12 三度目は、屋敷の外で起きる
翌朝、ラドクリフ家から書状が届いた。
――南棟二階の部屋は整えた。
――アネットの私物はすべて青の客間へ移した。
――婚礼準備の品を入れる際には、エーレンフェルト家の立ち会いを受ける。
文面は丁寧で、署名はバーナード伯のものだった。
母夫人はその書状を読み、父伯爵へ渡す。彼は目を通し、テーブルへと置いた。
「ふむ、一日遅い」
「そうですわね」
「だが、何とか形は戻したか」
「形だけ、はですね」
リーゼロッテは両親のそのやりとりを聞きながら、茶を飲んでいた。
南棟二階の部屋は整理された。それ自体は必要なことだ。
けれど、あの部屋に婚礼の布見本を入れる気にはまだなれない。
白い帽子の置かれていた机。菫色の造花。香水瓶。呼び方に迷ったメイドの声。
部屋というものは、空ければ戻るというものではない。戻すには、《《誰の部屋か》》をもう一度決め直す必要があるのだ
やがて、ハルトマンが、次の封筒を持ってきた。
「マルヴィン伯爵夫人より、奥様とお嬢様へ」
母の手が止まり、父が顔を上げる。
マルヴィン伯爵夫人は、王弟妃の従姉にあたる女性で、王宮の内側に近い家々と古くから付き合いがある。
政治の席に名を出す人ではないが、どの家がどの家と距離を取っているか、誰が誰を軽んじたかを、いち早く見ている。
今日の午後、その方の茶会がある。
封を切って読み進めた母の表情が、次第に消えていく。
「お母様――」
「……」
母は手紙を黙ってリーゼロッテへ渡す。
文面自体は短かかった。
――本日午後の小茶会につきまして、ラドクリフ家よりご同伴者の《《変更》》を承りました。
――ヒューバート・ラドクリフ様は、アネット・カーライル嬢をご同伴とのこと。
――当初、リーゼロッテ・エーレンフェルト嬢のお名を伺っておりましたため、念のため確認を差し上げます。
――ご都合が許すようでしたら、シュザンナ様、リーゼロッテ嬢にもぜひお越しいただきたく存じます。
リーゼロッテは文字を見たまま、少しの間固まった。
変更、とある。
つまりマルヴィン伯爵夫人の茶会の席には、当初、ヒューバートとリーゼロッテの名があった訳だ。婚約者同士として扱う予定として。
ところがそこへ、アネットの名が急に入ってきた。
――ご同伴者の変更。
そもそもが、自分が出るはずの話だったというのはリーゼロッテにとって初耳だった。
「リーゼは、招待状を受け取っているか」
父が尋ねる。
「いいえ」
「ラドクリフ側から打診は」
「ありません」
「ヒューバートからも」
「ございません」
父は指先で卓を一度叩く。
「そうか」
その一言は低い。
母がハルトマンへ言う。
「マルヴィン伯爵夫人へ返事を。参ります、と。私とリーゼロッテの二名で」
「かしこまりました」
「父上」
リーゼロッテは父を見る。
「私、行ってまいります」
「行け」
父はすぐ答える。
「そこで誰がどの席に座るか、しっかり確かめてくるんだ」
「はい!」
「それにハルトマン」
「こちらに!」
「ヴァルトハイム侯爵への草案を、今度は正式文の形に直せ。まだ出すな。帰宅後に追記する」
「承知いたしました」
ハルトマンが下がり、母も席を立つ。
「支度をしましょう」
茶会に出る支度は、見舞いとも抗議とも違う。
リーゼロッテは深緑の昼のドレスを選んだ。襟元は詰め、飾りは控える。帽子は濃藍。羽根飾りは短く、リボンは幅の細いものにする。
華やかさで勝ちに行く場ではない。リーゼロッテが《《婚約者として出るはずだった席へ、遅れて招かれた》》。
その形を崩さない方がいい。
アニーが帽子を整える。
「お嬢様」
「何?」
「ここは、菫色は避けますね」
「ええ、お願い」
「深緑と濃藍で、十分でございます」
彼女はそう言って、針を一本抜いた。
鏡の中で、リーゼロッテは自分を見る。
とりあえず今は、怒っている顔には見えないだろう。それでいい。
怒りは、席に着いてから使おう。
*
マルヴィン伯爵邸の温室は、王都でもよく知られている。
大きな曲面の硝子天井から光が落ち、鉢植えの柑橘と冬咲きの花が並んでいる。
