。なぜ私が布見本を置けないのですか。なぜメイドが今、呼び方を迷ったのですか」
「い、いや、そんなふうに一つ一ついちいち詰めなくても」
「詰める必要が出てしまったから、詰めています」
母がリーゼロッテの横へ立つ。
「ヒューバート様。部屋は寝台だけではないのですよ。誰を迎えるか、誰が支度するか、誰の名で呼ばれるか、どの品を置くか。そのすべてが、その部屋の主を示します」
「え…… でも、アネットは数日いただけですよ」
「数日の客人の残り香が、婚礼準備の部屋に残っています」
母の声は静かだ。
「そして貴方は、それを《《たかが部屋》》とおっしゃった」
ヒューバートは母を見る。少し慌てたように言う。
「シュザンナ様、私はそのような意味で」
「それでは貴方はどのような意味なら、《《婚約者の部屋》》を《《たかが部屋》》と言えますか」
返事が遅れる。
廊下の奥で、誰かがトレイを置く音がした。青の客間へ運ぶ茶かもしれない。南棟二階まで、その音が届く。
屋敷中が聞いているようで、実際には誰も顔を出さない。
ヒューバートは、ようやくリーゼロッテへ向き直る。
「……リーゼ、君は本当に変わった」
「今そういう話をしますか? それに、変わったのは部屋です」
「そういうことを言っているんじゃない」
「私はずっと、部屋の話をしていますが?」
ハルトマンが帳面に続きを書く。たかが部屋。その言葉も、たぶん記録に残る。
ヒューバートはそれに気づいたらしい。ハルトマンの手元へ目を向ける。
「そこまで記録する必要が?」
ハルトマンは顔を上げる。
「旦那様より、婚礼準備に関わる確認事項は記録するよう申しつかっております」
「これは家の内輪の」
「《《ラドクリフ家とエーレンフェルト家の婚約準備》》に関わることです」
ハルトマンの声は低い。家令として、必要以上の感情を出さない。けれど、言葉は硬い。
「なお、この婚約はヴァルトハイム侯爵のご調整を受け、王家のご意向に沿って進められております。記録の扱いは、当家の判断で決めます」
ヒューバートの顔が、そこで変わる。
――王家。
その単語が出ると、ようやく彼の中で別の棚が開いたらしい。
婚約者であるリーゼロッテには甘えられる。母には言い訳できる。父には後で謝れる。
けれど王家の意向と、上位貴族であるヴァルトハイム侯爵の調整となると、彼自身の「優しい自分」だけでは済まない。
母夫人がすぐに続ける。
「無論、この婚約を《《王命で縛る》》つもりはありません。けれど、《《王家の後押しを受けた婚約》》である以上、双方の家にはそれに《《ふさわしい扱い》》が求められます」
「分かっています」
ヒューバートは答える。
少し早い、とリーゼロッテは思う。分かっている人のそれは、もう少し遅れるものだ。
「でしたら、この部屋を本日中に空けてください」
リーゼロッテは言う。
「帽子も、詩集も、刺繍枠も、香水瓶も、ショールも、リボンも。カーライル嬢のものはすべて青の客間へ。青の客間に置けないものなら、箱へ入れてミセス・ミュラーの管理下に置いてください」
「アネットに聞いてから……」
「カーライル様ご本人に確認するなら、彼女が行えば足ります」
「アネットが不安がる」
「たかが品の移動で不安がる方を、まさか、明後日の茶会に連れて行くおつもりはありませんよね?」
ヒューバートの視線が、ほんのわずかに逸れた。初めて、部屋の中で別のものが見える。
母が動く。
「明後日の茶会とは?」
ヒューバートは言葉を探す。
「……ラドクリフ家と親しい方々の、小さな集まりです」
「どちらで?」
「マルヴィン伯爵夫人の」
母の目が細くなる。
マルヴィン伯爵夫人。王弟殿下妃の従姉にあたる方だ。
大きな政治の席ではない。けれど王家筋に近い家々の女たちが集まる茶会なので、出席者の顔ぶれは軽くない。
婚約中の令嬢が招かれれば、誰の隣に座るか、誰が馬車で迎えたかまで見られる。
「その茶会に、まさか、カーライル嬢を?」
「《《まだ》》決めていません」
ヒューバートは、今度は慎重に言う。慎重に言ったつもりなのだろう。
けれど遅い。
品の移動で不安がる病人。数日前まで南棟二階から動けなかった令嬢。その人を、王家筋に近い茶会へ連れて行く考えが、彼の中にはすでにある。
母はリーゼロッテを見る。娘は白い帽子を見る。菫色の造花は、午後の光を受けて、妙に生き生きしていた。
「ヒューバート様」
母が言う。
「カーライル嬢は病人として静養中です。昨日、医師から食事と薬と休養の指示も出ました。茶会へ出るお話があるなら、まず医師へ確認なさるべきです」
「もちろんです」
「それから、茶会があるなら、婚約者であるリーゼに先に知らせるべきです」
「内輪の茶会ですから」
「王家筋に近いご婦人の茶会です」
母が言うと、ヒューバートの返事が止まる。
「そこで、貴方が婚約者を伴わず、静養中の未婚女性を伴って出席なさった場合、見る方はどう受け取るとお思いで?」
「そんな、大げさな」
「貴方は部屋の件も、大げさではないとお思いでしたね」
母の一言で、ヒューバートの頬が赤く染まる。リーゼロッテはアニーへ顔を向けた。
「布見本は戻しましょう」
「かしこまりました」
アニーが箱を抱え直し、ハルトマンが帳面を閉じる。
「確認内容は以上でよろしいでしょうか、奥様」
「ええ。南棟二階は、本日この時点で、まだ婚礼準備の部屋として戻っていません。カーライル嬢の私物が残り、若旦那様が移動を止めている。そう記録して頂戴」
「承知いたしました」
「待ってください。今すぐ移せばいいのでしょう?」
ヒューバートが一歩出るが、母は足を止める。
「今すぐ、では遅すぎでしょう? こちらが来る前に整えておく約束でした」
ヒューバートは黙る。
「そして、昨日のその約束が守られなかったことを、今日確認しました」
母は扉へ向かう。
「全てきちんと整いましたら、改めて書状でお知らせください。こちらも改めて日を決めます」
「そこまでですか……」
「当然です」
短い母の返事を聞きながら、リーゼロッテは机の上の白い帽子を見る。
アネットがこの帽子をかぶって茶会へ出るのかどうか、まだ分からない。
けれど、ヒューバートの中ではもう、病人の寝台と茶会の席が同じ線でつながっていた。
*
廊下へ出ると、青の客間の方から柔らかい声が聞こえる。
「ヒューは?」
アネットだ。ミセス・ミュラーが、すぐに返す。
「若旦那様は、ただいま南棟にいらっしゃいます」
「また、リーゼロッテ様のお部屋?」
その言い方に、廊下のメイドが動きを止めた。
母は振り返らない。リーゼロッテは歩き続ける。南棟二階から、一階へ。玄関広間へ。
アニーが布見本の箱を馬車へ戻し、ハルトマンは書類入れを抱え、母夫人の横に立つ。
馬車に乗る前、母夫人はハルトマンへ言う。
「帰ったら、ヴァルトハイム侯爵への報告草案を出して頂戴」
「本日の件まで含めますか?」
「まだ送らないわ。けれど、いつでも出せる形にしておいて」
「承知いたしました」
リーゼロッテは馬車の窓から、南棟二階を見る。窓は開いている。白い帽子は、まだ机の上にあるのだろう。
馬車が動きだし、ラドクリフ家の門が、後ろへ下がっていく。