白い卓布の小卓がいくつも置かれ、招かれたご婦人方が、ゆっくりと席を移りながら茶を楽しむ。
ここでは誰も大声を出さない。けれど、ささやき声の届く範囲は広い。
リーゼロッテたちの馬車が到着すると、マルヴィン伯爵夫人自らが入口近くまで行き、出迎えた。
銀に近い髪を高く結い、薄い灰紫のドレスを身にまとう、年齢を重ねた人だけが持つ、やわらかい迫力がある。
「シュザンナ様。リーゼロッテ様。急なお招きに応じてくださって、感謝いたします」
「こちらこそ、お心配りをいただきありがとうございます」
母が礼を返す。マルヴィン伯爵夫人はリーゼロッテを見る。
「リーゼロッテ様、お会いできてよろしいわ」
「お招きいただき、光栄です」
「ええ。《《今日はぜひ》》、お顔を見たかったの」
なるほど、その言い方で、すでに来ているのだと彼女には分かった。
視線をそっと渡すと、温室の奥、白い小卓のそばに、ヒューバートが立ち、隣にはアネットがいる。
白い帽子。菫色の造花。淡い水色のドレス。
昨日まで病人として青の客間に移された人とは思えないほど、身支度を整えている。
顔色はまだ白いが、その白さも、今日の服装には似合っていた。
ヒューバートは、彼女の椅子の背を率先して引く。そしてその彼の動きを、ここでは何人もの目が見ている。
二人はマルヴィン伯爵夫人に案内され、温室の中央へ進む。
アニーは入口近くで控える。ハルトマンは同行していない。ここは茶会であって、確認の席ではないからだ。
やがて、ヒューバートがこちらに気づき、表情があからさまに変わった。
「リーゼ……!」
また、その呼び方だ。
彼は一歩こちらへ出る。
「どうしてここに……?」
マルヴィン伯爵夫人が、扇を閉じる。
「私がお招きしましたのよ、ラドクリフ様」
ヒューバートの口が止まる。
アネットが椅子の横で立ち上がりかける。けれど、ヒューバートが引いた椅子が半端な位置にあり、ドレスの裾が少し引っかかった。彼女は小さく揺れ、近くのメイドがすぐに支える。
「ごめんなさい。わたし、失礼を」
「どうぞお掛けになって」
マルヴィン伯爵夫人は穏やかに言う。
「《《静養中と伺っておりますから》》」
その一言で、温室の中の数人がこちらを見る。
――静養中。
――なのにこの場へ来ている。
アネットは椅子に座り、ヒューバートはその横に立つ。
リーゼロッテと母は、マルヴィン伯爵夫人に示された席へ進む。ヒューバートたちの斜め向かいだった。
彼らの姿は見えるが、同じ小テーブルには入らない。見事な配置だ。
「本日は、ラドクリフ様の《《ご同伴者のお名前が朝になって変わりました》》ので、少し心配いたしましたの」
マルヴィン伯爵夫人は、茶を注がせながら言う。声は大きくない。だが近くの小テーブルには十分届く。
「《《当初は》》リーゼロッテ様と伺っておりました。《《婚礼も近い方々》》ですもの、こちらも席を考えておりましたのよ」
ヒューバートの頬が赤くなる。
「マルヴィン伯爵夫人、それは」
「ええ。確かに内輪の小さな茶会ですわ」
夫人は微笑む。
「ですから、余計にこういう席は大切ですなのですよ」
聞きながら、母がカップを受け取り、リーゼロッテは茶の色を見る。
薄めに淹れてある。マルヴィン伯爵夫人の気配りだろう。
アネットの前にも、同じように薄い茶が置かれている。茶請けには小さな塩味のクラッカー。砂糖菓子の皿は、彼女の近くにはない。
医師の話を、どこかから聞いたのかもしれない。
「ラドクリフ様?」
母が静かに言う。
「私は、《《リーゼが》》本日こちらへ伺うはずだと、存じませんでした」
「あ…… 急なことでしたので」
「貴方から打診も受けておりません。先日、茶会があるという話も耳にしたばかりですが?」
「リーゼは婚礼準備で忙しいと思いまして」
「その忙しい婚礼準備は、どなたとのものですか」
ヒューバートの返事が止まる。アネットが小さく言う。
「わたしが悪いのです…… ずっと部屋にいて気が沈んでしまって。《《ヒュー》》が、少し外の空気を吸えば元気になるだろうって」
ヒュー。
この温室で、彼女はやはりそう呼んだ。周囲の扇が、ほんの少し動く。
「カーライル様」
リーゼロッテは初めて口を開く。
「医師から食事と薬と休養の指示を受けられたはずですが?」
「ええ。でも、今日は少し具合がよくて」
「それは何よりです」
リーゼロッテは茶のカップを置く。
「たしか、南棟二階から一階の客間へ移ることには不安がおありでしたね」
アネットの目が揺れる。
「それは、急なことだったので……」
「昨日の午前には、持ち物を移すことにも確認が必要でしたし?」
「大事なものがあったから……」
「そして今日は、馬車でこちらへ」
アネットは唇を閉じる。
リーゼロッテは彼女を責め立てるつもりはない。ただ事実を、アネットやヒューバートが今まで言ってきたことを並べただけだ。
――南棟二階から一階へ移ることに不安がある。
――持ち物の移動にも確認が必要。
――食事と薬の時刻を整える必要がある。
――数日前まで、長距離の移動を避ける話があった。
そんな病人が、王家筋に近いご婦人の茶会へ来ていることに矛盾があるというのに。
マルヴィン伯爵夫人が、ゆっくり扇を開く。
「カーライル様、お身体は大切になさらないと。静養中の方をお迎えするなら、こちらも医師のご指示に沿う支度をいたしますわ」
「ありがとうございます」
アネットは小さく頭を下げる。
「でも、わたし、本当に迷って…… リーゼロッテ様にご迷惑ばかりで、ラドクリフ家にも居づらくて。それで、ヒューが」
「《《ヒューではありません》》」
リーゼロッテの声が、自分で思った以上にするりと出た。
アネットは固まり、ヒューバートがリーゼロッテを見る。
「リーゼ」
「《《ヒューバート様》》です」
リーゼロッテは続ける。
「少なくとも、《《この席》》では」
温室のどこかで、誰かが息を呑んだ。母はカップを持ったまま、視線を下げていて、娘を止めることはしない。
「私は婚約者であっても、ヒューバート様を愛称でお呼びしておりません。カーライル様が《《私的に》》どのように呼んでこられたかは《《存じません》》が、今日は王家筋に近いご婦人の茶会です」
ヒューバートの表情が硬くなる。
「いや、君、今ここで、そこまで言うことなのか? それは」
その言葉で、マルヴィン伯爵夫人の扇がぴたりと止まり、母が顔を上げる。
リーゼロッテはヒューバートを見る。
「昨日は、《《たかが部屋》》とおっしゃいました」
「それは」
「今日は、《《そこまで言うことか》》、と」
リーゼロッテはゆっくり、かみ砕くような口調で言う。
「部屋も、席も、呼び方も、《《そこまでのことではない》》。そうお考えなのですね」
「いや、違う。《《君が》》あまりに」
「《《私は》》確認しています」
ヒューバートは椅子の背に手を置く。アネットの椅子だ。
その手の位置を、周囲が見ているというのに、彼は気づいていない。
「ラドクリフ様」
マルヴィン伯爵夫人が言う。
「本日、こちらでは当初、貴方とリーゼロッテ様を婚約者としてお迎えする席を用意しておりました」
「あ…… それは、失礼致しました。こちらの説明が足りず……」
「謝罪の先が違いますわ」
夫人は穏やかに言う。
「席を替えるなら、まずご婚約者へお話しになるべきでした。私へ届いたのは、同伴者変更のカードだけです」
ヒューバートはリーゼロッテを見るが、それでも、まだ言葉を探している。
「ですが、リーゼは、リーゼなら、分かってくれると思っていたんです」
来た。まただ。
分かってくれる。
リーゼロッテの中で、何かが心の中で形が定まる。まるで炭の中の火が鉄のように赤く一定になるかのように。
「ヒューバート様」
「何だい?」
「ここしばらく考えておりました。貴方の予定では、私は何を分かるべきでしたか」
彼は答えない。
「病人が婚礼準備の部屋を使うことですか?」
アネットがうつむく。
「その部屋の私物を残すことですか?」
ヒューバートの指が椅子の背をつかむ。
「婚約者へ知らせず、王家筋に近い茶会へ別の未婚女性を伴うことですか?」
温室の奥で、誰かの扇が小さく閉じる。
「私は、《《家と王家のご意向を踏まえて》》、この婚約に《《礼を尽くす》》つもりでおりました。貴方を夫として迎えるなら、支えるつもりもございました。ですが、それは、私の席を誰かへ譲る約束ではありません」
ヒューバートの表情がようやくそれまでと違ったものに変わる。
驚きでも、理解でもない。衝撃だ。
自分の持っていると思っていたものが、実は自分のものではなかったと知らされたことに彼は今更のように驚いていた。
「リーゼ、私は」
「《《リーゼロッテ様》》、でしょう?」
母の短い言葉が、ヒューバートの口を閉じさせる。
マルヴィン伯爵夫人は、リーゼロッテと母を見てから、茶を一口飲む。
「本日の件は、私の茶会で起きたことです。席次の記録もございます。必要でしたら、私からヴァルトハイム侯爵夫人へご説明いたしましょう」
ヒューバートは、はっと夫人を見た。
ヴァルトハイム侯爵家。
今回の婚約を《《王家の意向に沿って調整》》した家だ。王家そのものではない。
だからこそ、制度の話としては穏やかに済む。
けれど、そこへ報告が行けば、ラドクリフ家は「知らなかった」では通らない。
母は静かに頭を下げる。
「お心遣い、感謝いたします。ただ、まずは当家からご報告いたします」
「そうなさるのがよろしいわ」
マルヴィン伯爵夫人は満足したようにうなずく。
「わたし、そんなつもりでは」
小さく震える声を出すアネットを、リーゼロッテは見据える。
「では貴女は、《《どのつもりで》》こちらへいらしたのですか」
前にも発した問いかけだ。しかも今度は、ラドクリフ家の応接室ではない。王家筋に近い夫人の温室で、扇を持ったご婦人方の前だ。
そして、アネットは答えられない。
ヒューバートが何か言おうとするが、マルヴィン伯爵夫人が先に口を開く。
「さあカーライル様、ご静養中のお身体に障りますわ。奥の控え室でお休みなさい。薄い茶と、医師の指示に差し障りのないものを用意させます」
「……ありがとうございます」
アネットは立ち上がる。今度はヒューバートではなく、マルヴィン伯爵夫人の侍女が支えた。
彼女は一瞬、ヒューバートを見る。けれど夫人の侍女が迷わずアネットを奥へ案内するので、ヒューバートは動けない。
ただ、その椅子の背に置かれた手だけが、場に残っている。
そして茶を飲み終わった母が立ち上がった。
「マルヴィン伯爵夫人、本日はお招きありがとうございました」
「こちらこそ。シュザンナ様、リーゼロッテ様。後ほど、改めて」
「ええ」
リーゼロッテも立ち、その場を去ろうとした時、ヒューバートが前に出てきた。
「待ってくれ!」
「何をでしょう」
母は娘の前に出て問いかける。
「リーゼと話をさせてほしいんです」
「本日の席で、十分に話は見えましたでしょう?」
「私は、ただアネットを元気づけようと」
「そのために、婚約者が着くべき席を、貴方は使いましたね?」
母の声は静かだ。
「これは、三度目です」
ヒューバートが黙る。
「一度目は、南棟二階の部屋。二度目は、その部屋の返却。三度目は、本日の茶会です」
母は優雅に、しかし容赦なく扇を閉じる。
「次の話は、ヴァルトハイム侯爵を通してお願いいたします」
ヒューバートの顔から、完全に色が引く。どうやら今度こそ、彼にも分かったのかもしれない。
リーゼロッテと母はそのまま温室を出ていく。背後で、誰かが低い声でヒューバートに話しかけている様だ。マルヴィン伯爵夫人だろう。内容は二人には聞こえない。聞く必要もない。
*
馬車に乗ると、母はしばらく黙っていた。
リーゼロッテも窓の外を見る。温室の硝子に、午後の光が反射している。中には白い帽子の影が動いているかもしれない。
馬車が門を出た時、母はようやく口を開いた。
「帰ったら、ハルトマンに出させます」
「ヴァルトハイム侯爵へ、ですね」
「ええ」
リーゼロッテは膝の上で指を重ねる。
「私も、ウォルフに手紙を書きます」
母が少しだけこちらを見る。
「そう」
「婚約がどう動くかは、侯爵からの返答を待ちます。けれど、あの人には私から」
「ええ。そうしなさい」
馬車が石畳を進む。
三度目は、屋敷の外で起きてしまった。
だからもう、屋敷の中だけで片づける話ではない。




